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夕暮れあれこれ

 夕暮れの事物が好きなのである。自転車旅や自転車散歩のさまざまなシーンを思い返してみると、陽も傾き、そろそろ目的地の宿なり町なり駅なりか、自転車を運んできた車を駐車したところとかわが家とかに戻らなければな、という時間帯に印象的な風景に出会うことが多い。
 その時間帯は光線も斜光でフォトジェニックになっていることが多いし、空気感も昼間より鮮明であることが多いような気がする。
 暗くなるのは特に自転車で行動することにとってあまり好ましいことではないので、多少気は急いてはいるものの、夕暮れにはまた抗し難い魅力があり、夕闇に追い立てられるようにして走ったこともあった。
 もちろん山里やひと気の少ないところではそんなことにならないように気をつけている。昨今は自転車の灯火も少しは明るくなったが、知らない道の夜間走行は基本的に危険である。特にソロの場合、山間や川沿いの道で道から逸脱したら、人里に近いところでもアウトになる可能性が高い。
 私も山里からの下り道で暮れてしまい、頼りない灯火と道路の白線を頼りに下っていたところ、白線が道路のカーブと違う方向へ向いていたために慌てて急制動をかけたことがあった。そこから先はさらに速度を落として進むほかなかった。もし道路外に飛び出していたらと思うと寒気がする。

 そういうことだから、私が夕暮れを楽しむのは勝手知った道か、旅先では人里や街まですでに達したところなのだ。
 見知らぬ街に走り着き、とった宿の場所を確認したあとで、夕暮れの街場を流すのは実に愉しい。その街の生活感は夕暮れにひときわ濃厚になる。郊外ではただ真っ暗に近付いてゆくだけの夕暮れが、灯り始めた街灯や夕餉の支度をする気配に染まってゆく。
 遅くなると宿でも夕食の支度等心配するので、そうそうゆっくりもしていられないのではあるが、一日走ってきて辿り着いた街の夕刻というものは本当に素晴らしいものなのだ。これは自分で宿をとるような自転車の旅をしたことがある人でなければわかるまい。

 忘れられない夕刻はいくつもあるが、青森県の十三湖が日本海とつながる辺りで見た夕陽も忘れられない。このときは近傍にとった宿を確かめてからだったので、存分に愉しむことができた。
 夏の終わりだった。静寂があたりを浸しており、太陽はもやのように薄い雲が積み重なった水平線の上に沈もうとしていた。
 そういうときに限って、残っている写真がない。いや、仮に撮ったとしても、その夕暮れの全体を写し取ることはできないだろう。感動に至るくらいの風景ほど、写真で表現することは困難なのだ。

 その昔、誰かがどこかで、こんなことを書いていた。「エネルギッシュに昇って来る朝陽よりも、力を使い果たして沈んでゆく夕陽のほうが好きだ」と。よくわかる。うまいことを言うなあ、と思ったものだった。
 朝陽が昇る瞬間というのは確かに感動的ではあるが、職業柄、私は早朝から活動を始めるというのは滅多にない。自転車で出かけるのもたいがいは日が高くなってからなのだ。
 朝陽は確かに美しく若々しいが、ちょっと時間が経つとふつうの昼間の光になる。夕暮れは少々違う。もちろん暗くなってから自転車で走るのは避けたいが、夕暮れが夜になるのは、朝陽が昼間になるよりも、ある種、趣があると言えよう。

 夕暮れ、黄昏は、境域的な時間帯でもある。昼間から夜に切り替わるというだけではなく、3次元的な明度に刻印された昼の時間から、より多次元的なニュアンスを持つ夕闇に浸される時間なのであり、それが旅先のような世界ではいっそうはっきりしてくるだろう。
 そこに暮らす人々にとってはふつうの夕暮れでも、旅人にとってはまた意味が異なってくる。旅人の意識状態は、日常生活に埋没している意識よりもはるかに多次元的だからである。それ自体、宇宙に近い。だから宇宙の秘密をどこかに隠し持っているような夕暮れと共鳴するのである。

 
 
 

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