見出し画像

旅は遠回り

自分一人で計画して、実行して、その意味を考える旅は、イベントのような
「旅もどき」とは違う。どこが違うのか。

それは、ほとんどすべてが「旅」においては「遠回り」だということだ。面倒なのである。自分で計画することは楽ではない。出発点まで移動するのだとしたら、それも自分でプランしなければならない。宿は自分でとらなければならない。

「旅もどき」ではいろんなことが周到に用意されていて、参加者(つまり旅人ではない)の負担が少なくなるようにできている。川の右岸を走ろうか左岸を走ろうかと悩む必要もない。コースは最初から決められているからだ。
出発点から到着地点まで、荷物を車で運んでもらえるサービスもある。至れり尽くせりだが、こうなると、どこが旅なのか全然分からない。こういうのを「大名サイクリング」と呼ぶ場合もある。

その地域の魅力を愉しむ場合も、ガイドが出てきていろいろと教えてくれる。自分であれこれ経験して知るような面倒さがない。答えにストレートなのだ。自分で考えるより、最初から出ている結論を得たほうが失敗がなくていいよ、と言ってもらっているようでもある。私にとっては余計なお世話だが。

旅をした意味も、「旅もどき」の場合はちゃんと分かりやすい形にして提供してもらえる。「〇〇〇一周」「〇〇〇センチュリーライド完走」とかの完走証やメダルとかである。少なからずの人は旅の内容よりも、こういうものに満足したりするのだ。

旅は読書に似ている。どんな本をどういう風に読むかはその人の勝手である。そして本を読み終えたからといって、誰かが完読証をくれるわけでもない。その意味は自分で考えなければならないのだ。誰かがその本の内容を3行に要約してくれたとしても、全編読んだことと同じものを得ることができるわけではない。読書においても近道は存在しないのだ。

「旅もどき」は、自分で考えたり、悩んだり、迷ったりしなくてもいいようにできている。その分の対価を払って、そういう安楽さを手に入られるようになっているシステムだからである。

旅はよく人生の縮図だと言われる。「旅もどき」のような「失敗のない近道」を主軸に据えたイベントが流行るのも、結局はそういう人生を多くの人々が求めているからである。

近代における大量生産主義とは、人間もそのように扱おうとした時代の流れなのであろう。そこに抵抗するかどうかが、遠回りをしてでも自分なりの答えを探すか、失敗のないように与えられた近道を選ぶかの違いであろうと思われる。

自転車は近代の中から生まれたが、近代を否定するような可能性も含んでいた。ランドナーのような自転車には、大量生産主義に抗するような要素、クラフツマンシップが多く散りばめられている。だから、「旅もどき」のような自転車イベントを支持する層がランドナーのような自転車に多く無関心だということも、まったく納得できることなのだ。

画像1



ご支援ありがとうございます。今後とも、よろしくお願い申し上げます。