ブレンダのサムネイル

「四度目の夏」8

これまでのあらすじ:「ぼく」はおじいちゃんとおばあちゃん、父さんの妹である佳奈恵さんとその夫の益司さん、いとこのよっくんとみっちゃんが暮らすここ白雲岳の白泉寺にやってきた。三年前から両親と来ていたけど、母さんが死んでしまって去年は父さんの新しい妻と来た。今年は二人はキプロス島にバカンスに行っちゃったから今年はぼく一人だ。ここに来た目的は優しいおばあちゃんに会いたかったし、いとこたちと会いたかったっていうのもあるけど、もう一つ。去年知り合った白雲岳の中腹にある別荘地でAIヒューマノイドマシンであるブレンダと暮らすマサキに会いたかった。なんで会いたいかっていうと……。】

2046年7月24日 21:40

「じいちゃん、去年よりボケよったやろ?」
 よっくんが並べた布団の中で訊いた。
「うん。頭をはたかれたときにはびっくりした。よっくんもおじいちゃんに急にわけもわからずに怒られたりするの?」
「あるで。そんなんしょっちゅうよ。もう慣れたけどな」

 毎年両親と泊まる仏間に、今年はよっくんと寝ることになった。よっくんが「おれ、にいやんと寝る」と言ったからだ。実は一人でこの古い和室に寝るのは、ちょっと怖いと思っていたからぼくは心の奥でホッとした、のはここだけの話。

 この二十畳間ほどのこの広い部屋は真ん中でふすまで仕切ってあって、ぼくたちはその奥のほうの仏壇の部屋で寝る。仏壇の扉は閉じてあるけれど、その上の、天井に近いところにご先祖様の写真が飾ってあって、それはぐるりと欄干まで何枚もあった。仏壇の真上にある写真が一番古くて、白黒だ。この寺の開祖の写真はない代わりに、掛け軸になっている。白い着物を着て、その着物がはだけて上半身のやせ細った肋骨の透けて見える姿で裸で禅を組んでいる。
 この人がこの寺を興した人だというけど。目を閉じて無心でいるその顔は、ぼくにも父さんにも共通しているようなところはなにもなくて、ぼくは先祖といってもぜんぜんピンとこなかった。 
 写真をぐるりと見渡していくと仏間から一番離れたところに、おじいちゃんがいまのおじいちゃんよりずっと若いころの写真がある。

 おじいちゃんは山伏の格好だろうか、天狗のような衣装を着て、お炊上げの炎を前に、指を突きあげて一心に読経している写真だ。読経は読むというより叫んでいるように見える。迫真のおじいちゃんの姿に、三年前に初めて見たときには夢にもみて、ぼくはうなされた。だからぼくはこの写真があまり好きではなかった。
 でもさっき益司さんを連れて山岳修験に土砂降りのなか白雲岳を昇ってご来光を見たという話を思い出して、今はすこし気持ちが和む。

「その時おじいちゃんはこの姿で、山頂で朝日を浴びながら銅鑼を吹いたんだね」
 ぼくは布団に腰かけて天井をぐるりと見渡して言った。
「あ? もしか父さんの話?」
「そうそう、今日聞いた話。益司さんがここに来たいきさつを初めて聞いたもん。おじいちゃんが益司さんを救ったなんてね」
 真っ黒い空、打ち付ける大粒の雨、おじいちゃんのお経と怒号。必死でそれにくらいつく白い手ぬぐいを頭に縛って叫ぶ益司さん。
「でも益司さん、狂ってたとか絶望してたって……よほどエンジニアの仕事が辛かったのかな?」
「そら知らん。おれの生まれる前やもん」
「そっか、そうだよね」
「にいやんの父さんと母さんは、仕事きつい言うとったか?」
「母さんは確かに仕事に没頭していたけど……」

 ぼくは母さんの姿を思い出した。母さんは仕事に没頭してはいたけど、それほど仕事が好きだったようにも見えなかった。
 ぼくの母さんはあまり喋らないし、もっといえばあまり笑わない。せいぜいほほ笑んで見せるくらいだった。かといって益司さんのように仕事に狂ってた? そんな感じは全然なかった。
 母さんはいつだって冷静だった。
 癌が見つかったときだって、慌てることも恐れることもなくて、とても静かに受け止めていたように見えた。

「うん、そうだね。母さんは働きすぎだったと思う」ぼくは続けた。「父さんは酒や夜の遊びでそれを発散させていたけど、母さんは心の奥になんでもしまいこんでしまうとこがあったかも。わかんないけど」
「にいやんの母さんもせっかく白雲岳に来とったんやから、昔の父さんみたいに修験体験したったらよかったなぁ。心の内にしまいこんだもん、ぜんぶ吐き出してなぁ。いまやったらおれ、案内できんのに」
 よっくんがくやしそうに言った。
 ぼくは白いランニングシャツからのよっくんのまだ薄い肩や細い腕を見た。その細さにまだ幼い感じがする。でも去年より日に焼けて、うっすらと筋肉がついているのがわかる。ぼくみたいなもやしの白い腕とはぜんぜん違うのがわかる。
「この山登るの、かなりキツイよね。母さんに登れたかどうかわかんないよ。けど、でも、そう言ってくれてありがと」
「ん……」
 寝転んでいたよっくんがむくりと起きて、いきなりぼくのTシャツから伸びる腕を握った。
「ほっそ! にいやんには無理かもしれん」
「な!」
 ぼくは叫んだあと「よかった。ぼくは運動とかからきしダメだし登山なんかしたことないし、山頂は無理だと思ってたんだ」と小さな声で言った。
 ぼくらは目と目を合わせた。そしてすこしの沈黙のあとでよっくんが吹き出した。
「よっわ! にいやん、よっわ! ほんまにおれとおんなじご先祖様なんかいな。じいちゃんもおれくらいの年のときにゃ修験案内に付いて行ってたらしいで。じいちゃんはチビのころ『白雲岳の猿』と呼ばれてたんと。岩登りもひょいひょいやった、って。けんどじいちゃんの父さんは、もっと厳しくって」
「ぼくらのひいおじいさん? 厳しいって、おじいちゃんより?」
「聞くところによるとじいちゃんどころじゃないってよ! そのおれらのひいじいさんは白雲岳にある鍾乳洞みたいな岩場の窪みにじいちゃんをつれて行って、そこに閉じ込めたんと。ほいで飲まず食わずの読経を命じたんて」
「飲まず、食わ……?」
「それも三日」
「うわ……」
「それから虹池の蓮の花のまえでも三日、飲まず食わず。そしたら……」
「そしたら……?」
「あのじいちゃんの出来上がりじゃ!」
 よっくんが山伏の格好でお炊き上げをしているおじいちゃんの写真を指差した。
 改めて見ると、写真の中の若かりしおじいちゃんは黒く日に焼けてやせ細った頬にいくつもの汗が流れている。叫んでいるその目は半分瞼で隠れているけど、黒目には目の前の炎が反射してその中心が赤く染まっている。すさまじい迫力が伝わってくる。
 さっき食卓で見たおじいちゃんと同じ人間だとはとても思えない。ご飯を咀嚼しながら口からぼろぼろとこぼすおじいちゃんと。

「その最初の日は泣きながら読経して、二日目は顔の涙が乾いてかぴかぴになって、三日目にはのどが渇きすぎて唇も口ん中も切れて、四日目の朝に虹池に虹蛙が現れたんじゃと」
「あ、虹蛙の話ははじめてここに来た時に聞いたことあるかも。なんだっけ?」
「開祖さまがここに900日通ったら、現れったという虹蛙じゃ。ほれ、あっこにもおる」
 よっくんが指差す先に、掛け軸があった。禅を組んだやせ細った開祖老人の絵。その横には木の幹があって、枝の先に――
「あれ、柿の実かなんかだと思ってた。よく見たら色がついてる。あれは、赤?」
「あれは虹色ってゆう色じゃ。あれよう見たら蛙なんよ」
「虹色?」
「そう、あの蛙がな、開祖さまには『ここで寺を興せ』と言うた」
 よっくんが真剣な顔で言う。
「そしておれらのじいさまには虹池の修行が明ける朝、一つの予言を告げたらしい」
「予言?」
よっくんは胸の横に片手のひらをかざして目を閉じて言った。
「……『この寺はお前の代でしまいじゃ』って言うたんじゃと」
「しまい、って……」
 よっくんとぼくの間にすこしの沈黙があった。
「ぼくの父さんはここを出て行ったけど、益司さんがいるんだからこの寺は続くじゃん。その予言外れたね」
 そう言ってもよっくんはなぜかなにも答えなかった。
 ぼくはこの寺の開祖というご先祖様の掛け軸をもう一度見た。
 手前には菊の花があって、その向こうで、静かに目を閉じている。虹蛙が乗っている木の枝は細くて今にも折れそうに弧を描いている。ここからは蛙の形はわからない。

「開祖様はさ、おじいちゃんがこんな状態なこと、知ってるのかな」
 ぼくは言った。
「うん?」
 よっくんが訊き返す。
「なんていうか、おじいちゃん、厳しい修行に耐えて、学んで、悟って、この白雲岳から出ることなく、たくさんの修験者のために尽くしてきたよね」
「ほうじゃ?」
「その結果があれじゃ、むくわれないよ……」
 網戸の向こうの闇深くから、鳥の鳴き声が響いた。
「あれ、ってボケのことけ?」
「あ、いや、ごめん」
 ぼくは久しぶりに会う年下のいとこに言っちゃいけないことを言ってしまったような気がした。あわてて付け足した。
 また鳥が鳴いて、縁側の網戸から夜の風が入る。
「電気消す?」
 ぼくが訊くとよっくんが「うん」と答えた。
 ぼくは起き上がって、木目の天井から釣り下がった満月みたいな真ん丸い和紙でできた電気傘の紐を引いた。
 豆電球になって、もう一度引くと真っ暗になった。なんにも見えなくなった。

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