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月の満ち欠け 人の満ち欠け

人は性格やものの考え方、捉え方というものは様々あり、けっして同じ人というのはいない。

「そんなこと当たり前だろう」

そう、当たり前である。
だが果たして人は「当たり前だ」と言うほどに、本当に当たり前と思っているのか?


人の心には様々な形があり、色があり、温度があるが、「当たり前」と思っている人のほとんどは「ではどう違う」と尋ねられると答えに窮する。
「違うのは当たり前」と思っていながら、実は「同じ」ように勝手に見ていたりする。

「違うのは当たり前」
「人間だから同じ」

この区別がついていない。
区別がついていないというより「判断できない」のかもしれない。


以前、養老孟司先生が「動物は人間一人一人を【別物】として認識しているが、人は【同じ】というカテゴリーに入れる。動物にはそれが無い。」
と語っていた。
動物は自分にとって「良いか悪いか」をしっかりと見極めているということである。

まさにそれで、要は「カテゴリー分けと個別の【区分】」が曖昧なのである。
ようは、ただ単に漠然と「違う」と思っているだけで、それは「明らかに違うだろう」という『目立つ部分』だけを「違い」と見ている。

それもそのはずで、人は「そのように見せようと」するからである。


細かいところでいろいろ違いがあるから、人は本当に様々な形、色、温度である。
でも、どこか「自分と同じ」に見てしまっていたりもする。
だからそのように「錯覚」させようと人は無意識の行動をとる。

人というのは言わば『半月』のような状態であるが、それをいかに『満月』のように「見せるか」ということである。


「人間だから自分と同じ」というカテゴリーに入れるわけであるが、『何が同じで何が違うか』ということをなかなか明確には出来ていないまま「同じ」にしてしまっている。
それは「自分自身」の形、色、温度などの「個性」という他者との「違い」を知ろうとしないからとも言える。

なぜそれをしないのか?

きっと「知りたくない」ことがたくさんあるからだろう。

自分が他人より「勝っている」ところを見ようとするとき、当然「劣っている」ところも見なければならない。
だが「劣っている」ところは見たくない。
そして何より「知られたくない」のである。

自分が「劣っている」ものを隠して「勝っている」ところを『見てほしい』と願う。
だから他人の「隠す」を無意識にも受容する。

簡単に言うと『自分自身もよく見ていない』のである。


これからは「個性の時代」とよく言われるが、個性が死んでいるのは「見る目が曇っている」からであって、はじめから人は一人ひとり『全く違う』のである。

だから、個性を磨く前に「曇ったその目を磨く」ことが先である。
曇った目から「ウロコ」が落ちれば、いかに人は「違うか」ということがよくわかる。


全く同じ言葉を語っても、言葉の形、色、重さ、温度は様々であり、それが人の心を物語っている。
「言葉」という【多面体】のものの「言葉の意味」というほんの一面からしか見ないからわからなくなるのである。

長い経験則から出てくる言葉と、思い付きの行き当たりばったりで出てくる言葉と、「全く同じ言葉でもその姿は全く違う」わけである。


人として当然だろう
人なら誰でもそう思っているだろう

それは大きな間違いである。

そしてそれは『怠慢』である。


『人の道』というものが欠落し始めてどれくらいの年月が経っているのか・・・・
『道徳』というものを「当たり前のこと」ととらえる人と、「知識のアルゴリズム」として認識している人と・・・・
けっして同じではない。

現代の『賢い人』ほど【AI】のような「知識としての理解」と、それを利用するタイミングという「アルゴリズム」で『道徳』を「利用」したりする。
だがそれを聞く人は『同じ』という「漠然としたカテゴリー区分」に無意識に入れていたりする。
だから『思ってもいない道徳的な言葉』も、「賢い人が言っているから」という妙なカテゴリー分けをして、『いい人』という判断をしてしまう。
だが、その実『サイコパス』だったりする。

『サイコパス』ほどそのような言葉を使う「アルゴリズム」に長けている。
逆に言うなら「心から思っていないから恥ずかしげもなく言える」わけである。


人というのは本当によく『同じ』という括りにカテゴライズする。

『教師』というカテゴライズをし、『医師』というカテゴライズをし、『先生』というカテゴライズをし、『頭がいい』というカテゴライズをし、『いい人に違いない』というカテゴライズをし・・・・

カテゴライズすることで「実体を見ない」のである。

その根本にあるのが『自分の実体を見ていない』というものである。
自分自身が何がしかのいいところに「カテゴライズ」されようとしているからに他ならない。

『まさかそんなことはしないだろう』
と思うようなことを、人はけっこうするものである。

事実は小説より奇なり

である。


人は本当によく「隠そうと」する。
そして「隠せている」と思っている。

人というのは日常茶飯事的に『嘘』を言うもので、それは他人に対してだけでなく「自分に対して」も『嘘』を被せている。


私は長年『探偵』をしてきたが、『本心』を隠す人の『嘘』というものは、まるで『魚』のようである。
嘘を真っすぐに突くと諦めて正直になる人もいれば、真っすぐに突くとスルリと逃げる人もいる。
そういう人には「網」で本心を捕まえたり、「掛け捕り」という『よけると引っかかる』やり方で捕まえたり・・・

別に普通に接する場合は「自分がわかればいいだけ」だからそんなことする必要はないが、『言質(げんち)を取る』必要があるからそのようなことをして『本心』を引き出していたということである。

だからよくわかるが、本当に人はよく『嘘』をつくものである。


だから、「何が嘘で何が本心か」がわかれば、その人の「個性」は一目瞭然なわけであり、わざわざ「個性」を強調しなくとも「全然違う」姿をしている。
だが、人はそんな「個性」を強調する場合にも『嘘』をつく。
自分の「実体」とは違った姿で捉えてほしいと本心では思っている。

要は「自分の満月の姿」を人に認めてもらいたいわけで、半月や三日月状態の自分は「本当の自分じゃない」と言いたいのだろう。
でも「まん丸の満月」ではやりすぎだから、少し欠けた一七夜くらいの月の姿の自分がちょうどいい・・・というところか。

だが、いくら言葉で取り繕っても、それはあくまで『月』である。
『月』しか見えない人にしか通用しない。

その『月明かり』の大元は『太陽』であり、そちらを見ている者にとっては無意味なことである。


月は太陽の光を映す鏡であり、言葉は人の心を映す鏡である。
月はただ漠然と満ち欠けしているのではない。
その時々によって全く違う形、色、大きさ、温度差、そして人に与えるエネルギーも千差万別である。
同じ満月でもブルーもあればシルバーもあればピンクもある。
そういった違いをきっちりと名付けられているわけである。


人の言葉も同じであり、全く同じ言葉であっても、そこに映る「心」という「太陽の光」は全く違うわけであり、だから「言葉という光」の反射の仕方が全く違うのである。
それは、しゃべっている声のみならず、このように書かれた手書きですらない文章でも何ら変わらない。


人の善悪を「心」で判断している者と、「法律」という『ルール』で判断している者がいるわけで、それらの「度合い」なども人それぞれである。
そして、「ルール」でしか判断できないような人が、実は『人の上』に立っていることが多いのである。

そしてさらに、そう人がどんどん増えてきている。
増えてきているというより、「あからさま」になりやすくなっているということだろう。

「いやそれ、人として当たり前だろう」ということがわからない人が、だから「ルールを決めて」という社会になってきているのである。


あまりにも漠然とさせすぎて、あまりにも考えなさ過ぎて、もはや「わからない」ことだらけになってしまったのだろう。
だから、わけのわからない法律までが生まれてくる。



人の『目の曇り』は『心の曇り』である。
自分自身の『心』が曇っていて見えないから人の心が見えない。
自分の心がすっきりと晴れていれば、人の心もすっきりと晴れて見える。
自分の『実体』というものを「曇り眼(まなこ)」で見ているから、他人も『曇り眼』で見ることになる。


心の曇りを晴らすのは、自分自身を見る「目」の曇りを取ることであり、目の曇りを晴らすのは、自分自身の「心」の曇りを晴らすことである。

自分の優れた部分、欠落した部分を余すところなく見つめて、欠落した部分を他者が補っていることに気付くことで、はじめて『調和』というものが生まれる。

いつまでも『同じ』というカテゴライズをしているから、「あいつは良い」「あいつはダメだ」などとなるわけである。


現代教育で育った人間の「代替」となるものが「AI」である。
だから、現代教育に忠実であればあったほど、今生まれている「AI」に近くなるのは当然のことと言える。

「AI」とは人間で言うところの「左脳」である。
「AI」に人体は無く、よって五感は無く、五感のアルゴリズムとしての認識は可能であるが、それはあくまで「知識としての認知」であって、『感じて湧き出る』ものではない。


ここまで書くと『MATRIX』という映画の内容も違って見えるだろう。
現代社会はあの映画ように近づいている。
『アルゴリズム』で人間を管理する社会へと近づいているのである。
それは『右脳領域』を失った人間が統治する世界なのである。

そこから出てくるのが『新世界秩序』であり、『SDGs』であり、『ムーンショット計画』であり・・・
今そこへ向かって雪崩が起きるようになだれ込んで行っている最中である。


『人間がやることだから』などと『同じ』のカテゴリーに括って高をくくっていたら、きっと「えらい目」にあうだろう。





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