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◆5◆ 「<犯罪ギルド対策特別捜査本部>にて」

 アンヴリル。
 難攻不落の要塞として、裾野の広い山沿いに建造されたこの都市は、その標高によって大まかに三つのエリアに分けられる。
 まず、女王陛下の居所である城砦を山頂付近に頂き、政府中枢組織や立法行政府など、アンヴリルにとって最も重要と思われる建物がひしめき合っている。少し下ったところに政府高官や葉議員、有力氏族たちの邸宅があり、ここまでが「上枝部」と呼ばれる。
 続いて、いわゆる富裕層が居住するトストゥーナ地区があり、そういった人間向けの高級店が周囲に並ぶ。ここら一帯は高い塀と専従の戦士たちによって守られ、通行は厳しく制限されている。そのため、同じ「中枝部」のネッサウカ露店街とは──歩いている人間も、種族も、その身なりも──一線を画する。トストゥーナ地区の者たちからは、自分達を上枝部に組み込んで欲しいという声もしばしば上がっているが、いまだそれは実現していない。他に解決すべき事案を多く抱える葉議員たちにとって、地区の線引きなどトストゥーナの住民感情を満足させるだけで、大した意味はないと考えているのかもしれない。
 最後に、平均的な収入を得て暮らす職人たち、都市防衛のための戦士を育てる軍事施設、隊舎、教会、犯罪組織、その日暮らしをする貧困層までが広く分布している「下枝部」である。これも、スラム街とそれ以外では生活レベルに格段の差があるため、住民は所得の多寡によってお互いを「別世界の人間」だと考えている節がある。

 <青銅の盾>隊本部は、アンヴリルの中枝部に属する、ラホーナ地区にあった。
「あら、パルドーアのお嬢様。貴方、僻地に異動になられたのではなくて? 一体何をしてらっしゃるのかしら。ここは、我が国の安全を守る要。選ばれしエリートしか入れない場所ですわよ」
 目つきの鋭い女性が、底意地の悪そうな声音でリリスを挑発する。「エリート」の「リ」を巻き舌気味に発音している辺りに、光治郎はイラッとした。
「そっちこそ。徴税官殿の憶えめでたいと聞き及んではいたが、『また』何かやらかしたか、ニコル? こんなところで油を売っているのを見ると、よほど暇を持て余していると見える」
「『また』とは何ですの!? わ、私の優雅で緻密な仕事振りをご存知ないようですわね。あ、生憎『ミス』や『失敗』などという無粋な言葉は、私の辞書に載ってい、いませんの」
 自信溢れる台詞とは裏腹に、声が震えている辺り、心当たりが無い訳でもないらしかった。
 リリスによれば、この高圧的で敵対的態度を崩さない女性はニコル。トレッシャー氏族、ミレディア家という、比較的大きな勢力の出身であるらしい。お互いアンヴリルの氏族社会でトップを目指している、という意味で妙なライバル意識を持たれているのだ、とリリスは苦笑しながら言っていた。
 リリスと光治郎が<青銅の盾>隊本部へ到着した途端、目ざとくこちらを見つけて突っかかってきたのが彼女だったのである。他の巡回戦士たちは、「手続きがあるので、少しお待ちを」と、岩窟人を連行してどこかへ行ってしまった。
「まあ、あいつは文官、私は戦士だから進む道は違うんだがな」
 確かにリリスの言う通り、ニコルは細身で身長も低く、運動が得意そうなタイプには見えなかった。腕の太さや肩幅など、筋肉質なリリスと比べるべくもない。
 <ナルイグの民>というのは筋骨逞しく、戦闘に優れる者が尊ばれている種族だと聞いていたが、皆が皆そうだというわけではないらしかった。以前リリスが愚痴をこぼしていたが、これも平和な時代が長く続いたせいなのかもしれない。
「何をこそこそ話していますの? デカい図体してる癖に、やること為すこと小さいのは昔から変わっておりませんのねぇ」
 自分から注意が逸れたのが気に障ったのか、ニコルは苛立たしげに踵を鳴らし、ぐい、と顔を近づけてきた。頭三つ分は高いリリスの顔を、下から掬い上げるように睨みつける。
 (チンピラ同士の喧嘩かよ……)
 みしっ、という音と共に、リリスの全身が強張る。筋肉の収縮する音か、中に着込んでいる帷子と鎧が擦れる音か。それは判然としなかったが、相当カチンと来たらしいことは光治郎にも察せられた。
「いやいや、何でもないさ。お前には全く関係の無いことだ。さっさと下働きの仕事に戻るがいい。ほれ、掃除用具入れはあそこだ、しっしっ!」
 リリスはふんぞり返ると、まるで邪魔な小動物を追い払うかのように、ニコルの目の前で手を振ってみせる。
「なっ……! わ、私は掃除人ではございませんわよ! 徴税官殿直々に派遣された、<犯罪ギルド対策特別捜査本部>付きの上級連絡官ですわ!」
「お役所の役職についてはよく知らんのだが……連絡役に上級や下級があるのか?」
 別にリリスは嫌味で言ったわけではなく、純粋に疑問に思ったから口に出したようだったが……ぐっ、と言葉に詰まるニコルの様子を見る限り、その肩書きに大した意味は無いようであった。
 
 <青銅の盾>隊本部において、対犯罪ギルドの特別捜査本部が設置された折。
 徴税官レンブランの担当区域が、当該犯罪ギルドの勢力圏と被ることが判明。以前よりこの地域では徴税がままならず苦心していたため、これ幸いとレンブランは様々なルートを使い、何とか「文官と武官による合同捜査」という体になるよう根回しをした。実態は警察機構に情報を流してもらい、できれば税の取立てに協力してもらうというものであるとは言え、一応は対等の立場で捜査を行うのである。あまりに身分の低い者は派遣できない。そこで、徴税官の面目を保ち、かつ<青銅の盾>隊においても侮られぬよう、苦肉の策としてニコルに与えられたのが「準・徴税取立人補佐、ミレディア上級連絡官」という、偉いのか偉くないのかよく分からない役職名であった。
 この、ややこしい事情をもちろんニコルも承知している。だが、長年大した肩書きも得られず伸び悩んでいたニコルにとって、この長ったらしい肩書きは嬉しいものだったに違いない。危険地域への派遣ということで不安はあるだろうが、徴税官直々の命令であり、これは大きな出世のチャンスでもあるのだ。

「も、もちろんですわ! 正式には準・徴税取立人補佐、上級連絡官というのです。我が徴税事務所には大勢の人々が働いていますの。役職が細かく分かれているのは当然でしょう?」
 だから、ニコルはこう言うしかない。<青銅の盾>隊の人間の前でも、ライバルの前でも。彼女は見縊られる訳にはいかないのだ。
「ふうん。お前も、出世したんだなあ」
 一瞬、怯んだ様子をみせたニコルだったが、何かを言い返そうと口を開きかけた……ところで彼女を呼ぶ戦士の声がした。
「……連絡官殿! ミレディア上級連絡官殿!」
 出鼻を挫かれ、口をパクパクさせるニコル。それでも尚、リリスに向かって言葉を紡ぎ出そうとしていたが、もう一度名前を呼ばれると、諦めたように鼻を鳴らし靴音も高く去っていった。
「ライバルか……ずいぶん敵視されてるんだな。仲、悪いのか?」
「まあ、馬が合うかと問われれば、否定せざるを得んな。昔からそうだった」
 リリスは何だか遠い目をして、そうつぶやいた。
「何だ、幼馴染とか、そういう関係なのか?」
「……まあ、そんなところだ」

◇◆◆◆◇

「ご協力、ありがとうございます。いやいや、なかなかの大捕り物だったそうですな! 我々<特捜部>一同、感謝しておりますよ」
 簡単な事情聴取──とはいえ、終始和やかなムードで行われ、世間話のような気安さだった──を終え、帰ろうとした矢先のこと。<犯罪ギルド対策特別捜査本部>を指揮しているという人物に呼び止められたのだった。彼女は、ビスト氏族のダリラと名乗った。年齢は、リリスの二回りは上であるようだ。
「いえ、ナルイグの戦士として当然のことをしたまでです。このアンヴリルで、悪漢を野放しにするなど私には出来なかった。それだけのことです」
 胸を張って堂々とそう答えるリリスを、老練の指揮官は、まぶしそうな目で見つめる。
「しかし、あの岩窟人はそれほどの重要人物だったのですか? 露天商に難癖を付けて金品を巻き上げる、ただのチンピラのように見えましたが」
「いえね、当初は我々もそう考えていたのです。巡回戦士に賄賂を渡し、多少のことには目をつぶってもらう……そういった犯罪者はアンヴリルでも珍しくありませんからな。奴もその手合いだろうと。ですが、どうも……」
 顎に手を当て、視線を逸らし、空の一点を睨みつける。そして、いかにも困っています、といった表情を作り、ダリラは口を濁した。
「何かおかしな点でも?」
 待ってました、とばかりに話を続けるダリラ。身を乗り出し、ぐっと顔を近づけてくる。
「いまだ捜査中なので、詳しいことは言えないんですがね……。彼は、随分手広くやっていると言いますか。ここら一帯だけでなく、別の地区にまたがって『友人』を作っているようでしてねぇ……」
 口元に手を当て、小声でそう言った。
 「友人を作る」というのは、賄賂を通じて巡回戦士とコネクションを作る、という意味の隠語だろうか。確かに一介のチンピラにしては金のばら撒き方が派手なようだ。その資金は一体どこから捻出しているのか。
 光治郎がその点を指摘すると、リリスも同意してくれた。
「そうだな。ああいった輩の活動範囲は、狭い地域に限定されるのが普通だ。別の地区まで手を広げるとなると、その地区を管轄する<青銅の盾>隊にも話を通す必要がある。これは具合が悪いというか、何というか……」
「リスクが増える?」
 光治郎の言葉をダリラが引き継ぐ。
「多くの者が関われば、それだけ秘密が漏れやすい、ということですな。あとは……大きな声では言えませんが、巡回戦士の方から賄賂を要求するなんてことも……まあ、あるんですわ。長年出世できず、薄給で働く者は少なくないですから。そんな折、袖の下を渋られたとなれば……これはもう、仕返しに今までの悪行を暴露してやろうという者も出てくる」
 光治郎の理解を待つかのように、ダリラは一旦言葉を区切る。そして腕を組むと、再び口を開いた。
「賄賂の額を下げる訳にはいかない。だが、縄張りを広げれば、買収するべき人間はどんどん増えていく。こりゃ、幾ら金があっても足りませんわな。割に合わない」
「つまり、賄賂を渡す相手は、なるべく少人数かつ狭い範囲に抑えた方が彼らにとっても安全だと……」
「そういうことですな」
 我が意を得たり、とばかりに指を二本、ピストルのような形にして光治郎に突きつけてきた。
 先ほどから気になってはいたが、ダリラは妙に芝居がかったジェスチャーが好みのようだ。思えば、最初にリリスに話しかけてきた時もそうだった。両手を翼のように広げ、大きな声でこちらの名前を連呼しながら、満面の笑みで近づいてくる彼女をリリスとしても無視する訳にはいかなかったのだ。……ひょっとしたらこれが、荒くれ者どもが跋扈する武装集団──警察組織というには荒っぽい人間が多すぎる──を指揮・統率していくための技なのかもしれない。
 しかし……なるほど、それなら<特捜部>の者たちが違和感を覚えるのも分かる。つまり、例の岩窟人は個人で動くチンピラや下っ端などではなく、その目的は犯罪ギルドと<青銅の盾>隊の間に密接な繋がりを作ること。つまり、組織的な犯行であると……。
「いやー、これは……何だか話が大きくなってきたな」
 一介の大学生である光治郎にとって、犯罪者や彼らを束ねる犯罪組織などというものは、全く別世界の話だ。せいぜい、海外ドラマだとか小説の中でしか見たことが無い。だから、このような能天気な反応になってしまう。だが、ここアンヴリルに暮らす人々にとって、それは対岸の火事ではない。身近に存在する脅威なのだ。
「そもそも、犯罪ギルド対策は女王陛下の肝いりで行われているのです。我ら<特捜部>の設置もその一環でしてね」
「女王陛下の……! それは知らなかった」
 リリスが目を丸くする。
「ええ。女王陛下が御心を痛められている──このことから、奴ら犯罪ギルドの魔の手は、予想以上に深いところまで及んでいるのかもしれませぬ」
「それは、由々しき問題ですな。<青銅の盾>隊が腐敗し始めている……などとは考えたくありません」
 リリスは、ギュっと拳を握りこむ。
「もちろん、私も同じ考えですよ。だからこそ、我々が組織されたのです。ご安心ください。必ずや、アンヴリルに巣食う病巣を根こそぎ退治してみせますよ!」
 ダリラは両腕で力こぶを作りながらそう言うと、破顔一笑した。この人に全て任せていれば、きっと何もかも上手くいくに違いない──そう思わせてくれる、頼もしい笑顔だった。
「今後、我々<特捜部>の戦いは激化するでしょう。多くの氏族を巻き込んだ争いとなるかもしれませぬ。その時は、ぜひ有力氏族・大パルドーアの貴方にも力添えをして頂ければ、と思います」
 そう言って、右手を差し出してきた。
「ええ、ぜひ。私に出来ることであれば」
 二人はがっちりと握手を交わす。
 光治郎は、自分に手が無いことを少しだけ寂しく思うのであった。

◇◆◆◆◇

 それから数日は何事もなく過ぎていった。
 出立の日に備え、リリスと光治郎は長旅に必要な物を揃えるのに奔走していた。
 まずは、長期保存の利く食料と水。この世界において缶詰はまだ発明されていないようだが、瓶はあった。塩漬けにされた鶏肉や野菜、保存料代わりの酒に浸けられた牛肉、ドライフルーツ、豚肉の燻製といった物の瓶詰めを購入。さらに、不味いが保存性の利く堅めのパン(一般的にビスケットと呼ぶ)、粉スープなどを買い物袋に放り込んでいく。水はすぐに腐ってしまうらしく、聖別された特殊な魔法石──教会では<浄化石>と呼んでいるらしい──が入った物でないと旅には不向きらしい。だが<浄化石>は高額であり、トストゥーナ地区の富裕層ならともかく、薄給のリリスには手が出ない。そのため、リリスは、水代わりの葡萄酒やラム酒を何本も買っていた。
 「大丈夫なのか? そんなもの水代わりに飲んでたら、ベロベロになるんじゃないのか?」と問うと、「ナルイグの戦士が、それくらいで酔い潰れたりするものか」と笑い飛ばしていた。
 代えの服や下着なんかは、既に揃えてある──独特のファッションセンスを持つリリスにとって、市販品は買う価値が無いのだとか──ということで、あとは任務に必要な細々とした道具を買い集めれば、準備万端。
 実は、荷運び用の家畜も買う必要があるのだが、早めに手に入れたとしても、世話をするような場所も餌も無いということで、これはアンヴリルを出る直前に買い求めれば良い、という話になった。
 あとは、出立の日を待つばかりとなる。
 準備が出来たのだから、すぐにでも旅立てばいいんじゃないかと光治郎は思ったが、正規の任務である以上、書類に記された期日を守る必要があるらしい。また、リリス単独の任務ならともかく、これはチームで行う仕事である。他の部隊から異動してくるメンバーが揃うのを待たなければならないのだ。
 だから、今日もこうして二人は、すっかり第二の我が家となってしまった路地裏の安宿で過ごしていた。
「あっ、そうか。何となくリリス一人でやるのかと思ってたけど、そりゃそうか。一人じゃ危ないもんな。野盗だとか、落ち武者だとか、そういったならず者はいるんだろ?」
「コージロの生きていた時代なら分からんが……今はそうでもないぞ。まあ、ナルイグの戦士に楯突こうという愚か者はそうはいない。危険なのは野山を縄張りにする野生動物や毒虫、毒草くらいのものだ」
 ワッハッハと胸を反らし、リリスは豪快に笑う。
 対して光治郎は渋面を作ると、心配気な顔で、返した。
「いや、この間の岩窟人みたいなのがいるじゃないか。結局逃げたとはいえ、最初はリリスを恫喝してたし……。犯罪ギルドってヤバイ連中もいるんだろ?」
 このリリスという相棒は、どうにも危なかっかしい。確かに腕っぷしは強いのだろうが、それだけで乗り越えられない危機はいっぱいある。そもそも幾ら個の力で勝ろうとも、組織の力には勝てない。だから国は軍隊を持つのだし、犯罪を取り締まるために警察を置くのだ。人は群れ、社会を形成する動物である。それは国民という大きな括りから、家族という小さな単位まで見ても同じこと。
 ──人は、一人では生きられない。
 今のリリスは、かつての自分に、どこか重なるのだ。自分の能力を頼みにして、これさえあれば世の中を渡っていける、と過信していたあの頃。自分なら何でも出来るという万能感に溢れ、どんなことも一人でやろうとしていたし、出来ると信じていた。その結果が……劇団からの追放である。
 だから、リリスにはそうなって欲しくなかったのだ。
「……まあ、その、なんだ……うむ。……ついつい大口を叩いてしまった。許せ」
 先ほどの様子から一転、リリスは憂いを帯びた表情になる。
「前にも話したと思うが……悲しいことに、ナルイグの戦士が悪鬼のごとく恐れられていたのは、戦中戦後の話でな。百年経った今では……戦士の本拠地とも言える、ここアンヴリルで犯罪ギルドのような手合いに好き勝手されている始末だ」
 <ナルイグの民>の守り手である戦士たちの尊厳は傷つけられ、リリスの生家パルドーア氏族も凋落の一途を辿り始めている。戦争で人が死ぬのはそれは嫌だろうが、戦いに生き、歴史に名を残してきたリリス達一族にとって、今、この時代の方が生き辛いのかもしれない。
「だからこそ……だ! 今こそ我らは戦士としての誇りを、権威を取り戻さねばならん! 連綿と受け継がれてきた戦士の教えを、始祖の想いを、私の代で潰えさせるわけにはいかないのだ!」
 そのために今回の任務を必ず成功させ、アンヴリルに凱旋しなければならないんだ──とリリスは続けた。
 まるで、リリスが何とかしなければ、パルドーア氏族はそのまま瓦解してしまうと言っているように感じる。母親が失踪したのだから無理もないが、リリスは思いつめ過ぎていて、危うい部分がある。
 自棄になったり、目的達成のため形振り構わぬ行動に出たりしないよう、自分がしっかりフォローしなければ、と光治郎は肝に銘じるのだった。
 (何といっても、俺とリリスは運命共同体だからな……)
 好むと好まざるとに関わらず、光治郎とリリスは切っても切り離せない関係になってしまったのだ。
 何しろ命が懸かっている。降霊屋ヴァイオラによれば、<鎧装着者>であるリリスが死ぬ時、同時に光治郎の命も尽きるのだという。
 (リリスの命運は、俺の協力如何に懸かっている……と言っても過言じゃないな。こいつは、しっかりしているようで、どこか抜けている。あんまり細かいことを気にしないのは、長所でもあり短所でもあるんだ。その辺、俺が気をつけてないとな……)
 とりあえず、動けない鎧の身で、自分に何が出来て何が出来ないのか、それを見極めておく必要がある。ひとまず魔王ザヴォーク=ラ=ゴラスの芝居は続けるとしよう。数日前も、包囲する<青銅の盾>隊の戦士たちを煙に巻くことに成功した。今後も、リリスがピンチになった時、敵の気を反らせることくらいは出来るかもしれない。
 舞台において、同じ役者と演技力で張り合う自信は無かったが、この世界で魔王役を演じきるくらいのことは、自分にだって出来る。光治郎は決意を新たにするのだった。

 その時、強く戸を叩く音がした。
 安宿の古びた戸はギシギシと音を立て、ネジが緩んででもいるのか、蝶番が耳障りな金属音を鳴らす。
 リリスと光治郎は顔を見合わせた。
 まだ朝もやが残る時刻。既に日は昇っているとはいえ、宿の主人が起きだして来るような時間ではない。そもそも、宿代は一括で払ってしまっているので、文句を言いに来られるはずはないのだが。
 再びのノック。先ほどよりも乱暴なそれに、光治郎は思わず身を竦める。
「分かった、分かった! 今、戸を開ける。しばし待て」
 リリスは、素早く愛剣のバスタードソードを引き寄せると、無駄の無い動作で、さっとドア横の壁に張り付く。足音は、無い。衣擦れの音すら無かったように思う。身体能力が高いのは知っていたが、戦士としてのリリスの資質の高さに、光治郎は改めて驚嘆した。
 細くドアを開け、そっと外の様子を窺う。鞘を身体の中心に寄せ、逆手で柄を掴むその姿は、狭い空間での不意打ちに対処するための構えだろうか。
 と、すぐに扉は大きく開かれた。リリスが、訪問者に危険は無いと判断したからだ。

「おはようございます! いや~、こんな早い時間から申し訳ありませんな。いやはや、これも職務でしてね。我らとしても辛いところなのですよ」
 そこにいたのは、先日<青銅の盾>隊本部で握手を交わした相手。<犯罪ギルド対策特別捜査本部>の指揮を執る、ビスト氏族のダリラだ。
「ああ、大丈夫ですよ。もう剣をしまいなさい。この方は大氏族出身の戦士。身元はしっかりしています。滅多なことはしますまいて」
 背後に控える五人の巡回戦士たちは、その言葉でホッと気を緩めたように見えた。ダリラの前で盾を構えていた二人も、横に退く。
「ダリラ様。指揮官御自らこのような場所に来られるとは……何かあったのですか?」
 多少硬い声だったが、リリスはいつも通りの態度を崩すことなく、ダリラに問う。
 (リリスは凄いな……。あんな大勢の戦士に剣を向けられても、冷静にふるまってる)
「そんな怖い顔をしないで下さいよ。部下が抜刀していたことは、大目に見てもらえると助かります。ええ、彼らも職務ですからね」
 リリスはハッとすると、ちょっと照れたように視線を逸らした。上手く表情を取り繕えなかったことを恥じたのかもしれない。
「まあ、そんな訳でして。今朝方、ちょいとした問題が発生したものですから……是非、貴方にもお力添えをして頂きたいと。まあ、こう、思ったわけです」
 武装した──その上殺気立った──巡回戦士を多数引き連れてリリスの元を訪れた以上、「お力添え」というのが言葉通りの意味であるとは思えない。先ほど、あえて部下の戦闘体勢を解除させたのも、「余計な抵抗をしたら分かってるな? 場合によってはパルドーア氏族本家も巻き込むことになる。そうなれば、穏便には済ませられないぞ」という一種の脅しなのだろう。
 何より、柔らかい話し方とは裏腹に、リリスを刺し貫かんとばかりに向けられた、ダリラの鋭い眼光が全てを物語っていた。
「それでは、ダリラ様。私に何をしろと?」
 だというのに、リリスの声音はどこまでも冷たく、平静で、東から昇った太陽が西に沈むがごとく、淡々としている。
 対して、ダリラの返答は直接的な答えではなかったが、ここへ来た理由を説明するには十分だった。

「例の岩窟人なんですがね……殺害されました。留置場から脱走したあと、道端で襲われたようです」

◇◆◆◆◇

 リリスは大人しく、<青銅の盾>隊に連行された。
 一応は「殺人犯の捜査に協力する」という体であったものの、それが単なる方便であったことは間違いない。薄暗く、狭く、ろくに掃除もされていないような部屋に案内されてから大分経つが、誰もやってこないのだ。外からはかんぬきが掛けられているようだし、窓は高い位置に一つだけ。完全に容疑者扱いである。
「ったく、あいつら酷いな! リリスが何をしたって言うんだ?」
 幸いなことに、リリスが光治郎を同行させることに、特に文句は言われなかった。単に共犯者として疑われているだけなのかもしれないが、別々の部屋にしなかった辺り、「協力者」に対して最低限の配慮はしているというポーズなのだろうか。
「捜査上の重要な駒だった男が、不審な死に方をしたんだ。数日前に斬ろうとしていた私が疑われたとしても不思議じゃないな」
 室内を興味深げに見回しながら、リリスはそう言った。
「そんな……いや、まあ確かに斬りつけようとはしてたけどさ。リリスは殺すつもりなんてなかったんだろ?」
「もちろん、そうだ。だが、相手は強靭な肉体を持つ岩窟人。人間だったらまず両断されるような力加減だったのは間違いない。傍から見たら殺意があるように見えただろうな」
 リリスは、どこまでも冷静だった。ダリラの訪問を受けた時の緊張感は、もはや無い。<青銅の盾>隊本部に着いてからは、むしろリラックスしているくらいだ。
 高潔と正義を旨とし、ナルイグの戦士としての信念に生きる彼女のことだ。「自分は無実なのだから、罪に問われることはない。真実は必ず明らかになるのだ」とでも考えているのかもしれない。だが、警察に連行されるという経験が無い光治郎の頭の中は、「冤罪」やら「死刑」といった物騒な言葉でいっぱいであった。
「いや、本当に大丈夫なのか? 任務で街を出る予定だったんだろ? 下手したら、ずっとここに捕まったまま、なんてことになるんじゃないか?」
 今後の処遇について、あえて軽めに言ってみたものの、本当のところはどうなのか光治郎には分からない。何しろここは、「基本的人権の尊重」も「法の下の平等」も無い異世界だ。現代日本人の感覚が通用するとはとても思えない。捕縛されたら最後、裁判も何もなく、現場の人間の胸三寸で処刑されてしまうのではないか。そういった不安が拭えなかった。
「安心しろコージロ。貴方の生きていた時代とは違うのだ。今は<青銅の盾>隊といえども、そう無茶はやらないさ。戦時中でもないしな」
 その言葉で光治郎は、魔王ザヴォーク=ラ=ゴラスの役を演じなければならないことを、いまさらのように思い出した。
「う、うむ。そうか。確かに俺の時代とは違うようだな。当時は、拷問で無理矢理下手人の口を割らせ、罪が重ければ打ち首獄門。処刑前に市中引き回し。その首を公衆に晒して辱めたものだ。今はそんなことはしてないみたいだしな、うむ」
 何となくテレビで見た時代劇の知識で誤魔化してみたが、リリスがそれほど反応していないところをみると、この世界でも昔はそういった感じだったのだろう。
「まあ、今でも手荒な取調べはままあるが……。今回はそんなことにはならんだろうよ。っと、……ああ、ようやく来たようだ」
 しばらく耳をピクピクさせたかと思うと、リリスはそう言った。光治郎には何の物音も聞こえなかったが、耳聡いリリスが言うのだ。おそらく、取調べが始まるのだろう。

「いやいや、待たせて申し訳ない。何しろ、外でも内でもドタバタしてましてね。人手が足りないんですわ。あっはっは!」
 果たして、重い扉を開けてやってきたのはダリラであった。書記官なのだろう、部下を一人だけしか連れてきていない辺り、人手が足りないというのは本当らしかった。
 ダリラは、持っていた書類と煙草盆を机の端に置くと、席に着いた。そして、パン、と手を打ち合わせ、気を取り直すように陽気な声で続けた。
「さて、時間もありませんし、始めましょうか。なに、貴方のここ数日の行動を教えて頂きたいのです。あっ! 殺害された岩窟人についても知っていることがあれば、是非」
 

 取調べは、比較的短時間で終わった。
 連行された時は、ダリラ始め巡回戦士たちの様子はただ事では無かったが、聞くべき事を聞いたあとダリラは二人をあっさり解放した。
 例の岩窟人を追跡したのは、たまたま街の人に狼藉を働いている場面に出くわしたからで、詳しいことは知らないとリリスが説明すると、ややがっかりしたようだった。だが、結局ろくな情報も得られぬまま、犯罪ギルド撲滅の糸口になると思われた男が死んだというのに、ダリラはそれほどの落胆を見せなかった。話を聞く限り、それくらいは想定していたようだ。
 そのことにリリスは疑問を抱いていたようだが、ひょっとしたら、こちらに伝えてない何かがまだあるのかもしれない。
 (他にも情報源になりそうな関係者を捕らえている……とかな。<犯罪ギルド対策特別捜査本部>だって昨日今日作られた組織じゃないだろうし)
 ひとまず、特にお咎めも無く解放されたことに、光治郎は安堵していた。リリスの任務達成を手助けし、一族の復権という夢を叶える事で、光治郎も生き返ることができるのだ。こんなところで足止めを食っている場合ではない。
 (でも、リリスが殺人の罪で死刑……なんてことにならなくて本当に良かった……)
 薄情だと言われようが、何かの間違いでリリスと共に命を落とすことになるなど、御免だった。リリスがそうであるように、光治郎にも役者として大成するという大きな夢があるのだ。

 <青銅の盾>隊本部前の大通りを逸れ、もう一本道をまたぐと川沿いの道に出る。アンヴリル内を流れる川の一つ、オーリオ川だ。上流の本線から、中枝部の辺りで三つに分かれて下枝部へと大きく広がっていく。
 川面には、アンヴリル各枝部に物資を輸送するための小船がいくつも浮かんでいた。桟橋では荷役がさかんに行われているようで、威勢のいい声がこちらまで聞こえてくる。
 川を右手に見ながら、人通りの少ない道を二人は歩いていた。逆側の建物が高いせいか、中天に近い日が遮られて日陰になる。まぶしいくらいに照らされた川向こうとは、実に対照的だった。
「しかし、ホントすぐに釈放されたな。ダリラさんたちがやってきた時は、俺たち、もう終わりかと思ったよ。リリスは最初から分かってたみたいだけど、何でだ?」
「ああ、それは単純だよ」
 ゆったりとした川の流れを眺めながら、リリスは口を開いた。
「ダリラはこう言った。『留置場から脱走したあと、道端で襲われたようです』と。つまり、内部に脱走の手引きをした者がいるということだ。例の岩窟人が犯罪ギルドの殺し屋に消されたのだとしたら、そいつら二人は連携しているはずだ。まあ、三人か四人か、それは分からんが……。事が発覚しにくいよう、少人数なのは間違いない」
「<青銅の盾>隊に何人も裏切り者がいる可能性があるってことか……! ダリラさんの手前、あまり考えたくない話だな」
 光治郎がそう言うと、リリスも「まあな」と渋い顔をしてみせた。
「だが、手引きする側と殺す側、そのどっちの人物像にも私は合わないんだ」
 リリスは指を一本立てると、
「第一に。私は、<青銅の盾>隊所属ではない。留置場をうろうろしていたら、即座に叩き出されるだろう」
 と言った。そしてさらにもう一本立て、
「第二に。私は数日前に被害者を追い回し、殺害しかけている。すんでのところで巡回戦士たちに阻止されたがね。その時、簡単にだが身元照会もされている。さて、犯罪ギルドはそんな足の付きやすい人物に殺しをさせるだろうか?」
 と続けた。
 なるほど。言われてみれば確かにそうだ。
「えっ、じゃあ何でリリスは取り調べを受けたんだ? 連行される時も何だか凶悪犯みたいな扱いだったけど……」
 早朝、二人の下を訪れたダリラと巡回戦士たちの様子を思い出す。やたら殺気立っていたし、完全武装の上、抜刀していた。正面で大盾を構えていた二人は、リリスの攻撃を確実に受け止めるために配置されていたのだろう。
 ダリラが取り成してくれたので一触即発の空気は薄れたが、リリスが少しでも怪しい行動を取っていたら、突入されていた可能性は高い。
「私を取り調べたのは、もしもの可能性を潰しておきたかったんだろう。裏をかいて実は……なんてことがあるかもしれないからな。連行された時にやけに物々しかったのは、私の戦士としての能力が高く評価されていた、ということだ。これは喜んでいいだろうな」
 そう言うとリリスは、満面の笑みを浮かべた。
「確かにリリスのパワーは桁外れだよな。両手持ちの大剣を片手で振り回すわ、虫みたいに壁をよじ登って家から家に飛び移るわ、地面抉りながら走るわ……」
「ふふん」
 そうだろう、そうだろう、とばかりにリリスは盛大に胸を反らし、鼻を高くする。
「性格は豪快で頼もしいし、体格は立派だし、戦士として天性の才能があるよな」
「あっはっは! そう褒めるな褒めるな。どれも本当のことだが、いざ口に出されると照れる」
 リリスの高く伸びた鼻が、際限なく伸びてゆく。
「でも、繊細さが要求される仕事とか、細かい作業は苦手そうだよな」

 しばし絶句したあと、驚愕の表情でリリスがつぶやいた。
「…………どうしてわかった?」

◇◆◆◆◇

 突然リリスが走り出した。
 
 オーリオ川に架けられた簡素な橋を渡り、大勢の人々──その種族は多民族国家のアンヴリルらしく様々だ──が行き交う荷揚げ場を過ぎた辺りから、急にスピードが上がったのだ。
 人通りがあるため、もちろん全力ではないのだろうが、あっという間に周囲の景色が後ろに流れていく。胸部鎧(ブレストプレート)に、ごつい足甲や腕甲(ガントレット)を装着しているというのに、とんでもない速度だ。改めて彼女の身体能力の高さに、光治郎は驚くのだった。
 光治郎に何の相談も無く、リリスが突飛な行動に出るのはもう慣れっこだったが、全身に急激なGがかかるのは勘弁して欲しいところである。
 肺どころか内臓の一つも無いはずなのに、光治郎は息苦しさを感じていた。これが擬似的に再現されたものなら、いったい誰が行っているのだろうか。現代日本とは違って、ひょっとしたらこの異世界には神というものが存在するのかもしれない。
「ちょっ……急にどうしたんだよ、リリス」
「しっ! 誰かにつけられてる」
 警戒心もあらわに、切迫した様子でリリスがそう告げた。
「後ろが見えるか? できれば高度を上げて、相手の正確な位置を教えて欲しい」
「はっ?……いや……え、えっ?」 
 いったい、彼女は何を言っているのか。
 訳の分からないことを言い出すリリスに光治郎はきょとん、としてしまった。
「ああ、もう!」
 苛立った様子で声を上げ、リリスは辺りを素早く見回す。人と人の間をすり抜け、道端で果物を売っている屋台を器用に避けると、細い路地に身を滑り込ませた。
 リリスはこういう事態にも慣れているようだが、如何せん戦闘に適した大柄な身体と、遠くからでも容易に判別がつく派手な服が仇となっていた。かなり距離を離しても、向こうからはこちらの位置がすぐに分かってしまう。小手先の対処法では焼け石に水なのは明らかだった。
「いいか、コージロ! よく聞け。手短に説明する」
 リリスは声を潜めつつも、語気を強めてそう言った。その間も、通りの方に油断無く目を走らせている。
「このままでは埒が明かない。こんなところに隠れていても、すぐに見つかるはずだ。今こそ、コージロの協力が必要なんだ」
「そんな……。いや、でも俺に何が出来る? 俺は自力じゃ動くことも出来ないんだぞ?」
 魔王を名乗っているとはいえ、それはあくまで役柄に過ぎない。光治郎は一介の学生であり、こういった危機に対処する能力が自分にあるとは到底思えなかった。
 しかし、リリスは重ねて光治郎に助力を請う。
「<魔導鎧>の契約者は、魂だけの存在だ。鎧に縛られているとはいえ、本来は位置的な制限を受けない。だから、鳥が飛び立つように、『魂の視点』だけを上空へと移動させることが出来るはずなんだ。その力で、後方にいるはずの尾行者を見つけて欲しい。どうだ、やってくれるか?」
 なるほど、そういうことも出来るのか。光治郎は、てっきり自分の魂はこの鎧の中に閉じ込められていると考えていたのだが、リリスの説明によれば、微妙に違うようだ。魔導鎧と光治郎は、ある程度の長さを持った縄──決して解けないであろう縄だ──で結び付けられている。ちょうど、リードを結ばれた犬のようなものだ。そして、光治郎は魂なので、重力に縛られずに空を飛ぶことが可能なのだ、とリリスは教えてくれた。
 自分は、リリスの契約者だ。彼女の望みを叶えることでこちらの望みも叶う。いや、たとえ契約のことが無かったとしても……自分はリリスの相棒で、友達だ。光治郎は、そう考えていた。一緒に過ごした時間は短かったが、光治郎はリリスにかなりの親近感を抱いていたのだ。躊躇う必要はなかった。
「分かった。やってみる」
「助かる。私は、正面切って戦うのは得意なんだが、こういった隠密に長けた者を相手にするのは、どうもな……」
「ははっ。リリスらしいな」
 軽口を叩いて気持ちを落ち着かせると、精神を集中する。こういう時、焦ってはいけない。準備が整わない内に足を踏み出せば、その一歩目でこけるのは火を見るより明らかだ。それは、光治郎が長年の舞台経験から得た教訓だった。
 目をつぶり、深呼吸をする。落ち着いて。だけど手早く、澱みなく、スムーズに。光治郎の頭の中が、どんどんクリアになってゆく。
 尾行者との距離を考えても、大した時間的余裕があるわけでもない。もはや「出来るか出来ないか」じゃない。やるしかないんだ。光治郎はそう自分に言い聞かせると、意識を上空に広げていく。自分の身体が羽根のように軽くなって、だんだんと空へと浮き上がっていく。やがては周囲の建物の屋根が見え、多くの人々が行き交う通りが見え、遥か遠くにはアンヴリルの高い壁が……そんなイメージを脳内に思い描いていく。
 
 目を開けると、急に視界が開けた。

 気が付くと、光治郎の意識は、かなりの高空を漂っていた。
 このままではダメだ。視点が高すぎて、人物の判別が出来ない。せっかくこういった超常の力が使えるのだから、双眼鏡を覗くように見たい場所を拡大できる機能があればいいのに、と光治郎は愚痴を零す。
「よし、高度を下げたぞ。でも、人と建物がごちゃごちゃしてて、どいつが怪しいのか判断できないな」
「物陰から物陰に移動する……なんて分かりやすいことをするのは素人だ。距離を開けて立ち止まっているか、ベンチに座っているか……二人組なら立ち話をしている奴らも怪しい。買い物客に紛れている可能性もあるが……ひとまず歩いている人間は除外していい」  
 リリスの声が、すぐ近くから聞こえる。自分は空の上にいるというのに何だか不思議な気分だったが、便利だし、そういうものなのだろうと光治郎は納得した。
 下方を観察してみると、この辺りにベンチの類は無い。荷揚げ場に続く広い通りなので、人々がくつろぐような場所では無いということだろうか。馬車──荷車を引いているのは馬ではない何かだったが──も行き交っており、立ち話をするのにも適していない。食べ物の屋台や露天もちらほらあるが、今は閑古鳥が鳴いていた。立ち止まっている者はいなかった。ただ、荷揚げした物だろうか、積み上げられた木箱の上や、路地に座り込んでいる酔っ払いが、ちらほらいる。
 怪しいのはこの辺りか、と光治郎は見当を付けた。
「酔っ払いが何人か、いる。みんな地面か、その辺の荷物の上に座ってくだを巻いてるな」
「他に怪しい者はいないんだな? 立ち話をしている者や露天の店主と世間話している者も?」
「ああ。いない」
 リリスは一瞬考え込む様子を見せると、すぐに顔を上げた。
「ここまでする必要は無いとは思うが……念のためだ。立場上、私は敵が多い。私を亡き者にしようとしている不逞の輩がいないとも限らんからな」
 それが意味するところは光治郎には分からなかったが、リリスの決意と、懐から何かの道具を取り出したのが伝わってきた。
「いいか、コージロ。特定の場所を見るのではなく、辺り一帯を広く視界に納めておけ。今から、<認識阻害魔法>を無効化する道具を使う」
「えっ、そんな魔法があるのかよ」
 魔法という技術があるとは聞かされていたが、そんな便利な物があるとは知らなかった。そもそも、そんな物を使われていたら光治郎では敵を発見することが出来ないではないか。何故リリスは光治郎に索敵をやらせたのか。リリスの意図が分からず、怒りよりも先に戸惑いを覚えた。
「あるにはあるが、そこらのならず者や流れの魔法遣いが使えるような代物ではないんだ。宮廷魔術師や、軍隊に所属する上級士官が使うような……いわゆる軍用魔法という奴だ。習得や使用には厳しい制限がかけられている」
 それは、そうか。魔法に疎い光治郎でさえ、いくらでも悪用する方法を思いつくのだ。暗殺者や犯罪組織に連なる者たちがほいほい使えたら、この世界の秩序は早晩、崩壊するだろう。
「ということは、当然リリスも……」
「私は戦士だ。魔法なぞ使えないに決まっているだろう」
「おいおい……」 
 リリスはゴホン、と一つ咳払い。「今はそんなこと、どうでも良い。通りから目を離すな」と一喝し、緩んでしまった空気を引き締めた。
「私も、そこまでの魔法が使われているとは思わない。アンヴリル内で許可無く軍用魔法を発動したことが露見したら、死罪だってあり得る。そこまでのリスクは負わないだろう」
 「軍用魔法の使用が許可された相手だったらどうすんだ」と光治郎は内心思ったが、よくよく考えれば、左遷された戦士であるリリスがそんな大物に狙われる理由は無い。リリスの実家関係かとも考えたが、ならばなおさらその可能性は低い。失脚した族長の娘を、一体何の理由があって付け狙うのか。
「認識阻害の魔法……中でも<魔導鎧>の魂にだけ作用する物があるんだ。<対魂・認識阻害魔法>というんだが……これは範囲も狭く、対象が限られているから街中で使っても違法ではない。相手が使っているとするならこっちじゃないかと思う」
 なるほど。レーダーのジャミングみたいな物か。あるいは無線妨害か。魔法と言われると理解し辛いが、現代日本にある物に置き換えてみれば、頭にすんなり入ってくる。
「それをしばらく無効にする道具があってだな。用心のために一応持っているんだが……」
「なんだ? 何かマズイのか? あ! まさか、それを使うと逆にこっちが罪に問われることになったりとか……?」
 リリスは深刻そうな声音を隠そうともせず、苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「……高いんだ、これ」

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