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「急行東海・断章」(中編小説/最終回)

※最終回(その5)は7300文字あまりあります。サポートしてくださると大変ありがたいです。

          *

 二宮駅を通過した急行東海七号は、国府津、小田原と停車し、小田原の先から、箱根の山塊が相模湾になだれ込むあたりを走るようになる。早川でいくらか残っていた平野部が、根府川ではほとんど消失している。国道は標高のずっと低いところを走っていて、高台を行く東海道本線に寄り添う道は市道だ。蜜柑畑が目立つようになり、真鶴、湯河原に達する頃に、湘南から伊豆、東海へと土地のニュアンスが変化する。熱海の手前で、西陽を受けている初島が見えた。
 クロスシートで君の反対側に並んで座っていた二人は、小田原を過ぎて空席が目立つようになると、前のほうの車両に移動していった。
 君はまた、一人になった。
 そしてトンネルがやってくる。風景のない旅がやってくる。丹那トンネルの中は、保線用の照明が等間隔でところどころに点いていて、流れ去る壁の一部に退避用の凹みがあるのがわかる。
 それは、幼い日に何度も何度も見た夢に似ているところがある。その夢は、もしかしたら生まれる直前に君が見たものだったかもしれない。トンネルそっくりの暗い筒の中を君は凄いスピードで落ちてゆく。それを止めることができないので、たまらなく恐ろしい。いつまでも続くように思われる。
 すると突然、暗い筒の壁の中に、光が見える。光があっという間に近付いてきて、君の傍らを過ぎるとき、壁の中に光に満ちた凹みがあり、光を発しているのは、人だということがわかる。
 君はそこで手を伸ばすようにして必死にこの落下から自分を救い出してもらいたく思うのだけれど、光を放つ存在は、あっと言う間に傍らを過ぎてしまう。そして落下の恐ろしさに耐えていると、次にまた何かが見えてくるのだけれど、今度は光を放ってはいない。それは壁の中に埋め込まれている、何か、破壊し尽されたものの塊だ。もともとが何であったかもわからないくらい、ひしゃげて潰れている。それを見てしまうことのほうが、落下してゆくことよりもずっと恐ろしい。パニックに陥りそうになる。
 するとまた、光の存在が近付いてくる。人の姿をしたその存在は、絵に描かれた紙や天使のように、白く長い衣を身につけている。そしてただそこに立っている。またしても、存在は君をその落下から救い出すことはなく、傍らを過ぎる。再び、また、破壊や腐敗や暴力から出来上がっているような、醜い、押し潰されたような塊が近付いてくる。
 その繰り返しから逃れたいのに、逃れることができない。
 後になって君は、壊されたものがどれも同じようなものなのに、光を放っていた存在はそれぞれ異なっていて、どうやら、自分がこの人生で出会った血筋の人間たちだということがわかるようになった。それがわかる年齢になったとき、君がその怖い夢を見ることはなくなった。

 君はいつのまにか、うたた寝をしていたのかもしれない。目を閉じていて、トンネルが終わったのを知ったのは、明るさが車内に戻ったからではなくて、轟音が消えたからだった。急行はすでに函南駅を通り過ぎようとしていた。函南と三島のあいだに好きな風景があった。ほんの一瞬、谷間のようなところの向こうに、田方平野と沼津アルプスの丘陵地帯が望めるところがある。君は見過ごすまいと、今度は目を凝らしている。
 その風景が現れたとき、胸の中を何か波のようなものが通り抜けてゆくのがわかった。青い影になった低い山々の連なりと、狩野川の氾濫原が作り上げた平野と。対照的な地形の組み合わせが劇的な印象を生んでいるのだった。外国の肖像画の背景に描かれるような、虚構でもあり現実でもあるような風景に似ていた。それが君の何かに共振した。青春の最初の日々に、人を恋した苦しさに似ていた。
 私はふるさとへ向かっている、と君は知った。
 そしてふるさととは、生まれ育った土地でもあり、自分の人生に出入りし、自分に深く関わった人びとでもあった。しかし血のつながった家族というよりもむしろ、自分の愛した他人だった。
(まもなく三島、三島です。新幹線、伊豆箱根鉄道線は乗り換えです。三島から先、新幹線下り新大阪方面は五番線にお回りください。伊豆箱根鉄道線修善寺方面は──)
 
 今までだって、ずっとそうだったのだ。どこかへ行った、というよりは、いつもふるさとを探していたのだ。それは場所ではなくて、形ではなくて、もしかしたら、人ですらなかったのかもしれない。だって、人は、誰かのために存在しているわけではなくて、それはそういう風に思いたい人はたくさんいるのだけれども、自分が満たされるために誰かを必要としているとすれば、それは、相手が自分のための道具だということを認めているのと同じだ。私のふるさとは、そういうものではないはずだ。

 三島で、最後尾の車両に乗っていた乗客の何人かが降り、三島から先も乗り続けるのは数名だけになった。君は、これまでと同じように、海側のクロスシートで後方を向いて座っていた。
 動き出した急行東海七号の中から、ホーム東京側の待合室、キオスクと風景が流れていって、地下通路への階段の手前を過ぎるあたりで君は凍りついた。その一瞬のスナップショットに、血のめぐりがすべて停止したような気さえした。
 階段にほど近い柱のそばに、二十代半ばのカップルが立っていた。二人ともきちんとした格好をしているが、仕事ではなくて、プライベートで何か……。
 あれは、Nと私だ。
 あの日、急行東海の早い便に乗り、着いた先の実家から門前払いされたようにとって返し、乗り継ぎをしようとホームに降りた三島駅で、私たちは逃避行のように修善寺へと向かった。そして桂川の瀬音を聞きながら忘れられない無言の夜を過ごした。
 Nは今ではどこにいるのかもわからない。聡一と出会う少し前に、仕事を変えてから結婚したらしい、という噂をそっと共通の知人から耳打ちされるように教えられた。それきりだ。
 気がつけば君は手を口にあてていた。そうでもしなければ、叫んでしまいそうなくらいだったのだ。三島駅のホームが流れ去り、沿線に住宅地が現れるようになっても、まだ君はその一点を見ていた。Nと自分がいた一点を見ていた。
 そのときはそれで必死だったのに、その倍の長さを生きた今では、あの切なくてやりきれなかった日々ですら、まるで過去世の記憶のようにすら思える。あのときの自分は、今とはまるで別の人間だった、けれどもまた、あのときの自分の破片がコラージュされて今の自分のどこかを形作っているのも確かだった。
 でもあの二人は一体、どこから来たというのか。あれは、私たちのあのときの思いが映像化したようなものだったのだろうか。私は私の若い日の幽霊を見たのだろうか。

 沼津駅では、寝台特急「さくら」に追い越される待ち合わせで十二分ほど停車する、という車内アナウンスがあった。聡一と一緒になってから、実家に二人で向かうときは車で行くことがほとんどになり、急行東海に乗る機会はそれまでよりずっと少なくなった。一度か二度、二人でこの急行に乗ったときは……そうだ、思い出した、聡一は途中で腹が減っちゃったよと言い出し、この沼津で特急待ち合わせの間にホームで駅そばを食べたのだった。自分はキオスクで何か飲み物でも買ったのかもしれない。少し猫背気味の聡一が、ますます背を丸めて立ち食いそばをすすっているのが、なんだかちょっといじらしく見えたのだ。
 そのことを思い出して、君は、始発の東京駅からずっと座りづめだった席を立った。デッキからホームに降り、駅そばのスタンドが今でもあるのか、確かめたくなって歩き始めた。ホームの端のほうに人影はまばらだった。
 スタンドはあった。一人、客がいて、やはりかき揚げの天ぷらそばか何かをすすっていた。その向こう側のキオスクに寄ろうとした君は、キオスクにある公衆電話をその若い男が使っているのに気づいた。新橋あたりで車内を移動してきて、小田原のあたりまで向かい側の席にいた若いカップルの一人だった。
 どこかで電話をかけなければ、と彼らが言っていたことを君は思い出した。
 車両のほうを見ると、カップルの女性のほうがキオスクに近いデッキに立っていた。急に、男性のほうが通話口に手を当てて、彼女に声をかけた。
「マナミ、テレカが足りなくなりそうだ、持ってるかい」
 彼女はデッキから連れの男性に駆け寄り、セカンドバッグの中を慌てて探し、見つけ出したカードを彼に渡した。彼が新しいカードを差し込んだそのとき、寝台特急「さくら」が「東海」の停車しているホームの反対側を通過し始めた。
 寝台車のブルーが轟音とともに動く壁になり、風圧が彼女の髪を揺らした。男性は受話器の前で顔をしかめ、何か言おうとしたが、あきらめて列車の通過を待った。「さくら」は、まるでホームの上に残っている人いきれや小さなごみを吹き飛ばしてゆくかのように、そこを圧して通り過ぎていった。
 ようやく電話ができる状態になると、男性は受話器に向かって慌しく喋りだし、その横で彼女が心配そうに彼の表情を覗きこんでいた。
 君は、喉が少し渇いていたので、自動販売機で飲み物を買い、キオスクのブースのあたりも見ていたら、アイスのケースの中に冷凍みかんがあるのを発見し、わ、珍しい、こういうのあったっけ、今でもあるんだ、驚いた、とばかりに取り出して買ってしまった。そしてつり銭を受け取り、ブースに並んでいる雑誌や文庫本のタイトルを流し読みしているときに、さきほどの男性の声がまた聞こえてきた。
「ええ? またなんで? ……わかった、マナミと相談して決めるよ……ともかく、後でまた連絡するから」
「どうしたの?」電話を切った彼に彼女が尋ねた。
「親父はお袋が騒ぐほど悪くはないみたいなんだ。ユウジが言うにはお袋が動転してただけみたいでさ。それよりも、ソウイチおじさんの奥さんが、今朝急に倒れたんだって。救急車で運ばれて、危ないらしい」
 二人はそこで顔を見合わせたが、それを聞いていた君もぎくりとした。同じ名前の主人を持つ人も世の中には少なくないはずだが、こういう状況が重なってそこに偶然が現れるというのは珍しい。
 立ち尽くしている二人には気の毒なような気もしたけれど、かといって関係のない自分が何をすることもできないから、君はその場を離れた。背後で、どうしよう、戻るの?という彼女の声がした。
「一度降りる……か。荷物を、荷物を持ってこよう、それから考えよう。俺がとってくる」
 彼は君の傍らを小走りに通り過ぎ、横の車両のデッキに飛び込んだ。君は最後尾のがらがらの車両に戻り、少し考えてから、今度は進行方向右側の席に、前を向いて座った。
 沼津駅を急行が離れてゆくとき、さきほどの二人が荷物を脇においてホームの椅子に座っているのが見えた。

 すでに夕刻、十八時を回っていた。沼津で寝台特急の待ち合わせをしているあいだに陽は沈み、車窓には車内灯の反射が映るようになった。速度を上げた急行電車がロングレールを軋ませて疾走する中、車掌が残りの停車駅の到着予定時刻を読み上げる。
 その声に赤富士が重なった。山頂付近だけ、まだ夕陽の色に染まっている。見る間に、その色合いが変化してゆく。愛鷹山の暗い緑の向こうに、富士の稜線の曲線が浮いている。
多くの人は、こういう富士山を見て、ふるさとに帰ってきたと実感するのだろうか。君はまたそんな風に考え始めた。私はそうじゃない。それは、私にとってのふるさとが、どこかの場所というより、誰かというより、美しい風景や愛すべき人びとを存在させている何か、だからだろう。だから静岡にふるさとを感じるとしたら、それはこの星にそれを感じることと区別はつかない。
 どうして人はひとつひとつを切り取りたがるのだろう。切り取って、これはあれと違う、あれはそれと違う、というように見せたがるのだろう。
 浮島沼から見える富士も、この吉原のすすけた煙突や、昭和が否応なく残ってしまった町並みに連なる富士も、結局同じものに過ぎないのに。
 吉原のあたりでは、かつては製紙工場の独特の臭気が車内に入り込んできたものだ。いま、冷房の効いた車内にその気配はない。田子の浦港の北に奥まった水路のところ、併走する岳南鉄道線の線路越しに工場の高い煙突を見上げていた君は、デッキへのアルミの引き戸が動くのを見た。
 客席通路に入ってくるなり、その男は車内を見回しながら歩き、すぐに君と目が合った。
 君は息を呑んで思わず言った。
「聡一、聡一じゃないの、どうして、どうしてここに?」
 彼は答えなかった。答えるかわりに君の席の前に立ち、君の旅行バッグを片手で持ち上げ、もう片方の手で君の手首を握った。そして、君が席から立つように促し、有無を言わせず君の手を引いて通路をどんどん前側のほうに進んでいった。君が喋りかけても無言のままだった。
 中ほどの車両に近付くにつれ、乗客の数は少しずつ増えていった。中には比較的若い乗客もいたが、なぜか年配の人が多く、嬰児を抱いた若い母親以外は、皆、一人で乗っていた。急行が減速し、富士駅で停車する頃には、聡一と君は編成の中ほど近くまで移動していた。そしてドアが開くと、聡一は君を引っ張ってホームに降り立った。降り立って初めて、彼はほっとしたように君を見、そして口の前で指を立てて、黙っているように合図した。
「急行東海七号、発車します。次は清水、清水に泊まります」
 君の背後で急行のドアが閉まった。薄暮になりかけた空がホームとホームのあいだにのぞいている。上り線側の別のホームに泊まっている各駅停車の窓にも、オレンジとグリーンだとわかる急行の外装色が映って、流れてゆく。急行は、行ってしまった。
 急に眩暈がした。その眩暈のせいなのか、停まっている電車の窓の明かりが消えて、ホームの照明も消えて、富士駅前のビルの灯火も消えて、ただ最後に君の手首を握りしめている聡一の手の感触だけが残り、やっとの思いで君は、そこにもう片方の手を重ねた。

          *

 君が眼を覚ましたとき、見たことのない天井が上にあって、何か袋が吊られていて管が付いていて、病室にいるらしいということがわかるまでしばらくかかった。外は暗いようだったが、未明なのか宵なのかも分からなかった。どこか変な感触が下半身にあり、やだ、私、もしかして、オムツをしてるんだわ、と気が付いて慌てそうになった。
 誰かの息の音を聞いた。君が身をよじると、君が横たわっているベッドより少し低く、付き添い者用のベッドで聡一がタオルケットを被って寝ていた。彼の名前を呼ぶと、一瞬驚くような声を出し、すぐに起き上がって、ああ良かった、帰ってきてくれた、と言った。
 子供のいない自分が倒れると、こういう風になるんだわ、病室に来てくれるのは夫になるのね、と君は妙に冷静に考え、そして言った、あのね、聡一、私、トイレに行きたいのよ、いいのかしら。
 それからしばらく、当直の看護師や医師が出入りして、あれこれ問診したり、測ったり、処置したりしてくれた。一様に皆明るい顔だったから、そうか、私はどうやら大丈夫なんだ、と思った。担当医が言うには、もう心配はいらないと思いますが、今晩はこのまま様子を見ましょう、ということで、夜半にはまた聡一が寄り添ってくれた。
 土曜日の昼前に二人で買い物に出掛けようとしていて、先に駐車場に行って車で待ってたらなかなか出てこないからおかしいなと思って戻ったら、寝室でベッドに倒れこんでたんだよ。不整脈だったらしい。一時は救急車の中で心停止しそうになって、心配だったんだよ。病院で処置してくれたら血圧は戻ってきたんだけど、なぜか意識がなかなか戻らなかったんだ。先生が言うには一過性で原因不明だけど、心臓にも脳波にも特におかしなところはないから、じきに目覚めるはずですよってね。
 君はベッド脇に椅子に腰掛けている聡一の顔をあらためて見つめ、そこに、説明のしようもないのだけれど、夫とか、家族とか、親友とか、そういう言葉を総動員しても結局言い当てることのできないようなものがあることを知った。それは、人びとが愛情とか愛とか呼ぶものともちろん無縁ではなかった。が、それよりももっと謎めいていた。あるいは、もっとずっと、単純なものだった。
「ねえ聡一、こんなときに変なことを訊くけど、私と『急行東海』に乗ったことを覚えている?」
「覚えてるよ。一緒になるちょっと前だ。二人して仕事帰りに静岡に帰ったときだろう」
「そのうちまた乗りたいわね」
「そうだな」と言ってから聡一はちょっと困った風だった。「……でもあの電車、あれからすぐに『特急東海』になっちゃって、車両も変わって、本数も減って、何年か前にその特急さえも廃止になっちゃったんだよ。今じゃ、静岡まで行く速いのは新幹線だけだ」
「そうなの? ……でも私、乗ったのよ、最近。ね、あとでゆっくり話してあげる」
 聡一は不思議そうな顔をしたが、たまには鉄道旅行ってのも悪くないね、と言ってくれた。君は、彼の髪に少しまた白髪が増えたのかな、と思った。

          *

 君は見知らぬ町の小さな駅で、列車が来るのを待っている。古い革の鞄を傍らに置いて、高台にある駅のホームから海を見ている。足もとに夏の陽が差し込み、畳んだ日傘の石突きと編み上げのヒール付きサンダルのそばに、眩しさがこぼれている。
 君は一人だ。でも寂しくはない。これはふるさとへの旅だとわかっているからだ。ポシェットの中には、さっき、年老いた駅長から手渡された厚紙の乗車券が入っている。
 白い綿レースのワンピースが少し子供っぽかったかしら、と君は考える。でもすぐに思い直す、まあいいや、もうじき夏休みなんだもの。
柵の向こうに向日葵が何本か植えられていて、一本だけ気の早いのがもう咲きかけている。玉蜀黍畑の緑の上を海の色が染め、その上に積雲が膨らんでいる。
 緩やかな勾配の先で線路の上に陽炎が立ち、その陽炎を揺らして列車は現れた。君はゆっくりと立ち上がり、レールから響いてくる音を聴いた。

                               (了)

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