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「旅」を書き続けた作家

私の、偏った、さほど量が多いとは思えない読書歴の中で、もっとも「旅」について取り憑かれたように書いている作家が一人思い当たる。
彼女は別に紀行文作家というわけではなく、例外的に旅行記をものした作家というわけでもない。もちろん世間でもこの巨匠をそう見てはいないはずである。
それでも、彼女のフィクションからは、きわめて強烈に旅、それも命がけの旅の実在感が感じられ、読者はそれを追体験することになる。

アーシュラ・K・ル=グウィン(ハヤカワ文庫ではグィンと表記されている)である。
古くからのSFファンに巨匠として彼女を知らない人はいない。特に外国文学に詳しくない人でも、『ゲド戦記』の作者として名前ぐらいは聞いたことのある場合が多かろう。『ゲド戦記』はジブリでアニメ化されたタイトルのほうが一般には知られていようが、オリジナルはアニメとまったくと言っていいくらい異なる。
日本の版元の岩波書店でも、この作品は<中学生以上>としていて、つまりは少年少女にも読める文学の範疇で刊行されているものの、実際のところ、この6部作を十全に理解するには半世紀ぐらい生きないと難しいだろう。
だから若いアニメ作家が原作の内容を消化できなくても無理はない。私はつい最近、『ゲド戦記』を読み始めて、今まで読まなくていて良かったと思ったくらいなのだ。

ル=グウィンの作で最初に読んだのは、『ロカノンの世界』であり、これは私が読んだハヤカワ文庫版では萩尾望都氏による表紙アートが誂えられていて、まさに原作の世界にぴったりのテイストだった。
これから読まれる方のために詳細の解説は避けるが、『ロカノンの世界』の冒頭は、神話的もしくは中世的な世界と、恒星間同時通信<アンシブル>を可能とした世界(ただし宇宙船の航行速度は光速以下)が一種の魔法的な設定によって接続されてしまうところから始まる。
見方を変えれば、それは、眩暈を伴うような時空の旅である。
時間と空間と人間をある意味ストレートに扱うジャンルがSFであるから、そこには時空を超越するような旅も当然ながら登場し、その旅自体がフィクションの動力装置となる。
ル=グウィンにはその種の話も多い。わが国のウラシマ伝説と強い関連を持つ作品が収められた短編集、『内海の漁師』はその方向での集積が目立つ。

ル=グウィンの作品の傾向として、文化人類学的、比較文化的なアプローチは誰にでもわかるくらいはっきりとした輪郭線を持って作品群の中に埋め込まれている。
「旅」の要素のひとつは、異文化との接触であり、文明の衝突でもあり、それを個として体験することでもあるから、オクシデンタルな文明が能動的に異文化と接触するようになった大航海時代の心理的体験はさながら集合的無意識によってリピートされたように、SFの時代にも再び描かれる。
しかしまあそういう分析的な見方よりも、作品それ自体の中に潜む解析不能なエネルギーのほうが実際にはパワフルなのであって、そういうものにこそ読者は圧倒される。

代表作として誰もが認める『闇の左手』も、ジェンダーの問題と絡ませつつ、異星文化とのさまざまな局面での差異を描いて見せる。いちいちそれにリアリティがあり、ル=グウィンの文化的母国であるはずのUSのカルチャーというか、ごった混ぜでも完全には混ざりきらない妙に頑固な多様性みたいなものも感じたりするのだけれど、本当の通奏低音は別のことじゃないか、みたいなニュアンスもある。
その星の人と主人公たる人間は、物語の後半、厳しい異星の冬を延々と徒歩の旅をする。これほど単調であるはずの厳しい旅をどうしてここまで描けるのかというくらい、ル=グウィンは執拗に描く。

そしてこのモチーフは他の作品でもしばしば現れる。過酷な自然環境の中で、生命の危険を冒して行う長い旅が描かれるのである。
後期の作では、『言の葉の樹』でこのモチーフが作品全体を支える骨格となっている。そして不思議なことに、このような過酷で始原的な旅は、未来というより、人類のはるかな過去を想起させる。中世から19世紀手前の頃まで、地球は現在よりも寒冷であったということが最近言われるようになったし、「氷河期」の記憶がわれわれのDNAの中に揮発しない記憶として埋蔵されている可能性だって、ないとは言えない。
こうした「はるかな過去の旅」の様相は、『ゲド戦記』におけるボートのような小船での「世界の果てへの旅」でより明快に現れる。

ル=グウィンが描く、さながら「世界の原型としてのタフな旅」には、しかしある救いがあって、その旅にはいつも、何らかの形で、「道連れ」がいるのである。
『闇の左手』ではそれが異星の友であり、『ゲド戦記』では戦友とも言うべき親友か、偉大な師もしくは信頼に値する弟子、『言の葉の樹』では自分に敵対しながら最後には相互理解に達する存在と旅をする。
『世界の誕生日』に収められている「失われた楽園」は、あまりに目的地が遠いために、船内で世代交代をして旅をする宇宙船の話で、創世神話とどこか通じながら、しかし、一生が旅となった人間たちの悲劇とユーモアが一体となった旅路が切ない。

われわれは旅をしている。
していないようでもしている。
読書もひとつの旅でもあるし、生きて、メシを食い、生きるための何かを得るために何かをすることも旅だろう。
家族を得ることも、家族を増やすことも、親を送ることも旅だろう。
船内で世代交代をして、遠い目的地をイメージしながら、未来に何かを託すようなセンチメントがあるとすれば、それはまったく、この星でわれわれが日々為していることと同じなのかもしれない。

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