◆3◆ 「市場の泥棒騒ぎと岩窟人」
リリスは背に負っていた巨大な得物──バスタードソードをずらり、と引き抜くと、無造作に上段に構えた。
(いや。素人にはそう見えるだけで、あれが<ナルイグの民>流の正式な構えなのかもな……。というか、あれ絶対、片手で使う武器じゃないだろう!)
バスタードソードは両刃の長剣である。柄の部分は、両手で掴むためであろう、かなり余裕を持って長めに作られている。問題は刃の部分である。刃渡りが、リリスの身長とほぼ同じくらいあったのだ。
これには光治郎も驚いてしまった。初対面の時リリスは武装していなかったし、鎧を着てしまえば、どんな武器を持っているかなど光治郎の位置からは確認できなかったのである。
戦士だとは聞いていたし、リリスはかなりの大柄だ。何しろ、街を歩いている同種族の女性と比べ、頭四つ分は高い。腕力も相当な物なのだろうと予測はしていたが、まさかこれほどとは思っていなかった。
かなりの重量だろうに、それを、片腕だけで保持している。その姿勢のまま数秒。ゆっくりと呼吸を整える。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。吸って、吐く。
吸って──
鋭い呼気と共に、鉄塊が振り下ろされる。刃は地面に着くことなく、すぐに引き戻され、再び大上段から。風を切る重い音が、何度も何度も繰り返される。
涼しい顔をしていたリリスの額に、玉のような汗が浮き出てくる。今は、例のフリルまみれのドレスではない。訓練用なのであろうか、露出度の高い運動着がどんどん別の色に染まってゆく。
光治郎は今、宿の裏庭でリリスの鍛錬風景を眺めていた。夜明けと共に起き出したリリスは、光治郎を伴い、この場所へやってきた。特に説明などは無かったため、何故ここで光治郎が見ていなければならないのか、はよく分からなかった。
(相棒として、自分にどれだけの実力があるのか俺に見て欲しかったとか……そういうことかな?)
何にせよ、リリスの行う豪快な素振りは、中々に見応えがある。
そうしてしばらく眺めていると、動きに変化が生まれてきた。上段から始まるのは同じだったが、袈裟懸けに斬り下し、目の前を横薙ぎにし、身体を丸めて随分と低い位置を斬っている。おそらくリリスの脳内では、敵の首や脚が斬り飛ばされていることだろう。
上段、中段、下段と必殺の気合を込めて、リリスはひたすら剣を振り続けた。
どれだけ時間が経っただろうか。本日の鍛錬が終わったらしく、リリスは一息吐くと、剣を鞘にしまった。そして、タオルを手に取り、こちらへ寄ってきた。全身にびっしりと浮いた汗の量から、その運動量がいかに負荷の高いものであったかが窺えた。
「凄いな……。戦士ってのは皆そうなのか?」
開口一番、光治郎が感嘆の声を上げる。
「いやいや、私のは我流剣法も良いところだ。一応正式なやつも学んだんだけどな。私には合わなかった。アハハ、ウチの剣術師範は匙を投げていたぞ」
褒められて嬉しかったのか、リリスはちょっと照れながら、そう言うと朗らかに笑った。
「あっ、そうなのか……。やっぱり片手でそんなデカい得物を扱うのは普通じゃないんだな」
「まあ、そうだ。大体、これは、両手持ちの武器だしな」
「だよな! どんだけ力持ちなんだよリリスは!」
半ば予想していたが、やはりというべきか、リリスの能力は傑出していた。
「私は、生まれつき腕力が人並み外れててな。まだ幼児の頃から、力じゃそこらの大人に負けないくらいだったよ。だから、軽い片手剣でチマチマ突き合う、なんてことは煩わしくてやってられんのだ」
几帳面で堅物の武人、といった印象のリリスだが、意外と細かいことが苦手らしい。「駆け引きやアイコンタクト、戦いの流れを読む、なんてことをするくらいなら、問答無用で叩き伏せた方が楽じゃないか。大抵一撃で済むし」などと言う辺り、面倒臭がりの極致である。だが、リリスの身体能力ならば、実際にそれが可能なのだろう。
象と猫の戦いに、技術は必要ないのだ。
「そういえば、さっきから気になってたんだけど、首から提げてるネックレス……訓練の邪魔じゃないか? どこかに引っかかりそうで危なっかしいんだけど」
光治郎がそう言うと、リリスはハッとしたような顔を見せ、首元で揺れるダブルリングを手で抑える。そこにちゃんとあることを確認すると、ホッとしたように緊張を解いた。
「ああ、これか。いつも肌身離さず付けているから、ここにあるのが当たり前で、ときどき存在を忘れるんだ。でも、今はチェーンを短くしているから、問題はないよ」
「へえ、いつも付けてるのか。よっぽど大切な物なんだな」
「ああ。これは、私がまだ小さい頃に母上から頂いたものなんだ。昔ちょっとした事件があって……その折にな。落ち込んでいた私を気遣ってくれたのだろうな。あの頃からいつも身に着けるように心掛けている」
そう言うと、リリスはどこか遠くを見る目になった。
「母上とは、大分……疎遠になってしまったがね……。だから今は、これが私と母上の繋がりを示す、唯一の物なんだ」
光治郎は、迂闊なことを聞いてしまった、と後悔した。リリスはぼかした言い方をしたが、彼女の母親は現在失踪中であり、亡くなっている可能性が高いのだ。つまり、そのネックレスは母親の形見だということになる。
だが、いまさら謝るのも烏滸がましい気がして、光治郎は別の事を口にした。
「そうか……。お母さんの加護が込められているのかもな」
「いや、これには何の魔法もかけられてないと思うぞ?」
「そういう意味じゃないんだが……まあいいや」
重くなった空気を弛緩させる、リリスのとぼけた返答に、光治郎は思わず笑ってしまった。
「……? まあいい。コージロはそこで待っていてくれ。軽く水浴びしてくる。支度が出来たら街に出るぞ」
「街へ? 何か用事でもあるのか?」
「ああ。買い出し──の前に、まずは朝食だ! 流石に腹が減った」
<魔導鎧>となって以来、光治郎は空腹を感じない。リリスに言われて、ようやく「人は生きるために食事をしなければならない」ことを思い出したくらいだ。魂の身なのだから当然だが、リリスは違う。
「そういや、リリスは昨日から何も食べてないもんな。ここって、夕食は出ないのか?」
「……この宿はとにかく安いのが売りだと言ったろう?」
「なるほど。そこまで懐具合がやばいとは思わなかったよ。……リリス、頼むから餓死なんてしないでくれよ?」
光治郎は一応本気で心配したのだが、冗談だと思われたらしく、軽く笑い飛ばされてしまった。
「ハッハッハ! ナルイグの戦士を甘く見るなよ。数日の絶食など大したことではないわ! ……決して、金が無いということではないんだからな?」
言い訳のように付け加えられた言葉にリリスの子供っぽい一面が見えて、再び光治郎は噴き出してしまうのであった。
◇◆◆◆◇
リリスによれば、出発予定日は一週間後。
長旅に必要な物資を揃えなければならないということで、二人は大通りに面したネッサウカ露天街に来ていた。「露天」とは言いつつも、いずれの店もきちんと建物を構え、そこそこしっかりとした身なりの店主と店員がいる。売り物が道にまで所狭しと並べられ、日差し避けに華やかな色の厚布が簡易テントとして設置されている。そこら中に色とりどりののぼりが立てられ、各店の屋号であろうマークが染め抜かれているのが見える。その部分だけを見れば確かに露天なのかもしれない。
先日訪れたドランセル市は、日用品というよりはこまごまとした物を売っている市場であった。怪しげな金属でできた装飾品や木彫り細工、パイプやキセル、水タバコなどの嗜好品、安酒や油、調味料の量り売りなどもあった。光治郎に言わせれば、日曜に公園で開かれるフリーマーケットの巨大版であり、つまりは──何だか胡散臭い雰囲気が漂う市場であったのだ。
それと比べれば、ネッサウカ露天街は日当たりもよく、道にも店にもどこか清潔感が漂っている。アンヴリルの中でも比較的高地であり、背の高い樹木が少ないのも一因であろうか。
リリスによれば、富裕層や身分の高い者ほど高地に居を構えている──例外的に、戦士用の宿舎は低地にある。アンヴリル防衛の任があるためだ──という話であり、ここら一帯が小奇麗なのもそのせいか、と光治郎は思った。
「昨晩はよく眠れたか?」
店に並べられた品物を手に取りながら、リリスが聞いてくる。
「いや、眠ったと言えばそうなんだろうけどさ……妙な感じだよ。自分が魂の状態なんだって実感がないからかな」
先日、喫茶店でしばらく話し込んだあと。
話の続きは部屋でしよう、というリリスの提案により、二人は小さな宿に向かった。
出立の日が近いこともあり、既に戦士用の隊舎は引き払ってきたという。着いた場所は街中でも日当たりの悪い地区であり、正直なところ裕福な人間は利用しないであろう宿だったが、リリスは数日前からここに滞在しているようだ。
もっと綺麗なところにすれば良いのに、と光治郎は思ったが、「ナルイグの戦士は質実剛健。寝る場所があれば事足りる。過度な贅沢は必要ないのだ」と、堂々と強がりを言うリリスに、もはや言い返す気力も無かった。わざわざ真実をほじくり返して、彼女を怒らせる必要もあるまい。
リリスが一通りの説明を終えたので、いよいよ次は自分が語る番かと身構えていた光治郎であったが、名前と身分を聞かれたくらいで終わってしまった。彼女は、それほど光治郎の素性に興味があるわけではないらしい。
ひとまず光治郎は、生前、悪逆非道の限りを尽くした「魔王ザヴォーク・ラ・ゴラス(通り名はコウジロウ)」であり、愛する女のために全てを捧げたものの、手酷い裏切りに遭って死を迎えたのだ、ということになっている。これはもちろん、劇団ふたご座でオーディションを受けた役である。魔王の台詞はもちろんのこと、彼の生い立ちや人物像、時代背景まで頭に入っていたし、設定を拝借するにはちょうど良いと思ったのだ。降霊屋ヴァイオラの忠告を思い出し、とっさに口から出たのがその名だったのだが、改めて自分の未練がましさを感じずにはいられない。
「どうかしたのか? 何だか呆けているぞ」
「あ、いや、その……」
初対面でうっかり本名を言ってしまったから仕方ないのだが、名前が『ザヴォーク』なのに通り名が『コウジロウ』という言い訳はかなり苦しい。ひょっとしたら他にも、自分では気付かない穴があるかもしれない。そういった、適当に誤魔化したところを気付かれやしないだろうか。
また、「王としてどのように国政を取り仕切っていたのか」「敵国とはどのような交渉を経て開戦したのか」「普段は何を食べていたのか」「愛する女性とはどういった思い出があるのか」──などと、深いところまで突っ込まれたら。破綻無く説明できる自信はまるで無かった。そんな細かい設定は、台本に書かれていないからだ。
そのように内心、戦々恐々としていたので、光治郎は何だか拍子抜けしてしまった。おそるおそる他に聞くべきことはないのか、と問うてみる。しかし、リリスが口を開くと、すぐに合点がいった。
そもそも、この世界における「魔王」というものは悪の道に走り、堕落した王であるため、生前の本名が後世に伝わることはほとんど無いのだという。魔王の死後、歴史家によって編纂された書には、後の支配者によって付けられた「忌み名」のみが記されるためである。そのため、記録には「姦淫堕落王」だの「邪悪鬼畜王」だの「欠落愚鈍王」といった通り名だけが残されるといった具合である。次の支配者が自らに都合よく過去を書き換える──この辺りは地球も異世界も変わらないのだな、と光治郎は苦笑したものだ。
だから、光治郎の口から聞いたこともない魔王の名が出てきたとしても、それは当然で、気にかけるようなことではなかったのだ。むしろ出自や身分よりも、光治郎がちゃんとリリスに協力してくれるのか、ということの方が大切らしかった。
これから長い旅になるであろうこと、一族の後継者としてこの仕事を見事完遂しなければならないこと、そして首尾よく自分が族長となった暁には光治郎との<鎧契約>が完全な形で履行されるということ……。この三点について、リリスは何度も言葉を変えて繰り返した。具体的に何を手伝えばいいのかよく分からなかったが、とにかくリリスに協力せねば元の身体に戻ることはできないのだ。否も応もなかった。
そこまで話し終えると、リリスは、魔導鎧である光治郎を脱ぎ、簡素な机の上に置いた。そして「疲れたのでしばし休む」と言うや、ベッド代わりなのであろう、床に敷かれた厚布の上に寝転ぶ。<鎧契約>の儀式が彼女に与えた負担はそれなりのものだったらしい。すぐに寝息を立て始めた。
そこで初めて、光治郎は疲労というものを全く感じていない自分に気付いた。肉体を捨て、魂だけが異世界に召喚される、などという事態は相当な精神的ストレスだったはずだ。現代日本にいた頃の自分なら、間違いなくパニックに陥っていただろう。だが、光治郎は今もケロリとしている。召喚された時はそれなりにビックリはしたが、早くもこの異世界<アン・ダスフィアーナ>に順応し始めている。当初の落ち込みようはどこへやら、目に映る景色や異国情緒溢れる人々、リリスの話すあれこれがもの珍しく、ワクワクする気持ちが止められない。もはや観光旅行に来たような感覚である。ああ、これも魂だけになってしまったせいなのか、と仕方なく目をつぶって考え事をしていたら、いつの間にか朝になっていたというわけだ。
「時間感覚が曖昧っていうか……瞬きをしたらもう朝だったというか……。あまり寝た感じはしないな」
「まだその身体に慣れていないんだろうな。そもそもコージロは疲労しないのだから、睡眠も必要ないんだが……だが、まあ大抵の<魔導鎧>は寝るらしいぞ。彼らも生前の習慣を続けた方が、魂の固着が巧くいくんだろう」
一瞬の間があった。
「えっ!? 魔導鎧ってのは、たくさんいるのか? 俺みたいに召喚されて、魂を鎧に入れられてる奴らが他にもいっぱい?」
光治郎は驚きを隠せない。一方リリスは、「何を言っているんだこいつは」という顔をした。
「当然だろう。でなければ、降霊屋のような商売が成り立つはずがない」
会話ができる魔道具──魔導鎧の歴史は比較的古く、<ナルイグの民>が国家を形成する以前から存在していたという。その技術は、かつて大海の彼方に隆盛を極めた古代王国から伝わったとも、天から遣わされた竜の御使いが地上の民を祝福するために授けたとも言われる。いやいやあれは数千年前の<名も無き魔王>による邪法が元であるとか、あるいはコ・ルビット国家の宮廷魔術師が極秘裏に開発したものだったが闇に葬られて流れ流れてやってきたのだ、などといった珍説も飛び出す始末。真相は定かではない。
ただ、一つ確かなことは、古来より魔導鎧というものが<ナルイグの民>の戦士にとって身近なものだったということだ。一定以上の功績を挙げた戦士は、降霊屋が降ろした故人の魂と<鎧契約>を交わし、戦士としての使命を終えるその日まで共に生きるのである。
「戦士にとって魔導鎧は神聖な意味を持つんだ。命を預ける相棒として、共に戦場を駆ける伴侶として、その魂には最大限の敬意が払われる。『私の男』などという下世話な言い方をする者もいるがな……」
なるほど、以前リリスが言っていたように戦士が全て女ならば、魔導鎧に容れられる魂というのは男になるわけか。しかも、それは社会的に認められた浮気相手みたいなもんだ。そりゃ、旦那には嫉妬されそうだな、と光治郎は顔をしかめた。
「そして魔導鎧を着ている、というのは名誉なことでもある。昔は戦功を挙げた戦士や指揮官にのみ着用が許可されていたからだ。戦の無い現代においては一定以上の地位にある戦士に下賜されることになっている。女王陛下からな」
「女王陛下から……じゃあ、うっかり鎧を無くしたり、売っぱらったり、故意に傷つけたりなんかしたら……」
「当然、重い罰が下る。戦士の地位は剥奪……累は氏族にまで及び、長期間の禁固刑か、場合によっては死刑もあり得る……まあ、あくまでこれは戦時の話だが」
「ああ、今は戦争はしてないんだっけ?」
賑やかな露天街を行き交う人々の表情を見る限り、そんな雰囲気は微塵も感じ取れなかったが、水面下で何かが進行していないとも限らない。そう思い、一応、聞いてみる。
「以前は周辺国との小競り合いがあったというが……もうそういったことも二百年以上無いな」
「そりゃ良いことだ。さすが要塞都市と言うだけはある。守りが堅いんだな」
「ああ。外敵に対してはな。このアンヴリルを落とせる国はほぼ無いと言っていい。その点は保証しよう。だが内なる敵はまた別でな……頭の痛いところだよ」
外患はともかく、内憂が存在するらしい。「最近、新興の犯罪組織が流入してきたせいで、治安が悪化しているんだ」とリリスは眉を八の字にして嘆息した。
いつの間にか、二人は露天の切れ目とでも言うべき場所に差し掛かっていた。上りの階段が二又になって伸びており、左へ行けば飲食店街、右へ行けば宝石や装飾品等の高価な商品を扱う店があるようだ。そこは露天街同士を繋ぐ連絡路のような場所で、建物が無いため、周囲を広く一望できる。ちょっとしたベンチが置かれた空間もあり、簡易展望台といった風情であった。
抜けるような青空と、ゆったり流れる雲。強く照りつける日差しに光治郎は目を細めた。
ここは高所にあたるせいか、とても涼しく過ごしやすい。山と言えば、じめじめして湿っていて朝夕は霧が出ているというようなイメージだったので、光治郎は意外に感じた。
(大陸のどの辺にあるのか知らないけど……ここは、地球でいう地中海気候のような、湿度が低い地域なのかもなあ。全く、羨ましい限りだ)
ジリジリと照りつけるような太陽に焦がされ、天然のサウナと化したボロアパートでぐったりしていた夏の日々を思い出し、光治郎はげんなりした。
展望台のあたりは断崖絶壁だが、下を見下ろすと、緑に覆われたなだらかな斜面がしばらく続いている。雲の影が、ゆったりと草を揺らしながら流れていくのが見える。太陽の加減か、こちら側の影が落ちていて、リリスと光治郎のシルエットまで確認できるのが何だかおかしかった。
さらに視線を動かすと、一度大きく下った後、ゆるやかな平地が続く。ここより樹木が増えるため見え辛くなるものの、木々の合間に建物が立ち並び、ところどころに集落が形成されているのが分かる。開けた丘で家畜を放牧している者、周囲で遊ぶ子供たち、昼餉の支度をしているのだろう、家々の煙突から立ち上る煙。非常に牧歌的な風景であった。もうしばらく行くと、万里の長城のごとき巨大な城壁が街を取り囲んでいるのが目に留まった。あの辺りまでがこの国の領土なのだろう。さらに向こう、世界の果てまで見えぬものか、と光治郎は目を凝らしてみる。遥か遠くまで山々の連なりが続く。湖や平野は見て取れるが、海は確認できなかった。アンヴリルは、相当内陸にあるのだろう。
「はー、良いところだなここは。空気もうまい」
しばらく深呼吸を繰り返していた光治郎だったが、リリスが厳しい目で一点を見つめていることに気付いた。ここよりも下方にある市場。日用雑貨や食品を売っている一角のようだ。大勢の人が買い物をしているのが見える。もちろん遠すぎて声は聞こえないのだが、その動きから、住人同士が諍いを起こしているらしいことは理解できる。値段交渉で揉めている、という風にも取れるが、ここからでは詳しいことは分からない。
すると、体格の良いほうが店主を突き飛ばし、急に走り始めた。
「リリス、あれって……」
光治郎の言葉はまだ途中であったが、続きを口にすることは叶わなかった。
全身に、急激なGが襲いかかってくる。
世界が、反転した。
あっ、と気づいた時には足元に青空が見え、露店を行き交う人々は遥か頭上を歩いていた。周りの景色が高速で流れ、右回りに回転したかと思えば、次の瞬間には逆回転。どちらが空で、どちらが地面か分からない。光治郎ははじめ、車に跳ね飛ばされたのかと思った。だが、自分が今どこにいるのかを思い出す。
風を切る音が耳にうるさい。リリスの息遣いがやけにはっきりと聞こえる。
はっ、はっ、はっ。呼吸が浅く、細い。
しゅっ、という呼気と共に地面を蹴る音が聞こえ、再び視界が回り始める。
パニックを起こしかけた光治郎だったが、ようやくリリスが斜面を飛び降りたのだと理解した。しかもただ滑り降りているのではなく、空中前転の要領で身体を回転させながら下降している。地面を蹴るたびに微妙な方向修正が行われているらしく、そこに捻りも加わっているようだ。
リリスはぐんぐん速度を上げ、地形も障害物も高度も何もかもを無視して、人がごった返す市場へと、矢のような速度で突き進んでいく。およそ人間技とは思えないが、この身体能力こそがリリスたち<ナルイグの民>の力なのだろうか。
(いや、これがリリスの言う「戦士」の技なのかもな)
山間部の街を守るのが彼女らの使命なのだ。このぐらい出来なければ、敵を追い払えないだろう。いつの間にか平静を取り戻した光治郎は、ぼんやりとそんなことを考えていた。
気持ちは不思議と落ち着いている。人間だった頃ならいざ知らず、魂だけの存在となった今、「目が回る」などということは無いようだった。生前は車酔いしやすい体質だったことを思い出し、「この体にも一つくらいは良いことあるんだな」などと考えている自分が、何だかおかしくなった。
「どうしたコージロ? 何か面白い物でもあったか?」
「いや、何でもないよ。ちょっと前まで自分の境遇を悲観してたけど、こうなって良かったこともあったな、と気付いてね。ハハ、死んじゃったのに良いも悪いも無いもんだけどさ」
「そうか」
リリスは短く返答すると、最後の跳躍を行う。先ほどまで眼下に見えていた市場はもう目と鼻の先だった。
「そこの岩窟人、止まれ!」
逃走していた男の数メートル先に降り立つと、リリスが威圧的な声音で告げた。
その男はヒトではなかった。全身が硬い岩石状の物質で覆われており、ところどころに宝石のような輝きが見て取れる。これは、人間がいれている刺青のようなものである。他者に威圧感を与える目的であろうか。右側の頬から顎にかけて、青い石が四つ縦に並んでいるのが特徴的だった。頭髪はおろか全身に体毛はなく、正に「岩の塊が、人の形を模して動いている」と言うほかないものであった。
彼らは岩窟人(がんくつびと)。<ナルイグの民>の戦士は勇猛果敢で命知らず、野外での戦闘能力に長けた好戦的な種族として広く知られているが、その彼女らに勝るとも劣らない剛の者たちである。
その岩窟人の目は大きく見開かれ、突如現れた闖入者──リリスを注視している。逃げ切れたか、とホッとしたところで戦士が上空から降ってきたのだから、それは驚くだろう。
「先ほど、店で何か盗ったのではないか? 大人しく返せば、見逃してやらんこともないぞ」
「何だ、てめぇ……。俺を誰だと思ってる! この辺は俺のシマなんだよ! 関係無ぇ奴ぁ、すっこんでろボケぇ!」
岩窟人の胴間声が、通りに響き渡る。周囲にいた人々は厄介ごとに巻き込まれては堪らんと、そそくさと逃げていく。
相手は大変な巨漢であり、このようなトラブルなど日常茶飯事であるようだ。丸太のような腕と大木のごとき脚が威嚇的に盛り上がる。光治郎のような素人が見ても、そこから繰り出される打撃は簡単に人を死に至らしめるだろうと思われた。
堂々とした体躯に、暴力で物事を解決してきた者特有の威圧的な態度。治安維持に携わる者──リリスを前にしても全く動じない。どうやら、ただのチンピラではないようだった。
「おう、おう、戦士の姉ちゃん。どこの警備兵か知らんがな、余計なことに首突っ込まねぇ方がいいんじゃねぇかい? <鍋蓋>の連中の面子を潰しちゃあ、あんたもまずいことになんだろ、あぁ?」
<鍋蓋>というのは、<青銅の盾>隊を表す隠語であり、蔑称である。盾を「錆びた鍋蓋」に見立てて付けた呼び名だ。そのような下世話な言い回しをするからには間違いなく裏社会の人間であろう。
鎧姿のリリスを見て岩窟人は一瞬焦った表情を見せたが、彼女が<青銅の盾>隊所属ではないことが分かるや、顔をにやつかせながら脅しにかかってくる。
荒事とは縁遠い、普通の大学生である光治郎などは一発で震え上がってしまったが、リリスに動じる気配は全く無い。
さすがは、生き死にの現場で働く人間だ──戦士ってのはすごいな、と光治郎は感心した。
「縄張り争いなど、私は知らん。興味もない。下らん」
リリスはそう言うと腰を沈め、前傾姿勢を取りつつ背中の得物に手をかける。これは、目の前の相手に対して「妙な真似をしたら、抜刀して斬りかかるぞ」という警告である。外国の警官が、腰の銃に手を当てて見せる、というものに近い。
「おいおい、強がるなよ。お前は戦場の英雄様か? ここはアンヴリルだぜぇ。いいかい、姉ちゃん。はねっ返りは出世できねぇ。優秀なママ達にそう教わらなかったのかい?」
岩窟人はガハハと大口を開けて笑う。だが、それは彼の余裕の無さを示しているようでもあった。岩窟人の顔には「目の前の厄介な戦士の気を逸らして、何とかこの場を切り抜けたい」と書いてあるようだった。
「母はいつもこう言っていた。『いついかなる時も高潔であれ。正義を為せ。民を救え。弱者を救え。強者を討て。それが我ら戦士である』とな」
リリスの表情が消える。母親のことに言及されたことが原因か。その身に纏う冷気が、スッともう一段階冷え込んだように見えた。それが怒りであるのか、憎しみであるのか、あるいはまた別の何かか。彼女の中でどのような感情が渦巻いているのか、まだ知り合って日の浅い光治郎には理解できなかった。
「分かった、分かったぜ。へへへ、俺もよ、何もそんなよぉ……へへっ、おおごとににするつもりはねえんだって」
抵抗を諦めたのか、先ほどとはうって変わり、岩窟人は頭をかきながら愛想笑いなど浮かべている。
光治郎はホッと息を吐くと、
「さすがだな、リリス。さっきの大ジャンプといい──」
と、リリスを賞賛しようとした。だが、その台詞を言い終えることは叶わなかった。
急激な光の爆発。
それが辺り一面を白色に染めあげる。同時に、何かが弾けるような無数の炸裂音に襲われた光治郎は、パニックのあまり悲鳴を上げてしまったからだ。
鋭く呼気を発したリリスが、即座に跳躍。近くの壁を蹴る音と、身体が反転する感覚。天地が逆さまになり、風切り音が耳を突き──光治郎が認識できたのはそこまでだった。
気が付くと、リリスは砂煙の舞う中、市場の大通りを猛然と駆け抜けていた。
「な、なんだよ、さっきの光は! それと、急に動くのはやめてくれよ! 目が回るだろ!」
一瞬、我を忘れていた光治郎だったが、すぐに正気に戻る。そして、情けなく叫んでしまった恥ずかしさを誤魔化すように、大声で文句を言った。
「すまない、コージロ。緊急事態だったのでな」
「さっきの奴が何かやったのか?」
「ああ。光玉(ひかりだま)を投げつけてきた。戦士を前に無意味な抵抗をするとは。よほど捕まりたくないようだ」
光玉とは、ある植物の生態を利用した道具である。その植物は、殻に包まれた種子を周囲にばら撒く際、強い光と音を発生させるのだ。これを複数個、粘土で固めたあと、硬くなめした動物の皮で包めば完成。逃走時の目くらましとして、犯罪者の間では昔から使われているものである。それだけに、<青銅の盾>隊所属の上級戦士であれば不用意に足止めされることはない。腕で目を塞いだまま、あるいは耳に詰め物をしたまま格闘を続けるといった過酷な訓練を受けているためである。一介の巡回戦士ならば有効だが、普通は犯罪者に対して複数で対応するため、たとえ一人が無力化されたとしても残りが即座に対処できるのだ。
「つまりだ。一人でいた私を<青銅の盾>隊所属でないと思ったか……あるいは、そこらを巡回する下級戦士だと判断したのか、それは分からんが……。一つ言えることは──私を未熟者だと侮ったということだ!」
そう吠えると、リリスが再び跳躍した。その脚力たるや暴れ馬のごとく、荒々しくも力強い踏み込みは地面を抉り、後方に土くれをばら撒きながら、リリスは弾丸のように疾走する。一歩一歩が走り幅跳びのような歩幅であり、走るというよりは、まるで低空を滑空しているかのような錯覚を光治郎は覚えた。
(まるで、地面を泳ぐトビウオだな)
先ほどまでは周囲に人がいたため、多少は加減をして走っていたのだろう。
買い物客を突き飛ばし、店の売り物を蹴倒しながら逃走する岩窟人に対し、犯罪者捕縛のためとはいえ、まがりなりにも公僕であるリリスに強引な追跡は出来ない。そのため、少しずつ距離を離されていたのだが、市場が終わり住宅街へと入った辺りから人通りが途絶え、ようやく本領が発揮できるようになったというわけだ。
アンヴリルの下層へ下層へと逃げる岩窟人を追跡し、今や二人は、高い建物がごみごみと林立する薄暗いエリアへ踏み込んでいた。
この辺りは樹木が多く、それらに寄り添うように建てられた古い木造建築郡は、木の形状に合わせて何度も増築が行われたと見え、その場しのぎで無理矢理に繋ぎ合わされた印象を与えるものだ。幹の形状に合わせて作られたであろう家々は、もはや木々と融合しており、どこからが自然物でどこからが人工物なのか分からなくなっている。
上層の市場とはまるで違い、清潔感というものは無い。あちこちに壊れた生活用品や木材の破片、割れた酒瓶、腐って穴の空いた樽、桶などが大量に放置してあり、ゴミの山と化している。汚物が放置された一角もあるようだ。道は当然のように舗装されてはおらずデコボコであり、汚水がそこかしこに溜まっている。この状況で、住民がまともに道を歩けるのだろうか、と光治郎は顔をしかめた。
すえた匂いと埃っぽい空気に、雑多な人々の生活が感じられた。建物から建物へと厚い布が渡されており、まだ昼間だというのにあちこちに闇がわだかまっている。
一言で表現するなら、ここは「スラム街」といった印象であった。
「またやっかいなところに逃げ込んだな……。リリス……さすがに、これ以上追うのは無理なんじゃないか?」
「静かに」
油断なく辺りを見回していたリリスであったが、目視できる範囲に先ほどの岩窟人は見つからなかったらしい。おもむろに目をつぶると、周囲の音に意識を集中させる。長い耳が前後左右にピクピクと動いており、「器用だな。まるで猫が周囲を警戒しているようだ」と光治郎を感心させた。
光治郎も耳をすませてみたものの、建物の間を吹きぬける風の音、家々の中から微かに聞こえる住民の話し声、軒先に掛けられた布や、建物の間に渡された物干しに架かる洗濯物がはためく音、何かの動物の鳴き声──さまざまな音が混じりあい、結局は一つの理解不能な音圧と化して光治郎に迫ってきて、とても岩窟人の潜伏先を特定するどころではなかった。
「そこか」
だが、リリスは短く言い放つと、即座に行動を開始した。すなわち先刻、市場で見せた空中への急発進である。
光治郎が文句を言う暇もあればこそ、リリスは道の片側を占領していた石壁に向かって疾走。二階分ほどの高さまで跳躍するや、壁を蹴りつけ、向かい側の建物の窓枠に手を掛ける。木造建築の僅かな突起や、補強のために無造作に張られた板の縁を頼りに、まるで猿かヤモリのごとくスルスルと登っていく。あっという間に屋根まで上がると、近くから突き出た太枝の上を走り始める。
「おい、ちょっと待て、リリス。何をする気──」
状況に付いていけない光治郎が悲鳴を上げる間もなく、リリスは足元を蹴りつけると、通りを挟んだ向かい側の建物に向かって跳躍した。
急激な落下。バキバキと音を立てて細枝を巻き込みながら、リリスと光治郎は落ちていく。ジェットコースターに乗った時のような、腹の下が心もとなくなる感覚に襲われた光治郎は、「身体が無いってのに不思議なもんだ」と、またもや場違いなことを考えていた。
衝撃を殺しつつ着地。すぐに前方に開いた窓に飛び込む。幸い室内に人はおらず、そのまま勢いを落とすことなく、屋上部へと繋がる出口へ走る。欄干に手足を掛けると、再びの跳躍。大分距離があったが、ギリギリで向かいの家の木枠に手を引っ掛け、屋根へと身体を押し上げる。そして、すぐに対角線上へ走り、道を見下ろす。すると、遥か下方の出口から、例の岩窟人が飛び出すところであった。
リリスは鋭い呼気の音を発すると、勢いよく屋根の縁を蹴る。もはや光治郎が何かを口にする暇も無かった。
宙に踊る褐色と、ピンクのフリル。木々の切れ間から差し込む光が鎧に反射して煌めいた。
高度を下げながら、通り向かいの建物にそのまま激突──するかに見えたその巨体は、唐突に方向を転換。
「うわあっ! なんだなんだ!?」
光治郎は一瞬、間近で砲弾でも破裂したのかと思った。それほどの轟音である。反射的に耳を塞ごうとするが、鎧の身である自分にそんなものは無い。
まるで堅い建材同士を打ちつけたような、一種独特の、重い破裂音。光治郎が悲鳴をあげる度、何度も、一定のリズムを持って繰り返されるそれは、リリスが壁を蹴りつける音だ。
ゴミを漁っていた小動物が、一目散に逃げてゆく。鳥たちが一斉に飛び立ち、やたらに鳴き声をあげながら四方へと散っていった。
これほどの音だ。
周辺住民はたまったものではないだろう。だが、今は真昼間。大半の者が寝入っている時間では無かったことだけが救いだろうか。
(ご近所トラブルは厄介だもんな。特に騒音って奴はその原因になり易いんだよ……)
ようやく冷静さを取り戻した光治郎は、かつての生活を思い出しながら、そんな益体も無いことを考えている。
リリスのアクロバティックな追跡はなおも続く。
薄茶けた建物の壁を蹴ったかと思えば、一瞬の後には反対側の家に取り付き、窓に設置された面格子を足場に再度の跳躍。金属製であろうそれが、足の形に歪んだのが光治郎にも見えた。
横に張り出した木々の枝から枝へ。太いもの、細いもの、折り重なったもの……それらを鉄棒競技のごとく器用に使い、リリスは逃走犯へと肉薄してゆく。
「そこまでだ! 諦めろ、岩窟人!」
高く詰みあがった木箱を足場に、リリスは一気に彼我の距離を詰める。長く続いた隘路の出口に差し掛かったところで、ついにリリスは男へと飛び掛った。いつの間に抜き放ったのか、手には自らの背丈ほどもありそうなバスタードソードを握っている。
そのような鉄塊をリリスの膂力で扱えば、どのような結果が待っているかは想像に難くない。
「おおおおおあああああああっ!」
見た目からは想像も出来ないほどの野太い雄叫びを上げ、リリスは大上段から剣を振り下ろす。
舞い踊るピンクのフリルと褐色の肌。光の残滓を残し、一筋の剣閃が走った。
それは突然だった。
横合いから大きな盾を構えた戦士が三人、飛び出してきたのだ。金属同士が擦れる、耳障りな音が響き渡る。リリスの斬撃は、あっさりと防がれてしまった。真正面から受けるのではなく、横へと受け流すような形だった為、威力が分散されてしまったのだ。
つんのめるように着地したリリスに、複数の戦士が、興奮した様子で詰め寄ってくる。どの者も例外なく、青く塗られた盾を構えていた。
<青銅の盾>隊の巡回戦士たちであった。
その場に押しとどめようとする、巡回戦士たちの罵声。鋭い誰何の声。それらが汚い罵倒語を伴い、矢継ぎ早にリリスへと投げつけられる。
盾を構えているだけで抜刀している者は少ないが、リリスの返答次第では、どうなるか分かったものではなかった。
「リリス、何だこいつら!」
「巡回戦士だ……。アンヴリルの各地区を巡回して、犯罪者を取り締まる者たち。……面倒なことになるから、光治郎はしばらく黙っててくれ」
一瞬、むっとした光治郎だったが、リリスの意を汲み、それ以上口を開くのはやめておいた。この世界の常識に疎い光治郎が、余計なことを口にして、事態を悪化させる可能性だってあるのだ。
周囲を囲んでいるのは、日本で言う「警察官」らしいが、職業倫理や人権意識までが同じだとは限らない。実際、彼女らの見た目や荒々しい態度は──揃いの鎧を着込んでいるとは言え──法の番人というより、反社会勢力の構成員だと言われた方が、光治郎は納得できるほどだ。
武装解除を求める巡回戦士たちの声に従い、リリスは構えを解き、剣を落とす。重厚な鉄塊が石畳と接触し、耳障りな音を立てた。
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