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食い足りない旅行記

noteには旅に関する記事が多いように思える。これは私自身が旅に関する記事を多く書いていることから、アルゴリズムによって表示される他人の記事もまた、旅に関するものが多くなるという法則に従っているだけなのかもしれないが、それにしても旅系の記事は目立つ。

旅は多くの人にとって、人生の中での重要なイベントである。冠婚葬祭に次いで意味の大きなイベントであると言って間違いはなかろう。一年に一度は遠出の旅をしたいと思っている人は少なくないはずだ。

そういうことのせいか、noteにも旅行記や紀行文は多い。目的地や手段はさまざまである。ふつうに新幹線や航空機や車を使ってホテルに泊まる人もいれば、車中泊や自転車旅行を愉しむ人もいる。国内が多いが、海外にもどんどん足を伸ばす行動力のある人たちもいる。

だから、旅行記や紀行文の類も必然的に多くなる。旅は、買春旅行のような背徳的なものでない限り、通常はその内容を大いに語りたくなるようなものであるから、人はペンを執るのである。

だが、すまぬが、多くの旅行記や紀行文は似たりよったりで、はっきり言えばあまり面白くはない。noteに掲載されている旅の文章も同様である。

そんなことを昨日、自転車の旅仲間でもある友人に伝えたら、彼はこんなことを言った。「最近の若い人の中には、他人とコミュニケーションをとることをいやがる人が少なくないようです」

そう言われてみて、確かに思い当たることがあった。もう10年くらい前のことだが、ドキュメントで青年たちの自転車旅を追いかけるような企画のテレビ番組があって、何人かの若い自転車ツアラーを取材していたが、その中に旅先でのコミュニケーションをできるだけ避けるようにしている若者がいた。

どうやら彼は自分のそういう部分を変えたいと思って旅に出たようなのだが、実際には変化は見られず、旅先で必要な情報の取得はスマホ頼みだった。取材の続いている期間、それは変わらなかった。自転車修理を頼んだショップの店先でも、その口は噤まれていた。

旅に於いても、できるだけ人と接したくないというのが今日びのご時世の主潮なのかもしれない。ひるがえって考えれば、全国にホテルブームというものが訪れて、おかみさん一人でやっているような小さな旅館や宿の衰退が始まったのも、2000年以降という気がする。

確かにスマホが1台あれば、こんにちならほとんどの宿が宿泊関連サイトで予約が可能である。いちいち何時に着く予定だとか電話で説明する必要もない。交渉の必要性がないのだ。本当はそこがスリリングで面白いのだが。宿は楽にとれるようになった。そのため、逆に宿が取れて「ほっとした」と思うようなこともない。楽なことは、喜怒哀楽の一部を奪うのである。

自転車をどうやって宿の館内または屋内、あるいは盗難の心配のないような場所に置かせてもらうかということも、自転車旅行者にとっては重要なことなのであるが、これも、ブロンプトンに代表されるような高機能折り畳み自転車には不要なことである。宿の入り口に着いたら、ささっと折り畳んで袋に入れてしまえばいい。荷物になってしまえば、ホテルの居室に持ち込むことも咎められる心配はない。

かくして、ここでも地元の人とのコミュニケーションの機会は絶たれる。もちろん、そうしたコミュニケーションがいつも愉しいものとは限らない。中には自転車を汚れものと考え、自転車旅行者を半ば蔑視するような人もいるからである。が、そういう経験も含めて「旅」なのであるが、そこをできるだけ避けて通りたい、自分の旅を正解だけにしたいと思っているのが、こんにちの考え方である。

ふつうの公共交通機関や自動車を利用した旅はもちろん、自転車旅行者であっても、今どきの旅人はホテルやビジネスホテルを好むように思われる。ホテルやビジネスホテルでは、家にいるときと大差ないような環境が提供される。部屋の中にバスルームやトイレやベッドやテレビがある。フロントで係の人と話すことは最低限で済む。「どこから来て、どこへ行くの?」と尋ねられることもない。ある人々にはそれがたまらない魅力なのでもあろう。ユースホステルも今では昔のようにミーティングを行うことや相部屋であることは少なくなったようだ。それも時代の流れであろうか。

旅に出てコミュニケーションを求めないというのは、正直なところ、私にはよく分からない。なぜなら、旅に出る動機の一つは、この広い世界の中で、必要な人と出会うことだからである。旅に関する古いフォークや歌謡曲の歌詞には、「どこかで誰かが待っていてくれる」みたいな一節が多かった。漠然とした憧憬ながら、自分がどこかで必要とされているということを再確認したかったのである。

実際にはそういうことに行き当たることは多くないのではあるが、旅の動機として密かに抱えている人は少なくなかったはずである。その旅が、「人生の外側を目指す旅」である限り。そして日常生活の限定されたビジョンを超えて、この世界の謎めいた成り立ちを見据えたければ、徒歩やヒッチハイクや自転車のような手段で旅をすることがふさわしかった。

今の人たちが書いた旅行記や紀行文に面白味が少ないのは、旅先でのコミュニケーションが少ないことに加えて、人生の外側にある価値観を発見したいという態度がろくに見られないからでもある。

もっともそれはある種危険でもある。場合によっては人生をドロップアウトするような誘惑にも満ちている。極端な場合だが、冒険家は多くの場合、自分の命が失われるまで旅を続ける。そこまではいかなくても、放浪に近いような人生になる場合もある。一種の出家である。

しかしこれもまた今風の旅人にはほとんど当てはまらない。ブロンプトンを新車で買えるような人は、ボーナスの多い恵まれた経営環境の企業に務めていることが多く、生活は安定しているのだ。昔の旅人の少ならからざる割合がアウトサイダーだったことと異なり、世の中のオーダーに従っている人が少なくないのである。

そういうことからなのか、旅行記における描写も観光ガイド的になっているケースが目立つ。どこそこの風景が美しかった、どこそこの名物料理が良かった、どのエアラインのサービスが素晴らしかった、などである。そして少なからず時間に追われている。幸福体験をできるだけ増やそうと、訪れるポイント数を限界まで多くしているのである。

その背景にはいろんな事情があるだろうが、一つは、「良い点を採る」ことであろう。観光地に代表される来訪ポイントでできるだけ「正解」を稼ぎ、自分の旅という試験で好成績を残したいと考えているように私には見える。

受験勉強のやりすぎなのだ。本人たちはそう意識はしてはいないだろうが、40万円もするような折り畳み自転車をポンと買えるようになった自分の人生進路をずっと維持しようとしているように見える。だから旅も正解だらけのものにしようと思っている。

そんな必要はない。事故で死んだり大怪我をするようなことは困るが、旅には失敗や苦難もあっていいのである。なぜなら人生には所詮答えはないからである。死ぬまでそれは分からないだろう。

同じような自転車に乗り、同じような宿に泊まり、同じような旅をしていれば、書き上げる旅行記や紀行文も似たようなものになるだろう。同じようなものであって何が悪い、という意見ももっともだが、自分と同じ顔の人が同じ自転車に乗って同じ宿に泊まっていれば気持ちが悪いだろう。

同じように新幹線や電車や車に乗り、同じようにブロンプトンに乗り、同じような旅行記を書く。近代という時代はそういう風にして、人間と人間の作るものを大量再生産していくのだろうが、私にはそれは不気味だ。

ブロンプトンが嫌いなわけではない。折り畳み機構に関してはよくできた自転車だと思っている。ただ私にはそれを買うだけの財力がないし、皆が皆同じような自転車に乗ることにも我慢がならないだけだ。

近代という時代は、大量生産によって人々の生活を便利にしたが、同時にまたそれを画一化した。今、この時代の終焉に近い場所にわれわれは差し掛かっている。近代のシステムは、人心も大量生産し、旅行記や紀行文も大量生産して、そこから何かを奪ってゆく。その「何か」は、旅に出てみないと分からないのかもしれない。




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