単一言語のみを扱う鎖国的日常

 先日、伝統音楽関連の演奏会を聴きに行きました。演奏は素晴らしかったですし、前から見たかった舞踊も見ることもできて、ステージ自体はとても良い内容だったのですが、そこで司会をされていた方が語っていたことを思い出しました。
 どんな内容かといいますと、過去にいくつか文化が熟す時というのがあり、それが遣唐使を廃止した後と、江戸幕府が鎖国をした後であったというものです。そして、その司会の方がその話の締めでおっしゃったのが、(文化を熟させるためには)今一度鎖国をするのが良いのではないか、と冗談とも本気ともとれないようなものでした。
 その方の考え方が良いか悪いか、という話をしようとは思いません。
 ただ、そこで考えたのが言葉のことでした。日常的にメインで使う言語がどの言葉なのかで、当然得られる情報の量は変わってきます。例えば母国語が英語か日本語かで大分変わると想像します。
 僕の場合は母国語が日本語なので、基本的に日本語ベースで情報を得ますが、例えば海外の情報を翻訳したものを含めても、英語と比べれば、得られる情報は限られてきます。例えば報道などでよく見られるのが、発信した側と翻訳した側の二重のフィルターを通って情報が届けられるので、知りたい情報が削ぎ落とされていたり、または違う情報が付加されている可能性もあるわけです。人によっては、その情報を真に受ける、ということもあると思います。
 言葉は当然ものの考え方にも影響してきます。ネットが普及して世界と繋がる環境ができた一方で、単一言語のみを使うということは、ある見方をすれば、鎖国をしているのと何ら変わりはないと思ったわけです。
 ツイッターなどのSNSでは、簡単に翻訳をしてくれます。その精度はまだまだかもしれませんが、原語と照らし合わせて、日本語以外で書き入れられた情報を見た時に、『そんなミュージシャンがいるんだ』とか『そんな評論家は日本には紹介されていないな』など、知らないことが沢山出てきて面白いなと思います。
 もちろん、日本のことでも知らないことが沢山あるわけですが、結局何を言いたいかというと、もうちょっと他の言葉をしっかり勉強したら、という自分への戒めといいますか、問いかけといいますか・・・(苦笑) せめて、第二言語として英語は見つけたいな、と思ったのでありました(今まで何度そう思ってきたのだろう、ということはさて置き^^;)。 
 そうすることで、日本という国や日本人の感性の良い部分というのを再確認できたり・・・、と考えたのも嘘ではありませんが、ただ単にいろいろ言語がわかる方が新たな発見があるでしょうし、面白いと思ったわけです。
 それに情報は沢山知ることができた方が生きていく上で良いかと思います(もちろん、自分なりの取捨選択は必須ですが。情報に踊らされないためにも)。大げさに聞こえるかもしれませんが、過去に起こった沢山の悲劇は、(正確な)情報を取り入れられないために起こったことが多いと思いますから。
 
 今週はエレクトリックな楽曲と、ピアノ・ソロ曲をアップいたしました。
『aradnam Ver.00』https://note.mu/wakimaru_piano/n/n82ffe11dc6ab
原曲は自作のピアノ曲です。

『Harmony』https://note.mu/wakimaru_piano/n/nbcc9d6e17216
2ndアルバム『Piano+』に収録されています。
CD
Amazon
配信
(iTunes, AmazonMP3など)https://www.tunecore.co.jp/artist/Junichiwakimaru#r313813A

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