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夏の時と旅の時

 夏は、夏だけは、他の季節と違う時間が流れる。これはどうにも合理的な説明がつかない感覚なのだけれど、同じような感じ方をしている人は少なからずおられるのではないだろうか。
 暦で言う夏とはまたちょっと異なる。6月になったから、7月に入ったから、夏の時間がやってくる、というわけではない。梅雨明けとシンクロしていることは多いが、気象庁が夏の時間を管理しているわけでもない。

 それは、小笠原気団が入道雲と夏のオーラを運んでくるように、ある日突然、時間のモードを書き換えてしまうのだ。
 ランボーだったら、「L'Éternité / 永遠」と呼んだかもしれない、ひどく奇妙な時間が地上に満ちる。
 生命があっちゃこっちゃで燃焼し、色彩がひどく鮮鋭さを増し、光と影のコントラストが極まる。
 子ども時代の夏休みの感覚を世界全体が演じている感じになる。

 旅に出たくないわけがない。
 しかし昨今は、往時と違って夏は危険なまでに暑いし、道路を走っていて涼しげな風に巡りあう機会も減ったので、真夏に自転車旅やサイクリングをするようなことは異常なことになってしまった。もちろん私だって現在はとても推奨できない。熱中症になってしまうからやめてくれ、と言うだろう。
 ただ1970年代後半などは今とは異なっていたのだ。ここまで気温が高くなかったし、街を流していてエアコンの熱風を感じることもほとんどなかった。木立や田んぼもあちこちにあったから、そういうところの近傍では比較的涼しい風が吹いていた。
 そういう時代の夏は、今とは少々異なっていたのだ。

 永遠に通じるような、宇宙的な感覚に貫かれているのが夏という季節で、その中で旅した記憶もまた永遠の刻印を帯びている。そういう奇跡的な旅ができた時代があったのだった。
 何かひどく特別な風景や、特別な道に行き当たったというわけではない。そのあたりにある、つまりある意味、市井や野辺のいたるところにあるような事物が、そのような夏の中では独特な輪郭で輝いていた。
 それは、小さな丘のような丘陵のあいだを埋め尽くす水田の緑だったり、ランドナーを外に停めて立ち寄った、昼下がりの誰もいないローカル線の待合室だったり、旧道の風情を色濃く残した家屋の連なりだったりした。
 そこにあってむしろ当たり前に近かったものが、世界の美を示すようなもにさえ見えた。そういう意味では、夏は魔法をかけていると言ってもおかしくなかった。

 その魔法の効果は、夏の終わりに最も高まる。もうすぐ夏が終わってしまうという、9月の初旬あたりにピークになる。
 「永遠」が終わる、というのは矛盾ではあるが、夏がじきに去ってゆくという気配の中でこそ、夏がもたらした世界の美しさが切実なものになる。
 だから9月に入って数日経った頃に旅に出るのが好きだった。その頃は宿もとりやすいし、あちこち、8月のように混雑しているということもない。もちろん今ほど暑くもなかった。

 夏はまた、青春の象徴でもある。若い日々には、人は身体の扱い方を持て余す。若い日々に見えなかったものは、失われた若い日々の置き換えのように人に届くことがある。
 あるとき、ふと考えたりするのだ。夏に本当に時間というものがあるのだろうか。永遠というのは、時間が静止したということではなくて、時間が存在しないということではないのか。
 だとすれば、夏は多次元的であり、生と死や、若さと老いも超えているということなのだ。

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