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【短編小説】善意の墓 第二話

翌朝になり、正春は起きるなり息子の部屋に向かった。
 昨日は話の出来る状態ではなかったようだが、一晩経って頭も冷えたに違いない。
 正春は、勤めて冷静な口調で息子に声をかけた。
「なあ、昨日は何があったんだ。話してみてくれないか」
 トントン、と軽くドアを叩く。しかし、今日も返事はなかった。
「はぁ」思わず大きなため息がこぼれる。正春は踵を返し、仕方なく自室へ戻った。
 今は話したくないのだろう。正春ははやる気持ちをぐっと堪えた。
 朝食をとる気にもなれず、自室の椅子にもたれかかり、書棚を眺めた。ただ、無意識のうちに、指先は落ち着きなくひじ掛けを小突いていた。
 すると、しばらくして階段を下る音が聞こえてきた。
 ようやく雄一が起きてきたのだ。壁掛け時計に目をやると、もう午前10時を回っていた。
 正春は速足で階段下へと向かった。だが、一足遅かったようだ。
 その目に映ったのは、玄関から飛び出していく息子の一瞬の後ろ姿だけだった。
 直後に、バタンとドアが閉まる。その音は静けさの中に一層虚しく響いた。

 雄一が出ていった後、正春はしばらくの間葛藤していた。
 昨日いったい何があったのか、それを知る手がかりが、息子の部屋にあるのかもしれない。
 正春は息子の部屋の前で落ち着きなく、右往左往と歩き回った。
 昨日の試験は無事に通ったのだろうか。まさか、途中でボイコットしたなんてことはないだろうが……。
 正春は居ても立ってもいられず、意を決して息子の部屋の扉に手をかけた。
 扉を開いた瞬間、目に飛び込んできたのは横倒しになった書棚と、床に散乱した書籍だった。
 その他にも、机の上にあったであろう雑貨の数々が、あちらこちらに散らばっている。
 正春は思わず頭を抱えた。昨日、一体何があったんだ。肩を落とし、がっくりとうなだれる。
 すると、視線を落とした先に、一枚の紙切れが映った。葉書よりもやや大きな用紙に、赤文字が刻まれている。
 それを拾い上げ、内容に目を通す。その瞬間、マグマのように湧き上がる何かが、先程まで抱いていた不安や、焦燥、心配といった感情を、瞬く間に塗りつぶしていった。
 
「お願いします。なんとか、再試験を受験させてもらえませんか。将来がかかっているんです。お願いします」
 大学の教授室で、雄一は必死に頭を下げた。目の前にいるのは、昨日試験を受ける予定だった必須科目、英語担当の守屋だった。
「君はどうして昨日の試験に遅れてきたんだ? その理由如何によっては、再試験の受験を認めよう」
 守屋の問いに、雄一は一瞬固まった。なんと説明するべきか、すぐには言葉が出なかったからだ。
 はあ、と守屋の口からあきれる様なため息が漏れる。
「私に話せないような事情なのかね」
 厳しい口調で問い詰められ、雄一は意を決してありのままの事実を語った。
「昨日、車で登校中にスピード違反で捕まってしまいまして。どうしても納得できず、警察官に抗議したら、長時間その場に拘束される形になってしまって」
 守屋は益々顔を顰めた。
「なんだね、それは。完全に君の落ち度じゃないか。同情の余地がまるでない。悪いが、再試験など受けさせるわけにはいかない。もう1年、社会常識も含めて君は学び直すべきだ」
「そんな、お願いします。もう出版社から内定をもらっていて、それに……」
 バンッ、雄一の言葉を遮るように、守屋は拳を机に叩きつけた。
「内定が出ているからと言って、単位を出す理由にはならない。もうこれ以上の言い訳は無用だ。何を言われても、私の判断が変わることはない」
 単位は出ない、留年決定……。雄一は目の前が真っ白になった。ずっと、子どもの頃から憧れた出版社の内定が取り消される。たった一度のスピード違反がきっかけで。
 気持ちの整理など到底つかないまま、雄一はとぼとぼと教授室を出た。
 どこへ向かえばいいのかもわからず、雄一は校舎を出て、闇雲に歩き回った。

 真夜中、ようやく雄一は自宅に戻った。玄関を開けた瞬間、目の前には目を吊り上がらせた父親の姿があった。
「こんな時間までどこに行ってたんだ」
 正春の怒鳴り声は、隣近所に響くほどだった。雄一は慌てて扉を閉めると、父親を押しのけるようにして自室に向かった。
「待て、いつまで黙ってるつもりなんだ」
 ぐっと腕を掴まれ、玄関に引き戻される。
「痛ってえな。離せよ」
 父親の手を振り解いた瞬間、目の前に1枚の紙が付きつけられた。
「これはなんだ。説明しろ」
 苦々しい記憶が甦る。それは昨日、警察官に切られた違反切符だった。結果的にそれは、雄一の人生をどん底に叩き落す、片道切符になった。
「昨日の試験はどうしたんだ。まさか受けられなかったんじゃないだろうな」
 押し黙る雄一を、正春は容赦なく問い詰めた。雄一はやけになり、父親を突き飛ばした。勢いよく壁に叩きつけられ、正春は尻餅をついた。
「受けてねえよ。スピード違反で捕まって、説教食らって遅刻したんだ」
 正春は顔を真っ赤にして、激昂した。壁を突くようにして立ち上がると、その勢いのまま雄一を殴り飛ばした。
 思い切り頬を打たれ、雄一は階段下に倒れこんだ。頬の内側が切れ、真っ赤な血が口から溢れ出した。父親に手を上げられたのは、これが初めてのことだった。
「卒業間近の時期に、なんて馬鹿なことを。明日、先生に頭を下げてこい。土下座でも何でもして、再試験を頼んで来い」
「そんなの、今日行ってきたよ。でも、聞き入れてもらえなかった。もう留年決定なんだよ」
 雄一の言葉に、正春は益々頭に血が昇った。
「まさか、正直にスピード違反で遅刻したなんて言ったんじゃないだろうな。どうなんだ!」
「ああそうだよ。誤魔化さずにそのまま伝えた。それが悪いのかよ」
「馬鹿野郎! それで教師が納得するわけがないだろう。そんな事もわからないのか」
 正春は頭を抱え、はあと大きなため息をついた。その姿を見て、雄一の胸には居た堪れない気持が広がっていった。
「悪かったよ」
 雄一は枯れ枝が折れるように、頭を下げた。
「悪かったで済むか! 留年するなら、1年分の学費は自分で稼げ。俺はびた一文出さん。生活費も自分で何とかしろ。いいな!」
 正春はそう言い残し、自室へと戻っていった。一人残された雄一は、真っ白な表情でその場に立ち尽くした。
 正に、絶望。雄一の心は、一分の隙間もなく、負の感情に飲み込まれていった。

 正春は一睡もできないまま、朝を迎えた。
 留年が決定したということは、当然内定も取り消し。その現実は、到底受け入れ難いものだった。
 卒業間近だったというのに、なんと愚かなことをしでかしたものだ。情けなさと悔しさがどうしようもなく込み上げた。
 しかし、同時に後悔していた。頭に血が昇り、感情のままに息子を罵倒してしまったことを。
 自分以上に耐えがたい思いをしたのは雄一本人だろう。失意のどん底にある息子に、追い打ちをかけてしまった。
 正春は溜飲をぐっとこらえ、息子の部屋へと向かった。
 まだ、再試験を大学側に頼み込む余地は残っているはずだ。それに、たとえ留年になったとしても、人生は長い。これからいくらだって立て直せる。
 冷静に、今後の話をしよう。正春は意を決して息子の部屋のドアをノックした。
「雄一、昨日は悪かったな。少し話さないか」
 雄一からの返事はない。正春はダメもとでドアノブに手をかけた。すると、ドアノブはすんなりと回った。中から鍵はかかっていなかったのだ。
 しかし、ドアを開こうとすると、ずしりと重い。何かがつっかえているようだ。
 正春は力を込めてドアを押し開けた。その瞬間、足元あたりのドアの隙間から雄一の腕が見えた。
「おい、こんなところで寝てるのか」
 そう声をかけても、雄一の腕はピクリとも動かない。
 まさかと思い、部屋の中に顔を覗かせる。その瞬間、目に飛び込んできたのは、ドアノブにひっかけられた電気コード。そして、青白くなっている息子の顔だった。
「雄一、雄一!」
 正春は急いで首に絡みついたコードを解いた。すると、雄一の体は力なく床に倒れこんだ。
 咄嗟に息子の肩口を掴む。冷たい、そこにはもう、僅かな体温さえ残っていなかった。
「雄一!」と大声で呼びかける。しかし、ピクリとすら反応することはない。彼の声も、触れた掌の感触も、何一つ息子には届いていない。もう届くことはない。その現実を突きつけられるようで、彼はその場を立ち、廊下に出た。
 気が動転し、嘘だ、嘘だ、と心の中で何度も呟いた。
 視線を泳がせた先に、コードレス電話機が目に入る。とにかく救急車だ。正春は廊下の突き当りにある、それに手を伸ばした。

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