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対話的実践において「わたし」が大切にしたいこと

今回は、ある学校研究に関わらせていただいた際に、自分の思いを言葉にまとめてみたので、せっかくだからnoteにも。
その学校では、研究の中でいくつかグループがあるんだけど、僕は「対話グループ」に関わらせていただきました。


01 そもそも、どうして今、対話が重要視されているのだろうか。

「主体的・対話的で深い学び」というキーワードを知らない教員はもういないでしょう。今日においては対話的な実践が学校現場において当たり前になっているように感じます。しかし、皆さんは、そもそもどうして対話をすることが大事だとお考えでしょうか。そう聞かれると皆さんはなんと応えるでしょうか。
「対話」という言葉はダイアログ“dialogue“と書きますが、その語源はdia(異なる)とlogos(言葉、理性、論理)が合わさってできたとされ、「あらゆる批判に開かれた知の公共性を理念として掲げた一つの運動であった。」そうだ(廣松渉,1998「岩波哲学・思想辞典」岩波書店)。対話とは、そもそも一人ひとりが違う人間であるという、ドイツ出身の哲学者ハンナ・アレントの言葉を借りるならば「唯一性」(ユニークネス)を前提とした考え方のもと、生まれたものであると捉えることができるでしょう。私たち人間は、一人ひとり違う人間だからこそ、対話することに意味が生まれる。ロシアの哲学者であるミハイル・バフチンは「生きることは対話に参加すること、つまり質問すること、注意を払うこと、応答すること、同意することである。人はこの対話に、人生の始めから終わりまで全面的に、つまり、目、唇、手、魂、心、身体全体と行為を通して、参加する。」と述べます。ソクラテスを起源として始まる哲学の歴史の中も、「対話」はなくてはならない行為でした。

02 学校で対話することの意味

そんな対話が、どうして学校において、子どもたちの間で重要と「されている」のでしょうか。コミュニケーション能力が生きていく上で必要と「されている」からでしょうか。でも、一旦、世論の言う「されている」から一旦離れ、「あなた」は、他の誰でもない「あなた」自身は、対話についてどう思っているのでしょうか。

では、学校教育において、対話が重要な役割を果たすと持論を展開している人たちを少しみてみましょう。まず、日本教育学会会長の小玉重夫は、「対話」が「エージェンシー」を生み出すと述べています(エージェンシーとは、「周りの関係に働きかけてそれを変えようとする」ことを重視する、教師の権威に従属しない「飼い慣らされない主体性」としています。注:筆者の解釈)。著書「対話的教育論の探究」の中で小玉はカリ・ムリス(2018)の言葉を引いてこのように説明します。

「子どもは大人の規範によって植民地化されることによって自身の声を奪われてきた(小玉2023)。それを踏まえ、ムリスは、子ども期を脱植民地化し、子ども自身のエージェンシーを発現させるような対話的な実践の条件を「ポストヒューマンな子ども」として概念化し、上述の通り、そのマニフェストを作成した。
ムリスは「ポストヒューマンな子どもは、その内的相互作用に先立って別個の実体として存在するのではない。主体とエージェンシーを構成する物質と言説との間の内的相互作用を通じて出現するのである。」という。個々人が独立した主体としてまず存在するのではなく、相互作用を通じてエージェンシーと主体が構成されるということである。対話を通じた相互作用はまさにそうしたエージェンシーの出現を可能とするものであり、子どものための哲学を通じての対話的教育論は、そうした子ども自身の声を可視化させるエージェンシー発言の条件として、読み解かれることが可能である。」

小玉重夫(2023)「対話的教育論の探究 子どもの哲学が描く民主的な社会」東京大学出版会

子どものための哲学(P4C)は、教師の「こうあるべきだ」・「こうあってほしい」というような教師の持っていきたい方向性から解放され、自由に自分の思いを伝えることができるところに特徴がある。そこに、「エージェンシー」の発露の可能性を見出し、P4Cをカリキュラムの中に位置付けることの重要さを述べています。
 では、てつがく対話以外の、いわゆる通常の授業の中では、対話はどのように生まれるのでしょうか。奈須正裕(2023)は、学校教育のモデルを「口頭継承パラダイム」、「現在のパラダイム」、「情報技術パラダイム」の3つに分けます。

奈須正裕、伏木久始(2023)『「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実を目指して』北大路書房

「口頭継承パラダイム」は、教師による一方的な伝達のみがなされるものです。相互に応答し合う対話は、ここでは皆無と言えるでしょう。「現在のパラダイム」では、情報の伝達者及びゲートキーパーとしての教師が授業を進めるものです。ここでも、生徒間、児童間の対話は十分になされているとは言えないでしょう。なぜなら、有益な情報・知識を有しているのは、教員であって「子どもは無知なものである」という認識から離れていないからです。しかし、「情報技術パラダイム」は違います。知識データベース等に生徒も教師も等しくアクセスできるのです。これを可能とするのがICT機器と言えるでしょう。そもそもICTはInternet Communication technologyの頭文字をとった言葉です。つまり、インターネットを介して知識にいつでもアクセスできるようになったことで、知識を教師が独占することなく生徒から自分の好きなタイミングでアクセスできるようになったわけですね。すると、これまで、一斉指導により、知識と呼ばれてきた情報を伝達することが教育だという言説は打ち崩されるわけです。いつでも自分で調べようと思えば情報にアクセスできるのです。情報を覚えなくても大丈夫なのですから、授業で何を子どもが学んでいくのかということを問い直さざる終えなくなるでしょう。そのような学習の場にこそ、自然と「対話」が生まれてくるのではないでしょうか。

03 本校の取り組み「リゾーム型の学び」で生まれる対話空間

 私の所属する学校では、「リゾーム型の学び」として一人ひとりが、そこここで自分の興味・関心をもとに学びをスタートさせ探究していくプロジェクト型活動を進めています。一人ひとり、探究していることが全く違うのです。だからこそ、多様な興味が学級の中で行き交います。それぞれの興味が複合し新たな学びを生み出す。これがリゾーム型の学びです。だからこそ、そこに対話が生まれるのです。一人ひとり違うということを感じながら、私が私のままでいいんだと、自分の興味を大切に活動することが他者の興味を大事にすることにもつながります。そうして、自身の興味からスタートした探究が、対話を通してひらかれた時、誰かのためになることがあります。本校ではこれを「利他」と呼んでいます。空海がいう自利利他と似ているでしょうか。最初から誰かのために何かをするという目的意識は、結局自己満足つまり「自利」のためだとも言えるのではないでしょうか。自分の意図せぬ形で、結果的に誰かのためになる。そういった場は、一人ひとりが違うということを前提した場だからこそ聴くことに意味生まれ、対話が生まれ、多様な興味が複合していくのです。また、そのような実践をひらく場には、自然と批評空間が生まれます。話し手の身になり、話し手の声に耳を傾ける。そうして、話し手の思いに身を寄せ、「だったらこうした方がいいのでは?」と、アドバイスをすることもあります。そうして新たな問いがコミュニティーの中で生まれていくのです。

04 佐伯胖の「ドーナツ論」

 このような対話が自然と生まれるということについて、佐伯胖は「ドーナツ論」を使って説明します。佐伯は、私=Iと対象世界=YOUの世界、つまり「なじみ」の世界の外に文化的実践の世界であるTHEYの世界が存在するといいます。

佐伯胖の「ドーナツ論」に筆者がイラストを追加

例えば、YOU的世界にあるのはモノ・ヒトです。ここでは、サッカーボールを例にしたいと思います。サッカーボールを初めて蹴る子は、まだうまくボールを蹴る感じがわかりません。ボールをいろいろな蹴り方で蹴る中で、段々とボールとの関係を深めていきます。キャプテン翼という漫画がありましたが、「ボールは友達」というのが口癖だった主人公は、まさにボールを自由自在にコントロールします。まるで、自身の身体の一部であるかのように。そうしてボールとの関係が深まると、次はそのボールを使った技などの成果を友達に披露したくなるというわけです。それが文化的実践の世界THEYです。そこで自身の実践は他者の前に自然とひらかれるというわけです。つまり、順番に発表していくというような形式的な対話の場には、「発表しなければならない」ということが先行し、なぜ発表しているのかがわからなくなってしまうわけです。ドーナツ論で言うならばYOU的世界が欠如してしまうわけです。どうしてやるかわからない仕事ほど苦痛なものはありません。子どもたちにそんな思いはさせたくないですよね。
 しかし、そんな自分をさらす対話の場は、とても繊細な場です。せっかく伝えた自分の思いも、「なんだそんなことか」と、受け入れてもらえなかったら、つまり、聴いてもらえなかったら、どれだけ悲しいでしょうか。やはり、いくら対話の場を設定しても本当の意味での「聴く人」がいなければ意味をなさないのです。

05 対話空間に必要なものは「聴く」ということ

佐伯胖はこの聴くという行為について、「同感」と「共感」があるといいます。同感は自分と同じという感覚です。共感とは話し手になりきり、話し手の気持ちになって聴くということです。例えば、先ほどのサッカーボールを例に出すならば、サッカーボールとの関係を深めた子がリフティングを披露し、「最初は1回しかリフティングできなかったのに、10回できるようになりました。」と伝えたとします。それを聴いた子が「俺もサッカー始めた頃はそれくらいしかできなかったから、その大変さがわかるよ。頑張ったね。」と声をかけたとします。これは「同感」です。自分の尺度で話を評価し、聴いているからです。また、「なんだそのくらいしかできないのか。俺は100回できるよ。」、これは問題外です。これは対象が誰であれ、10回という客観的事実のみしか捉えることができていません。では共感はどのように聴くのかというと、それは例えば「あの子が1回から10回になるまで頑張ったってすごいことだ。きっと、ものすごい努力したに違いない。」とその子の身になって考えることができているか、ということが重要です。人は一人ひとり違うのですから、目の前のその子にとってその現象がどのような意味をなすか、その人の状況を慮って聴くということが何よりも大切なわけです。これの共感なかかわりをしようと対象に迫ることを佐伯は「共感的アプローチ」、レディは「二人称的アプローチ」と呼びます。
 私たち教員はこの「同感」と「共感」の違いについて、理解することができるでしょう。しかし、子どもたちには理解し実践することが難しいと思います。でも、この「共感的かかわり」こそが、対話空間を生み出すとともに、教室に安心・安全な場をもたらすのです。
 この「共感的かかわり」はどのようにしたらできるようになるのでしょうか。答えは一つではないでしょう。しかし、一つだけ言えるのは、まず教員が「共感的かかわり」で一人ひとりの子どもと接することが重要であるということです。子どもたちは教師のことをよくみています。教師の雰囲気でクラスの雰囲気が大きく変わります。教師のかかわりが硬いとクラスの雰囲気も固くなり、教師のかかわりが柔らかいと、子どもたちの雰囲気も柔らかくなるものです。しかし、ここにどうしたら良いかという正解はないのです。「こうするべき」はないのです。あるのは、あなた自身は、どうしたいか、どうありたいのか、そもそも何を大切にしているのか、という、あなた自身の話なのです。

06 教師として、「私」自身として、どうありたいか。

 西村佳哲さんは「かかわり方のまなび方 ワークショップとファシリテーションの現場から」の中で、図を用いて、「成果としての仕事」の背景には、「知識や技術」、「考え方や価値観」、「あり方、存

西村さんの考えた図を筆者が整えた図

在」があるとします。
ある成果を出すには、それを実現するための、技術や知識がいる。しかし、技術や知識は、「何をもってよしとするか」といった考え方や価値観があることで初めて生きる。さらにその基盤として、物事に対する態度や姿勢、言い方を変えれば、あり方や存在、い方があると述べます。
 学校では、教育の商品化が進んで、扱われる内容は上の部分の教えやすい知識や技術に偏っているのではないでしょうか。ある意味それは当然でしょう。なぜなら、あり方や存在は伝えづらいものだからです。著書の中で、「音楽は教えられるか」、という問いについて、「楽器の弾き方や音符の読み方を教えることは出来るけど、『音楽』を教えることは出来ない。それは実際に触れて、味わって、音楽そのものになってみるほかに近づきようがない。」からだと述べている部分に私も読んでいて納得しました。
 他にも、「土台となるあり方、考え方や価値観について脆弱な人はどうなるでしょうか。知識・技術のみをもっている人は、果たしてどうなっていくでしょうか。何のためにそれをするのか、何に役立つ技術なのか。自分で判断することは難しく、自分で行動していくというよりは、何かに使われていくような生き方になるのではないでしょうか。つまり、根底にある思いがなんなのか自分自身がわからないうちは、同じことをやっても、あり方や考え方が違うのであれば、結局別のものになるというわけです。」と、こんなことも書かれていました。

これは教育活動にも同じことが言えるのではないでしょうか。つまり、「○○○をやれば教室が、子どもが、必ずこうなる。」ということではないということです。
ここで大切にしたいのは、普段接している子どもたちにとっての教師としての「私」、ではなく、自分自身です。自分自身はどのような人間なのか。どのようにありたいのか。考えたことはありますか。子どもたちに対話を「させる」前に、まずが自分自身と対話してみませんか。


07 終わりに 「教師がてつがくすること」

みたいなことをお話させていただきました。
どんな方法論も、教師の思い、あり方で、及ぼす影響は大きく異なる。
対話を大事にしたいのは、なぜか。
そもそもどうして対話を大切にするのか。
「わたし」はなぜ対話を大切にするのか。
まずは自分自身と対話していこう。
そんな働きかけがしたかったんですよね。

教師は忙しく、方法論に飛びつきガチです。
でも、人間はそんな単純な生き物ではないでしょう。

教師自身がてつがくしていくこと。
これが何より、教師として必要なことであると、僕は思います。

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