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「急行東海・断章」(中編小説/その4)


 君はそうした映像が脳裏に見えてからしばらく、呆然と席で佇んでいた。店主の夫婦は相変わらず会話を続けていた。しかしそれはもう君の耳には入ってこなかった。
 あれは過去世のことだったのだろうか。あれはたぶんヨーロッパの緯度の高い地域で、だとしたら、自分は前世か前々世、そういうところで生きたらしい。それとも、誰かの記憶が電話線の混信のようにどこからか入り込んできたのだろうか。
 年齢を重ねるにつれ、君にはそうした不確かな過去らしきものの断章が多く集まってくるようになった。行ったこともない場所に、説明のつけようがないノスタルジアを感じることもあった。そういうとき、君はそこにいて、東京の西の外れの片隅の街に暮らして、夜テレビを見ていて、南米の赤い土の大地を黒い雲となって渡って行くイナゴの群の中に立っていたり、あるいは腐肉のような匂いのする西アジアの得体の知れない裏路地に迷い込んだような気分になった。
 どこまでが自分か、わからなかった。わからなくなった。
 山木聡一と付き合うようになって、互いの時間を重ね、そしてある日、体を重ねるようになってからも、自分と違うところに別の自分がいるような感覚は残り続けた。出版社に籍を置き、編集者として文章も書く君だったから、そうした心魂の謎や存在の秘密のようなことについて触れた本は何冊も読んだ。
 しかしそこには期待していたような答えはなかった。
 聡一に君が求めたのは、あるいは、そういう答えそのものでないにせよ、答えを探すための糸口だったのかもしれない。彼と一緒にいると、君は、人生がその中で完結すべき美しい完全な物語である必要がなくなり、この星の上に無数にある道路と旅のひとつの比喩に過ぎぬようにさえ思えてきて、その意味では、気楽になったのだった。
 君は聡一にも、その話をした。自分という存在の根に入り込んでいるらしい、中世や古代や、もっと昔のものかもしれない記憶について。
 君の1LDKの部屋に聡一が初めて泊まっていった日の夜だった。秋の終わり、その時節の最初の木枯らしが吹いた夜、二人は足りない寝具の中に夏もののタオルケットも重ねて肌を寄せ合った。近所から最後の雑木林が消えた年だった。風は建て付けが怪しくなった旧いアルミサッシを鳴らし、どこかずっと遠くで武蔵野の欅の梢を鳴らし、二人の心臓の音だけをひとつの響きの中に結びつけた。
(この風の音、なんだか山のそばにでもいるみたい……ねえ、私ね、森のようなところが怖いのよ)
(森は、怖いものだよ。特に夜は。森の外れでキャンプしていても怖いことがある)
(武蔵野や多摩でも、残ってた木立ちがずいぶん伐られたじゃない?)
(そうだな、ここ数年でね。皆んな宅地になったか、マンションになったか)
(でもね、木が伐られても、木霊は生きてるのよ、私、そう思う。雑木林が無くなればなくなるほど、かえって森のオーラみたいなものは強くなってる)
(そういうものかな……うん、そうかもしれない……でもそうだとすれば、なぜだと思う)
(え……わかんない)
(もう一度そこを森にしようとして、山とか、別の雑木林のほうから、森のエネルギーを送ってくるからさ)
 二人は三鷹の晩秋の夜をそうやって過ごした。それからしばらくして、君は、聡一もまた君と同じように、現実の時間や空間と違うところに接触することがある人間だということを知った。ただ、その接触の仕方が、君とは少し違っていた。

 中央高速を走る聡一のシビックは、大月のジャンクションから河口湖方面へ向かう富士吉田線に入った。夏の終わりの週末だったが、それほど混まず、渋滞に巻き込まれずに済んだ。
 精進湖の湖畔に車を止め、聡一は釣り用の手漕ぎボートを借りた。シビックの荷台から釣り道具を取り出して、岸辺に半分乗り上げているボートを適当に選び、荷物と道具を乗せて君を艇尾に座らせると、慣れた手つきでボートを押し出しながら自分も乗り込んだ。運動神経が良さそうなタイプには見えないのに、オールさばきは巧みだった。
 水面の上は涼しかった。君は最初のうちは底が見えない深みが怖かったが、しばらくするとそれなりに慣れた。ボートは湖面を横切って進み、そのうちに対岸の岩場に近付いた。
 岩場は富士山から流れてきた溶岩の塊で、そちら側には道路も何もなく、黒ずんだ溶岩の向こう側に草地が広がり、その中にところどころ潅木が立っているだけだった。
 溶岩帯の中に、ちょうどテニスコート二面くらいの広さで湾になっているところがあり、聡一はそこにボートを漕ぎ入れた。
 湾の中は少し浅いようで水の色が横切ってきた水面と異なっていた。岩場に近付くと、緑色の水の中に光が差し込んでいるのが見えた。魚が何匹か、そのあたりを遊弋していた。ボートが惰性で静かに進んでゆくと、魚たちもしばらく岩場と平行に泳ぎ、それから立ち止まって岸のほうを向き、しばらくそのまま定位して何かを待っている風だった。魚は掌より少し大きいくらいで、尾びれに黒い筋があった。
「見えるだろ。あいつら。あそこで、自分たちと岸のあいだに獲物が入ってくるのを待ってるんだよ」
「獲物って?」
「岸から落ちてきた虫とか、不用意な小魚とか、羽化するために浮かんできたヤゴとか」
「そんなに都合よくいくのかしら」
「いく場合もあるね。そうじゃないと、ここまで育つことができなかっただろ」
 君は特に釣りにも魚にも強い興味はなかったが、湖上の風景や静けさは気に入った。北岸沿いの道路からときどき聞えてくる車の音以外には、ほとんど物音というものはなく、うす曇りでもときおり陽射しの強さは感じるものの、水面を渡る風は涼しかった。
 それに聡一がいつもと少し違う様子なのも、悪くはなかった。子供っぽい遊びと言ってしまえばそれだけなのに、どこか不思議な切実さがあった。人間のやっていることっていったいなんだろう、都会で朝から晩まで働いて、帰ってきて食事をしてシャワーを浴びて寝て、また翌朝出かけてゆく。でもいちばんしたいことが、こういう野外遊びだとしたら?なぜ最初からそういう風に人生を組み立てようとしないのだろうか。そうできないことはわかっているけれど、なぜ、そうできないような世の中をみんなして作りあげているのだろうか。どこかに、罠のようなものがあるんじゃないだろうか。
 君は聡一の肩越しに、流れてゆく高原の雲を見ていた。見ているうちに、それはこの星の空という岸辺に寄せられた船のようにも思えてきた。あの雲の中には、人間たちの一生を見ているような存在がいるのかもしれない。人はどうしてか、教会や寺院で神や仏に会おうとする、でも、空ならどこにでもある。どこにでもあるのだから、どこにでも彼らはいるだろう。
 聡一がまたオールをさばいて、岩場につけていたボートを動かし始めた。
「あのいちばん奥の、少し左の岩のあたりに食い気が立っているのがいる」
「見えるの? ここから?」
「見えないさ。そういう気がするだけだよ」
 気がつけば聡一は真剣な面持ちになっている。オールの扱いがこれまでと違う。船足静かに、ボートを寄せて行った。その岩まで十メートルを切るくらいのところで向きを変え、君にもポイントが見えるようにした。それからリールのついた短いロッドを片手で持ち、君のいる艇尾側と反対側でロッドを振った。
 釣りをしたことのない君にも、いったいなんでこんなもので魚が釣れるのか、擬似餌というより浮きのようにしか見えない棒状の物体が、水面に向かって飛んでいった。岩にぶつかるか、と思うところで糸の伸びが止まり、ルアーは水に落ちた。
 次の瞬間、水が割れ、破裂した。その場所から波紋が起こっている。反応した聡一のロッドはもう弓なりになっていて、彼は太鼓型のリールを巻いている。ボートが揺れて、君は、わっと声を上げそうになった。
「四十センチにゃ足らなかった。でも写真撮っておこう。シャッター押してもらっていいかい」
わー凄い凄い、こんなの見たことない、こんな風に釣れるなんて嘘みたい、と君が大騒ぎしているあいだに、聡一は釣り上げた魚からフックを外し、ベストのポケットからカメラを君に渡した。右手の親指を魚の口に入れて下あごを押さえ、左手を尾びれの根元に添えてポーズをとった。それからすぐに魚を水に戻してしまった。
 いい型を一匹釣って気が済んだのか、それから聡一は釣る前にもましてルアーを投げる回数が減った。釣りというよりは舟遊びに来たような感じだった。そのうちに雲が増えてきた。雨や雷鳴を心配するほどではなかったものの、溶岩帯のほうから流れてくる風が涼しさを増した。投げなくてもいい仕掛けの付いたタックルを君に持たせていた聡一は、仕掛けを巻き取って、昼メシにしよう、と言った。
 岩場の中で寄せやすいところにボートをつけ、先に岩に上がって潅木にもやいをとってから聡一は君の手を引いた。トートバッグとバスケットを持って、何とか座れる場所を見つけた。聡一はトートバッグの中から野外用のアルミポットと弁当箱のような折りたたみ式のコンロを取り出し、水筒から水を注いで珈琲を沸かした。君の作ってきたバゲットのサンドイッチを大喜びで旨そうに平らげた。
 入江の水面は、風が渡るたびに小さな波の縮れを浮かべ、その中で水に映った空の色が刻まれた。ときおり、風の先端が湖という液体の表面を押しながら走るのが見えた。
「さっき、釣れるのがわかったの? 投げる前から?」と君は聡一に聞いた。
「うん。ときどきそういうことがあるんだ。変な話だけどさ、釣りって一種のオカルトみたいなもんなんだよ。理屈じゃなくて、釣れるときはそういう気がする」
「変て言えば、変な遊びだよね。そう思ったことない?」
「知り合いでさ、水の中を引いてくるルアーの名手がいてね、『あ、今、食おうとして真後ろまで来たけどやめて帰った』とか、『くそ、横を泳いでやがる』とか、ふつうは見えっこない、わかりっこないことがわかるってのがいたよ」
「それ、嘘でしょう」
「いや、俺は嘘じゃないと思う、わかる奴にはたぶん、わかるんだ」
「聡一が『あそこに食い気の立ってるのがいる』って言ったみたいに?」
 彼はそれにはすぐに答えずに、しばらく考えてからこう言った。
「ね、この溶岩の下に何があったかわかるかい? 何千年か、それとももっと古い時代か」
 君は少し驚いて聡一の表情を見た。風がまた渡り、バスケットにかけておいたバンダナが飛びそうになった。聡一の手がそれを押さえた。
「そうね……」
 君は無数の小さな気泡の穴があいた溶岩のかけらのひとつを手にとって、目を閉じた。遠くから観光客の声と車がタイヤを鳴らす音が聞こえた。すぐにそれも消えた。溶岩のかけらはまだ陽の熱を帯びていた。
「そんなに……古くないんじゃないかしら。何千年も前じゃなくて、千年かそれくらい。その前には……この近くには、街のようなものがあったのかもしれない。でもふつうの街や都のようなものじゃなくて、何かの目的のために人が集まって住んだところじゃないのかしら。その頃は、この湖はもっと大きかったみたい」
 聡一は途中から独特の表情になってその話を聞いた。そして言った。
「剗の海って湖の名前を知ってた?」君は首を横に振った。聡一は続けた。「精進湖と西湖はね、九世紀頃まではひとつの湖だったんだよ。それが、富士山の貞観の噴火で溶岩が流れ込んで、今あるように二つの湖に分かれた。そのときに、溶岩の火でこのあたりの人家がいくつも焼けたそうだ。古文書にそういうことが書かれてる。本当に知らなかったのかい?」
「ええ」
「だから僕らが今いるここは、千年前には湖だったんだ」

「ちょっと、こっちへ来て」
二杯目の珈琲を飲み終えると、聡一はそう言って君の手首を掴んだ。そして溶岩のあいだの、砂と土がたまってできたわずかに平らなところに君を立たせて、言った。
「眼を閉じてごらん。眼を閉じて、何も考えずに、僕がいいというまで眼を開けちゃだめだ。いいかい」
「いいけど、なぜ?」
「すぐにわかるよ」
 君は瞳を閉じた。するとまぶたの上に再び陽のぬくもりが落ちた。そのぬくもりはひどく懐かしいもののような気がした。けれどそれがなんであるか、そのときの君には言い当てることができなかった。風が運んでくる無数の異国めいた匂いと同様に、それは謎だった。この小さな湖の底に何があるのかすべて見通すことができないのと同じで、自分の心も、聡一の心も、それ自体が神の秘密のようだった。
「もういい?」
 少し間を置いて、彼は答えた。
「いいよ」
眼を開いた刹那、君は君の前にひざまずいている聡一がいるのを見た。その意味がわかるまで、一瞬の時間があり、思わず何かを口にしかけて息を呑んだ。聡一は君の手をとり、それから言った。
「結婚してほしい。僕と」
 ええ、と言う前に涙が滲んできて、君はただ頷いた。それは突然の霊感のように、君を圧倒した。
「君には過去が見える。全部じゃないにしろ、ところどころ見える。僕には、少しだけど、未来が見えるときがある。さっきバスを釣ったときみたいに。だから、二人でいるとちょうどいいんだ」
 陽は翳り、陽はまた雲間から射し、風とともに湖面の陰影を彫り上げていった。その日、聡一はもう釣りはやらなかった。湖面をまた横切ってボートを出した岸辺に戻るとき、西の稜線の上に雲から光の剣が降り、稜線に連なっている無数の樹木の輪郭を切り取った。
「最初に会ったときに、こうなるような気がしていたんだよ」と聡一は言った。そして漕ぐ手を休めた。ボートは惰性で静かに進み、引き波が湖面を分けていった。
「ずっと昔から」と君は目の前でじっと君のことを見つめている聡一に言った、「つながっているのよ、何もかも」

「最終回」につづく>

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