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【短編小説】善意の墓 第三話

 これが現実なのか、それとも夢なのか。その区別すらつかないまま、正春は目の前のそれを、茫然と眺めていた。
 狭い棺の中に横たわっているのは、どう見ても、息子だった。
 ほんの二日前。息子には輝かしい将来が待っていると、疑いもしなかった。社会に送り出す、その感慨を噛みしめていた。
 それが、こんなにも簡単に、失われるものだろうか。どうしても現実を受け入れることが出来ず、正春は目を逸らした。
 しかし、続々と現れる大勢の参列者たち。親戚や雄一の友人、それに、これまで受け持ってくれた先生方。
 彼ら一人一人の暗澹たる表情が、否が応でも正春の胸を抉る。
 やはり、息子は死んだのだ。その鉛のような重みが、息をすることさえ苦しくさせた。
 もはや、涙さえ出なかった。まるで意思のない置物のように、正春は葬儀場の隅で、ただ項垂れていた。
 すると、そんな正春の元に、1人の足音が近づいてきた。僅かに顔を上げ、男の顔を覗き込む。まるで、見覚えのない顔だ。
 男の表情は、ひどくくたびれていた。他の参列者とは別の、何か悲壮感のようなものが感じられた。
「この度は、ご愁傷様でした」
 正春の目の前で、男は深々と頭を下げる。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
 男は顔を上げると、その目に逡巡の色を浮かべた。数秒の後、男は意を決したように口を開く。
「私は明徳大学で英語を担当しています、守屋と申します」
 明徳大学、それは息子の通っていた大学だ。英語を担当、そう聞いた瞬間、正春の頭に血が昇った。
「あんたが……」
 咄嗟に、守屋の胸ぐらに掴みかかる。
「どうして、再試験すら認めてやらなかったんだ! 息子は頭を下げて頼んだんだろう!」
 あまりの剣幕に、周りの参列者たちがぎょっと目を見開く。
「申し訳ない。本当に、申し訳なかった」
 守屋は、手をぶらりと下げたまま、その目を閉じた。まるで、殴ってくれと言わんばかりに。
 正春は、拳を振り上げた。息子の受けた痛みの、数十分の一でも返してやりたいと思った。
 しかし、振り下ろそうとした右手から、ふっと力が抜けた。守屋を睨みつけていた視線が、不意に棺の方へ向かう。
 逆恨みはやめろよ、そんな息子の声が聞こえた気がした。
「申し訳ない。あなたを恨むのは、筋違いだ」
 正春は胸ぐらから手を離し、その場にへたり込んだ。
「いや、筋違いなんかじゃありません。一昨日、私が彼への再試験を拒んだとき、彼の目から、明らかに光が失われた」
 守屋もまた、その場に崩れ、両手をついた。
「その様子を見て、私は寒気のようなものを感じました。下手をすると、このまま死んでしまうのではないか、と。でも、私は何の言葉もかけてやらなかった」
 守屋は両手をついたまま、額を床につけた。
「申し訳ありません、申し訳ありません……」
 守屋は何度も、何度も、謝罪の言葉を口にした。
 それを聞く度に、正春の胸に居た堪れない思いが広がる。
「先生、頭を上げて下さい。悪いのは私です。あいつの話を聞いてやらなかったのは、他でもない私なんですよ」
 そう話す間に、正春の呼吸は徐々に荒くなっていった。過呼吸だ。
 ただならぬ様子に気が付き、葬儀場の職員が駆け寄る。正春はそのまま、医務室へと運ばれていった。

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