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【短編小説】善意の墓 第一話

 目覚ましをかけるわけでもないのに、毎朝だいたい同じ時間に目が覚めてしまう。
 習慣とは恐ろしいものだ。息子を小学校に送り出していた時の生活リズムが、未だに残っているのだから。
 波岡正春は朝6時にむくりと起き上がった。
 2月の早朝だというのに、冷水で勢いよく顔を洗う。瞼に残った眠気を吹き飛ばすように頬を叩き、玄関に向かった。
 新聞を取り出し、食卓に腰掛けた。時間をかけ、じっくりと記事を読み込む。朝の時間に余裕ができてからは、これが日課になっていた。
 半分ほど読み終えたころ、時計の針はようやく7時を回っていた。
 正春は立ち上がり、まずケトルに水を注ぐ。その湯が沸くのを待つ間に、朝食の支度を始めた。
 オーブンで軽く焦げ目をつけたバターロールと、半熟の目玉焼き。それにカリッと焼かれたベーコンとグリーンサラダを添える。
 ものの10分程の間に、それらと淹れたてのコーヒーが二人分、食卓に並んだ。
 出来上がった朝食を眺めながら、いつもながら上出来だ、と正春は大きく頷いた。そして、いつからだろうと思いを巡らせる。
 当たり前のように、手際よく朝食を作るようになったのは。掃除や洗濯が心底億劫だと感じなくなったのは、いつからだったろうか。
 10年前、正春は妻と死別した。交通事故だった。突然の出来事に茫然自失となりかけたが、悲しみに打ちひしがれている暇などなかった。
 当時、まだ12歳だった息子の面倒を見なければなかったからだ。それまで、家事は全て妻の橙子に任せきりだったことが、大いに祟った。
 料理の経験は皆無。それどころか、洗濯機を回したことすらなかった。それでも、息子に惨めな思いはさせたくない。正春は必死で橙子と同じようにやろうと努力した。
 橙子の作る朝食を思い浮かべ、それを再現しようと試みる。しかし、炊いた米はべちゃべちゃ、魚は生焼け、おまけに味噌汁は味がしなかった。
 その他にも、掃除、洗濯、学校行事への参加や縫物まである。どれをやってもうまくいかない。
 まさに悪戦苦闘の毎日。仕事の傍ら、それらをこなすのには、心身ともに限界が近づいていた。
 そんな中、ある日息子が袋入りのロールパンを買ってきた。そして一言、「朝はこれでいいよ」と言ったのだ。その一言に、正春は救われた。
 長年家事を務めてきた妻と、同じようにやれるわけがない。開き直るしかないのだ。その日から、正春は自分なりの、なるべく手間をかけない家事を模索した。
 ロールパンに出来合いのカットサラダとベーコン、それに目玉焼きくらいなら作ることができた。洗濯機も乾燥機付きのものに買い替え、干す手間を省いた。息子にも遠慮せず、自分でやれることは自分でやれと、少しずつ言い聞かせていった。
 そうして、だんだんと我が家の家事が形になっていったことを、正春はしみじみと懐かしんでいた。
 すると、2階からパタパタと足音が聞こえた。一人息子の雄一が起きてきたのだ。
「おはよう」正春がそう声をかけると、雄一は眠そうな声で「おはよ」とだけ返した。
 寝癖だらけの頭で、大口を開けて欠伸をしている。
「はやく顔洗って来い、朝食出来てるぞ」
 正春の言葉を横目に、雄一はのろのろと洗面所へと、向かっていった。
 もうすぐ社会人になるっていうのに、大丈夫なのかあいつは、と正春は苦笑いを浮かべた。
 雄一は今年の春、大学を卒業する。そして今日が最後の期末試験日だ。もうほとんどの単位は取得し、残すは必修科目の英語のみらしい。
 卒業後の就職先も内定し、春からは東京で一人暮らしを始めるようだ。いよいよ息子の独立が間近に控えていることに、正春は込み上げる感慨を押さえられなかった。
 何よりもうれしいのは、雄一の就職先が、自分と同業だったことだ。正春は長年、出版社で小説や雑誌の編集者として勤めていた。昨年に定年退職を迎えたが、入れ替わるように、次は息子が編集者の道を歩む。
 それも、自分もあこがれた最大手の出版社に入社するのだ。内定が決まったと聞いた時には、内心飛び上がるような思いだった。
 洗面所から出ると、雄一はかきこむように朝食を口に運んだ。
「おい、もう少し落ち着いて食べたらどうだ」
「もう時間無いんだよ。今日は絶対遅刻できない試験だから」
 雄一はそそくさと二階の自室へと戻っていく。
 いつもと同じように、たいした会話もないまま、朝のひと時が過ぎていく。
 自分は、いい父親だったろうか。ふと、そんな疑問が首をもたげる。思えば、これまで親子の会話はほとんどなかった。
 雄一はなぜ、自分と同じ道を選んだのだろう。こんな不器用で、家では何をやっても要領の悪かった父親でも、道標のような何かを示すことができたのだろうか。
 身支度を終えた雄一は、バタバタと階段を駆け下り、そのまま玄関へと向かった。靴を履くその後ろ姿に向かって、正春は一言、「がんばれよ」と声をかける。
「そんな大した試験じゃないよ」
 振り返ることもなく、雄一は玄関から飛び出していった。
1年前に会社を定年退職してからも、ずっと朝のルーティンワークが変わらないのは、雄一がこの家にいるからなのだろう。
 しかし、それもあと2ヵ月ほどだ。うれしいようで寂しいような、複雑な感慨を正春は抱いていた。
 
 定年退職を迎えてからというもの、正春はもっぱら書斎に籠り、小説を読んで過ごした。
 自分がこれまで担当していた作家の新刊や、目をかけていた後輩の担当した作品には、必ず目を通す。
 出版不況などと言われてはいるが、文芸はまだまだ力強い。そう思わせてくれる作品と出会えることが、正春のこの上ない喜びだった。
 長編小説を読み終え、しばしの間その余韻を噛みしめる。そして、次はどれを読もうかと書棚に目を走らせた。
 これまでに読んだ本は、一冊も手放すことなく、書棚に飾られている。
 だから、8畳ほどの書斎は、ぐるりと壁一面書棚に囲まれているのだ。
 正春はしげしげとそれらを眺める。いずれここに、息子の担当した作品が並ぶことを思うと、胸が躍るようだ。
 すると、不意に玄関の開く音が聞こえた。雄一が返ってきたのだ。
 正春はもうそんな時間か、と壁掛けの時計に目をやる。
 時刻はまだ11時少し前だった。試験を終えて帰ってきたにしてはずいぶんと早い。
 ここから、雄一の大学までは車で1時間ほどかかる。確か試験は9時から1時間半だったはずだ。
 嫌な胸騒ぎが走った。正春は速足で息子の部屋へと向かった。
 二階に上がり、すぐ右手にある雄一の部屋の前に立つ。その瞬間、部屋の中からドスンと何かが倒れるような音が聞こえた。
「おい、どうした。何があったんだ」
 正春は慌ててドアをノックした。だが、息子からの返事はない。
 ドンドン、ドンドン、しつこく何度もドアを叩く。
「返事くらいしたらどうなんだ」
5分、10分、正春は声をかけ続けた。
「うるせえ、ほっといてくれよ」
 雄一の張り上げた怒声が、耳を劈く。
 これまで、些細な親子喧嘩は何度かあったが、雄一がこれほど興奮状態になっているのは、初めてのことだ。
 部屋の中に入ろうと、正春はドアノブを回す。しかし、内側から鍵のかかったドアは、固く閉ざされたままだった。

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