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◆8◆ 「疑惑と取調べ」

 混濁する視界と不明瞭な意識。
 世界と自我の境界が曖昧で、油断をすれば己が周囲に溶け出していってしまいそうな感覚。けれども、そこに恐怖心は無く、ひたすらに暖かく甘く優しく包み込まれる安心感に、思わず自我を手放してしまいそうになる。
──夢。
 光治郎は夢を見ていた。
 すぐに、それが現実ではないと気付けたのは、傍らにうずくまるリリスのお陰だ。リリスは今のように筋骨逞しい長身の女性ではなく、あどけなさを残す少女の姿をしていた。派手な刺繍の入ったストールの端を長く前後に垂らしてアクセントを付けているが、淡色の貫頭衣に膝丈のハーフパンツといういでたちは明らかにリリスの趣味ではなく、氏族の大人たちに着せられた物であることを窺わせた。
 そんな少女が今、礼拝堂に並べられた長椅子の間に小さな身体を押し込んでブルブルと震えていた。
 周囲には怖ろしい形相の男たちがいて、何やら訳の分からぬ叫び声を上げている。彼らの服は一様に真っ白で染み一つ無く、美しい。しかし、それが逆に、見る者の不安感を煽っていた。彼らの純白の僧服は、こちらの視線ごと吸い込まれてしまいそうに光治郎には感じられたからだ。
「リリス、大丈夫か?」
 小さくなっているリリスの姿にいたたまれなくなり、光治郎は声をかけた。だが、返答は無い。何度彼女の名を呼んでも、リリスは椅子と椅子の間でひたすら震えるばかりである。
 これは光治郎の見ている単なる夢か、それともリリスの過去の記憶か。理屈は分からないが、光治郎には後者のように感じられた。
(そもそも、俺が<魔導鎧>になっている時点で理屈もクソもないか……。これもリリスと<鎧契約>したせいだと言われれば、「そういうものか」と思うだけだ)

 その時、礼拝堂の出口に繋がる扉が大きく開いた。逆光気味に入ってくる、外の光が眩しい。
 リリスが、弾かれるように動き、椅子の背から顔を出した。いち早く気付いた僧服の男が、リリスの頭を押さえつけ、椅子の下に押し込む。
「助けて! 助けて、母上!」
 幼いリリスが悲痛な叫び声を上げる。
 入り口から突入してきたのは、ナルイグの戦士たちだ。露出度の高い服に、剣と盾で武装している。
 決着はすぐについた。僧服の男たちは丸腰だったのだ。
 斬られたのであろう男の一人が、縮こまるリリスの上に倒れこんできた。噴き出す血が、辺りを赤く染める。
 リリスの短い悲鳴と、長椅子が破壊される音が重なった。ナルイグの戦士たちはよほど頭に来ているのか、僧服の男たちを殺害するだけでは飽き足らず、辺り構わず武器を振るっているようだった。
 ステンドグラスの破片が飛び散り、周囲に乱反射する光が光治郎の目を焼く。精緻な装飾を施された金属製の燭台は倒され、耳障りな音を立てた。崇拝対象なのであろう、礼拝堂の奥に安置されていた像にも戦士たちの蛮行は及ぶ。優しげな笑みをたたえた男性の象は腕を切り落とされ、地面に叩き付けられた。ヒビの入った頭が恨めしげな表情でこちらに転がってくるのが見えた。
 荘厳な空気を纏っていた礼拝堂は、いまや見るも無残な姿を晒していた。
「おい、やめろ! リリスがここにいるんだ! やめろって!」
 大声を上げて戦士たちの注意を惹こうとしたが、彼女たちはこちらを見ようともしない。
 そのまま見ているのももどかしく、光治郎は男の身体を押しのけリリスを助け起こそうとした。だが、いくら頑張っても光治郎の手はすり抜けてしまう。傍の椅子にも試してみたが、やはり触れることは叶わなかった。
 恐怖のあまり気絶してしまったのか、長椅子の足元でリリスは微動だにしない。光治郎は、ただ見ていることしかできなかった。
 
 ふと気が付くと、光治郎は外にいた。燦々と降り注ぐ太陽の光に、思わず目を細める。先ほどまでいた礼拝堂らしき建物は遠く、短く刈られた草花が風に揺られていた。そちらから黒煙が上がっているのが見えた。
(まあ、これは夢だからな。唐突に風景が変わったとしてもおかしくはないか)
 そもそも、リリスは襲撃者に怯えて気を失ってしまったのだろうから、記憶が飛んでいるのだろう。
 そのリリスはどこだ、と目を遣れば、彼女は大柄な女性に抱きあげられていた。
 女性はナルイグの戦士らしく、胸と腰を申し訳程度に覆う皮鎧を身に着けている。浅黒い肌に端正な顔、キリッとした眉に固く引き結ばれた口元は、意志の強さを感じさせた。上背は現在のリリス以上であり、肩から上腕、二の腕にかけての盛り上がりも相当な物である。腹筋は割れてはいないが、その分厚い皮下脂肪の下には鍛え上げられた筋肉があるであろうことは、その立ち居振る舞いからも想像できた。歴戦の戦士であろうことは間違いない。
 女性は、リリスの頭を撫でながら、口元を綻ばせる。
 間違いなく、リリスの母親であろう。よく見れば、目元や口元がよく似ている。
 先ほど突入してきた戦士たちの指揮を取っていたのだろうか、と光治郎は推測した。身体のあちこちに打撃を受けたかのような痣や、返り血の跡が見えたからだ。だが、本人は出血しておらず、大した傷も無いようであった。リリスの言っていた通り、「ナルイグ最強の戦士」というのは伊達ではないらしい。
 二人は何やら話をしているようだが、音量をミュートにしたテレビのごとく、その声は全く聞き取れなかった。
(リリスの記憶に無いせいなのか、これが単に夢だからか。どっちだろう?)
 しかし、その益体も無い思考も長くは続かなかった。周囲の風景が溶け出すように消え始めたからだ。あっという間に光治郎の足元までが白に染まり、どちらが上でどちらが下かも判然としなくなった。もはやリリス母子の姿も消え去り、光治郎の意識は眩しい光に包まれていた。
 もう少しリリスの過去を知りたい気持ちもあったが、光治郎にはもうどうすることもできない。
 そう。
 夢が、醒めるのだ。

◇◆◆◆◇

 光治郎とリリスは、<青銅の盾>隊の狭い取調室に放り込まれていた。
「何か、既視感があるよなあ、ここ。まったく、こんな短期間に何度も入ることになるとは思ってなかったよ」
「ああ、取調室なんてどこもそう変わらんからな。容疑者に心理的圧迫感を与える目的もあるから、大抵汚いし、埃っぽいし、暗いんだ」
 軽い皮肉のつもりで言ったのだが、単純なリリスには全く通用しないようであった。光治郎が溜息を吐いても、どこ吹く風だ。

 情報屋アッシュと会った酒場で突然の襲撃、強敵“死突”のテレージアとの一騎討ち、リリスの勝利かと思ったところで起きた大爆発……。光治郎が覚えているのはここまでだった。
 次に目を覚ましたら、留置場の中だった、と言うわけである。
 あの時は慌ててリリスの無事を確認したものだが、特に外傷らしい外傷は無い、ということを本人の口から聞いて、光治郎はやっと安心できた。
 あとで思い出したが、二人の運命は一蓮托生。片方が死を迎えるとき、もう片方の命も潰えるのである。自分が何の問題もなくこの世に留まっているのならば、それはリリスも無事である証拠なのだ。
 そう考えると、慌てふためく自分が何だかおかしくなり、愚痴の一つもこぼしたくなるというものだった。
「でもさ、あんな爆発に巻き込まれたのに、よく平気だったな。俺、もう駄目かと……」
「確かにな。まさか、証拠を隠滅するためとはいえ、あそこまでするとは思っていなかった。私達ナルイグの戦士とは根本的に違う思想を持った人種のようだ」
 不思議そうな声音でリリスがそう言った。
 リリスによれば、ナルイグの戦士にとって戦いとは、己の名誉を賭けた神聖なものであるという。たとえ敗北し、命を落としたとしても、その遺体と魂には最大限の敬意が払われてしかるべきものである。争いが決した後、勝者が敗者の遺品を形見として一つだけ貰い、丁重に葬ってやるのが習わしなのだ。今回正式な立会人はいなかったが、テレージアの部下たちがそれに当たるのだとすれば、彼女らが遺品を受け取り、後にリリスとの再戦──仇討ちである──を約束する、というパターンもあり得た。敗者の遺志を受け継ぐ、という形である。
 だから、リリスからすれば、テレージアの部下たちが彼女の遺品も遺体も回収せず、ましてや爆弾で跡形もなく破壊する、などという暴挙は想像の埒外であったのだ。そんな、真っ直ぐで純粋な思考は彼女の美点であるかもしれないが、同時に、生まれてからずっと表街道を生きてきたが故の弱点なのかもしれない。
(いや、これから住み慣れたアンヴリルの外へ出て任務を遂行しなきゃならないんだ。そこではナルイグの戦士間で共有される「常識」なんてものは通用しないだろうからな……。いつまでもそんなんじゃ危なっかしくて仕方ない。せめて、俺が注意してないとな。今回は運よく助かったが、次も上手くいくとは限らないんだから……)
「そういや、何で俺たち大丈夫だったんだ? リリスが何かやったのか?」
「いや、私は何もしてないぞ。あんなのは予想外だったからな。正直、もう駄目だと思った」
 てっきりリリスが機転を利かせて逃げおおせたのかと思っていたが、そうではないらしい。
 光治郎が無い知恵を絞ってあれやこれやと考え始めた矢先、その答えは扉を開けて入ってきた人物によってもたらされた。
「それはね、リリスさん。あなたの持つ魔道具(マギ・インストゥルメント)のお陰ですよ」
 渋面を作ったダリラが、部下を伴い取調室に入ってきた。
「魔道具? いや、私はそんな物……いや、いくつか持ってはいるが、爆発を無効化するような強力な物は持ち合わせていないぞ」
「ほう? 隠し事をすると、あなたの為にもなりませんぞ?」
 ダリラの後ろに控えていた体格の良い取調官が、ずいっと身を乗り出し、リリスに顔を近づける。
「いいか? もう一度訊く。その魔道具はどこで手に入れた物だ?」 
 目を糸のように細め、威圧的な声音でそう続けた。
「あぁ? 何だ? 私が嘘を言っているとでも言うのか! いいか、私には後ろ暗いことなど何もない。族長と氏族の名にかけて、私は──!」
「まあ、まあ、ロレンサくん。いやいや、私らも今ごたごたして気が立ってましてね。大変なんですわ! 色々と。ですので、リリスさんの方もね。もうちょっと……ちょーっとだけ、協力して頂けるとね。助かるんですがね、ホント」
 部下を押し止め、にこやかな微笑みをたたえたダリラがリリスとの間に割って入ってきた。険悪なムードが少しだけ薄れたが、ダリラの目が全く笑っていないことに光治郎は気付いた。
(なるほど。「良い警官と悪い警官(グッドコップ・バッドコップ)」か。海外ドラマでよく見たなあ、こういうの)
 大学を休学している時、暇だからと海外の映画・ドラマ配信サイトに入会し、毎日のように観ていたのを光治郎は思い出した。出来るだけたくさん配信されているものを連続でダラダラ流し見したい、という考えから、シーズン数の多い物でソートして観ていたのだが、サスペンス物やミステリー──つまりは、刑事が様々な殺人事件を解決する、という作品が多かったのである。
 フィクションで観ていた光景が実際に目の前で繰り広げられることに、光治郎はちょっとした感動を覚えていた。
(──って、何を考えてるんだ、俺は。これはドラマじゃない。異世界だけど、現実なんだ。リリスが余計なことを言って犯人にされてしまうのだけは何とか避けないと……)
「あー……、ちょっといいか。俺はリリスの相棒だが、そんな魔道具の話は聞いたことがない。だが、あの爆発に巻き込まれて無傷というのも事実だ。何かある、と考えるのが普通だとは思う」
「おい何だ、コージロはどっちの味方なんだ?」
 先ほどの怒りを引きずっているのか、リリスがかなり機嫌の悪そうな顔でこちらを睨みつけてきた。
「まあ、待て待て。最後まで聞いてくれ。──で、その魔道具を持ってたとして、それは違法なのか? ご禁制の品とか」
「いえいえ。そんなことはありませんよ。ただ、それはかなりの高級品と言いますか……付与されてる魔法が相当にハイレベルな上に消耗品でしてね。宮廷の方々や上級貴族、大商人の一部なんかが身を守る為に持つことがある、というような品なんですよ。指輪やネックレス、ブレスレット、髪飾りやイヤリング……こういった物に擬装してね」
「なるほど。一介の戦士が持っているような品じゃあないと?」
「そうは言いません。リリスさんは、かの大パルドーアに名を連ねる方です。族長からそういった物を持たされていても不思議ではありません。ですが……」
 ダリラは一拍間を置くと、表情を引き締め、真剣な表情でこちらを見る。
「出来すぎているんですよ。火矢でも、刀剣類でも、打撃でもなく……爆発と火焔に対抗する魔法──<カウンターマギ>を備えた魔道具を、何故、たまたま居合わせたあなたが持っていたのか」
──あの酒場で生き残ったのはあなただけなんですよ、とダリラは重々しく告げた。

「そうか……アッシュは、ついに逝ったか……」
 椅子の背に身体を預けるようにして、リリスは天を仰ぐ。
 鼠人の情報屋とリリスの間に何があったのか光治郎は知らない。しかし、リリスの反応を見る限り、ただの戦士と情報屋の関係を越えた、友情のような物があったのではないだろうか。「戦友」という言葉が脳内を過ぎり、リリスならこちらの方がしっくり来るな、と光治郎は思った。
「アッシュさんというのは?」
 ダリラが椅子を引き、リリスと向かい合う。「悪い警官」役のロレンサはダリラの背後に控え、こちらに睨みを利かせている。
「……ああ、<青銅の盾>隊で捜査していた頃に親交のあった情報屋だ」
「──それは、ご愁傷様でしたね」 
「ああ。それなりに長い付き合いになる。母上の代からの縁だからな。しぶとい奴だったが……残念だ」
「ほほう。ということは、かなりのやり手だ。ここいらの界隈では相当な事情通だったんでしょうなあ」
「まあ、それなりにな。あの年まで裏社会で生き残ってきただけはある。危険には敏感だったよ」
 ダリラの目がキラリと光った気がした。
「しかし、今回の事件は予見できなかった。相当予想外なことがあったんでしょうかねえ」
「……何が言いたい」
「いえいえ、よくある話です。『君は知りすぎた。許せ』……なあんてね! あはは!」
 ズシャーッと口で言いながら、目の前にいる誰かの口を塞いで首を掻っ切るジェスチャーをするダリラ。おどけてみせているが、目の中にはリリスへの疑念が渦巻いているのが分かる。
「よくアンヴリルにもやってきますよ。流しの劇団というやつです。方々の町々を回ってお芝居を見せるという。ああいうのは社会を風刺したりしますからな。人間同士の愛憎や裏切り、なんてのがよく描かれるわけです」
 この異世界でも舞台が観られるのか、と一瞬目の色が変わったが、そんなことを考えている場合ではない、と光治郎は気持ちを落ち着かせる。
「それまで仲良く悪事に手を染めていた仲間をね、目的達成の直前でこう、切り捨てるわけですな! そりゃないよ、と。まあ相手も言うんですが、こりゃ仕方ない。大事の前の小事。大義を成すためには、目の前のちっぽけな命を犠牲にするのも已む無し、とこういうことですわ」
「そんな! ダリラさん、ま、まさかリリスがそんなこと……」
 ダリラは光治郎の抗弁を遮ると、鋭い声音で言った。
「リリスさん。あんた、殺したね。アッシュが何か都合の悪いことを喋ったんじゃないかい?」

「馬鹿な! 私がそんなことするはずがないだろう!」
 当然リリスは激昂するが、ダリラはびくともしない。目の端で、ロレンサが腰の獲物に手を伸ばしたのが見えた。
「そして、その『危険な情報』を聞いてしまった周囲の客も始末した。刃物で刺したあと、確実に足が付かないように、全員爆殺だ。自分も巻き込まれてしまったのはドジを踏んだか……我々から疑いの目を反らすためか……どちらですかな? あらかじめ<耐火><耐爆>の魔道具を準備しているのが、その証拠ですよ」
 光治郎は頭がクラクラしてきた。
 ジェスチャーが大仰でちょっと変わった人だな、とは思っていたが、ダリラはもっと思慮深い人物だと思っていた。犯罪ギルド相手に命を張って戦っているのだ。慎重に慎重を重ねた捜査を行う必要があるはずだ。それが、こんな当て推量で、リリスを犯人だと決め付けてしまっていいのだろうか。
「いやいやいや! ちょっと待ってくれ! もう少し冷静にだな……」
「冷静に、だと? 悪いが、こちらも同僚を一人失っているのでな。最有力の容疑者を前に平然としていられるほど人間ができてはおらんのだ」
 ロレンサが、視線で射殺そうかとでも言うように、殺意の篭った眼を向けてくる。
 リリスが戸惑った様子で応じた。
「戦士が亡くなったのか……? あの酒場に居合わせてしまったとは……それは、気の毒にな……」
 戦士の死を悼むリリス。それを単なる演技だと感じたか、逆に侮蔑されていると受け取ってしまったのか。取調官が無言でリリスの胸倉を掴む。
「まあまあ、ロレンサくん。その辺で、その辺で。いやね、あなたを監視するために付けていた者がですね。命を落としてしまったのですよ」
 その言葉でリリスはピンと来たらしい。
「私に監視を……? ということは、イーラはあなたの配下だったのだな。手負いとはいえ、彼女はかなりの手練れだ。逃げられ……なかったのだな……」
 ダリラの悲痛な表情から、イーラの生存が絶望的なのは火を見るより明らかだった。
「そうか……。彼女を……優秀な戦士を一人、あの事故で喪ってしまったのだな。我が国にとっては大きな損失……残念だ……」
 敵対していたとはいえ、決闘をした相手には敬意を払う。それがナルイグの戦士なのだ、とリリスは言っていた。
 そうだ。リリスは誇り高い戦士なのだ。彼女の名誉のためにも、酒場の人間を虐殺したなどという容疑は晴らさねばならない。絶対に。
 ごくりと唾を飲み込むと、光治郎は口を開いた。
「リリスが捕まえた岩窟人……確か、あいつは殺されたんだったな。犯罪ギルドの暗殺者か何かに」
「ええ。脱獄したその日の内に。あれはプロの仕事ですよ。鮮やかすぎました」
「ここって、警備が緩いのか? 確かにあいつはガタイが良かったが、そんな簡単に抜け出せるものなのかな」
「いえ……それに付いては、我らの不覚でしたな。いやはや、情けない。金で抱き込まれたんでしょうかね。脱獄に手を貸した者が内部にいたようなのですよ」
 光治郎の目が、キラリと光る。
「内部に協力者が。それは、本当に、その場限りの関係なのか? 単なる警備していた者の汚職事件に過ぎないと。ダリラさんは、そう考えているのか?」
「ほほう。何やら鎧殿には考えがお有りのようだ」
 食いついた。光治郎はほくそ笑む。
 だが、ここからは慎重に行かねばならない。<青銅の盾>隊内部に裏切り者が多数いることは分かっている。アッシュの情報では、それは賄賂を受けとって犯罪を見逃すといった軽い物ではないという。より、深く、広範囲の戦士が──それこそいくつもの部隊が──犯罪ギルドと蜜月の関係を築いていると考えられる。
 問題は、犯罪ギルドの手がどこまで伸びているか──<犯罪ギルド対策特別捜査本部>のどこまでが汚染されているか、だ。まさか、ダリラまでが一連の悪事に加担しているとは考えたくなかった。
「ここに配備されてるかどうかは分からんが……<機動制圧部隊>(スプレッシオ)ってのがあるんだろ。あの晩、リリスはそこの連中に襲われたんだ」
 これはちょっとしたハッタリだった。酒場で襲撃してきた黒ずくめの者たちが、アッシュの言っていた暗殺部隊──<裏方>であるかは分からない。もしかすると、全く別口の武装勢力である可能性もある。だが、出口を封じた上、薄暗い店内で的確に客を殺害していく手際の良さ。黒いマントに黒く塗った投げナイフ、そして室内戦に慣れているような動きから、十中八九そうだろうと、光治郎は考えた。リリスの反応を横目で窺うと、彼女も同じ結論に到っているようだ。
「つまり、リリスは犯罪ギルドの内部抗争に巻き込まれただけなんだ! アッシュもその話をしてくれたよ。犯罪ギルド子飼いのヤバイ連中が動いてるって。例の岩窟人を始末したのも彼らだろう、ってさ」
「奴を始末することで……<青銅の盾>隊との関係にヒビを入れることで、得をする輩がいる、ということですかね?」
「そうだ。これを切っ掛けに、ギルド内部の力関係が変わるんじゃないか、とも言っていた。酒場を襲撃したのも、その一巻なんじゃないか? あそこは、表では出来ないような商談をする場所でもあるんだろう? 黒幕連中にとって目障りな人間がいたとしてもおかしくないはずだ」
「ふむふむ……なるほど……」
(よし! 流れが良い方向に向いてきたぞ!)
 光治郎は手応えを感じていた。後ろのロレンサはともかく、ダリラの疑いの矛先を反らすことは出来そうだ。彼女の脳内では、容疑者候補がいくつも現れては消えているに違いない。
「<青銅の盾>隊内で、どれだけの人間がギルドに抱きこまれているのか、というのも早く調べた方がいい。向こうは<機動制圧部隊>なんてのまで出して、一方的に関係を絶って来たんだ。ギルドの内部情報が漏れることを嫌って、口封じされるかもしれない。最近金遣いが荒くなった者、急に羽振りが良くなった者なんかいないか? そういう人間は目立つと思うんだ」
 もう一押し。
 <青銅の盾>隊に今もいるであろう裏切り者の存在。彼女たちの命が危険に曝されているのだ、と光治郎は訴える。
 これで、リリスへの疑いは幾分か薄まるはずだ。そう確信したのだが──
「しかし、リリスさんがその“黒幕”の手下である、という可能性もまた否定できませんよねえ」
 ダリラはどこまでも冷静だった。
「ダリラ様のおっしゃる通りだ。酒場の件は単なる仲間割れか、ギルドの別組織に雇われてるあんたが狙われたのかもしれない」
 それまで沈黙していたロレンサがずいっ、と前に出てきた。
「雇われてる、って……そんな、言い掛かりだ! そ、それに、リリスは別の任務でアンヴリルを出るんだ! しばらくは国外に出て帰ってこない! なら、そんなゴタゴタに関わってる余裕は無いはずだろ! そうだ、命令書だってあるはずだ。確認してくれよ!」
「ほう、国外に? つまり、立場がまずくなったので、高飛びしようとしているのだな?」
 話にならない。
 何か、何か突破口は無いか。光治郎は一縷の望みをかけてリリスの顔を見た。
「…………………………。」
 だが、リリスはむっつりと押し黙り、一言も言い返さない。顔を苦しげに歪め、じっと宙を睨んでいる。
 ダリラは、はあ、と溜息を吐くと、机の上で両手を組み、リリスを真っ直ぐ見つめる。
「リリスさん。今回の事件ね……あなたの周りで人が死に過ぎなんですよ」
「………………。」
「脱獄した岩窟人、あなたの監視に付けていた戦士、情報屋アッシュ、酒場に居合わせたその他の客、用心棒、あなたを捕縛した巡回戦士──」
「──っ、何?」
 驚愕の声を上げ、リリスがビクリ、と身じろぎした。
「その様子だとまだ聞いていないようですね。ええ、先日、岩窟人の騒動であなたを取り囲んでいた巡回戦士たち……お亡くなりになりました。……あなたの知り合いだったんですってね」
「いや、知り合いというか……。士官学校で同期だった連中だ」
「あなたを目の敵にしていたとか」
「ダリラさん! 今、それは関係ないでしょう。まさかリリスが私怨で殺害したとでも?」
 話の流れに危険な匂いを感じ、光治郎が慌てて割って入る。
 話に出た巡回戦士とは、光治郎が俄か演説を披露した相手だ。リリスを罵倒した者たちであり憎らしいとは思っていたが、死んだと聞いて平静でいられるほど冷たい人間ではない。あの時、彼女たちだって多少は改心したように見えたのだ。自らの行いを恥じ、戦士としての誇りを取り戻した、と。
 だが、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。光治郎は、思考を無理矢理切り替える。
「いやいや、いくらリリスが単純でも、そんな、自分が真っ先に疑われるようなことはしませんて。もし……もし、ですよ。あなた方が言うとおり、リリスが犯罪ギルドに雇われてるってんなら……それこそ、国外に出たあとで、誰か別の人間にでもやらせればいい」
「何か行き違いがあった──なんてことも考えられませんかね。あるいは、貴方がたはギルドに切り捨てられた、とか」
「リリスが疑われるように仕向けた、と? それなら、あんたらに捕まった時点で、ギルドにとっては損じゃないか。内部情報をベラベラ喋っちゃうかもしれないだろ?」
「だから、消そうとしたんじゃないですか? 酒場ごと、こうドカーン、ってね」
 大仰な身振り手振りで爆発を表現してみせるダリラ。
──しまった。
 光治郎は絶句して、眼をしばたたかせる。ここまでの流れは何だか、ダリラの思惑通りに進んできた気がしてならない。果たして自分は彼女の掌の上で転がされていただけなのだろうか。光治郎は自分の人生経験の浅さが悔しくて堪らない。
「だからこそ、誤算だったわけですよ。リリスさんが魔道具を持っていたのが」
(結局、そこに戻るわけか……)
「もう一度、訊きますよ? <耐火><耐爆>の魔道具……何故あなたはそれをタイミングよく持っていたんですか?」
 リリスは黙して答えない。 
「おい、こっちを見ろ! ダリラ様の質問に答えないか!」
 ロレンサがリリスの髪を掴み、無理矢理ダリラの方を向かせる。
「────ぐっ!」
「リリスさん? どうなんです? 重ねがけされた魔道具なんて高級品だ。誰でも持ってるもんじゃない。あなたは、ギルドのやり方──邪魔者を始末する方法を知っていた。だから、もしもの場合を考え、自分の身を守る魔道具を身に付けていた。そうでしょう? ……ねえ、そうやって黙ってても、あなたの立場は悪くなるばかりですよ。いい加減観念したらどうですか?」

(もう駄目だと思ったが……最後の最後で……運が向いてきた────!)
 光治郎はニヤリと笑うと、大きく息を吸い込んだ。

◇◆◆◆◇

【幕間・1】

 <犯罪ギルド対策特別捜査本部>は、慌しい熱気に包まれていた。
 そこかしこで捜査方針について激論が交わされている。表立ってダリラを批判する者はいないが、彼女らの眼には明らかな不信感と、死への恐怖が見て取れた。 
 というのも、ここに来て急速に事態が悪化し始めたからだ。
 突破口となるべき人物が脱獄したと思えば、死体で発見され、犯罪ギルドの支配地域で謎の爆発が起こったかと思えば、同僚が巻き込まれて物言わぬ骸として帰ってくる。岩窟人を捕縛した巡回戦士も死亡したと聞く。しかも、その数は一人や二人ではない。
 遂に犯罪ギルドがその悪辣な手を伸ばしてきたのかもしれず、一度は腹を括ったはずの捜査官たちは「次は自分の番ではないか」という不安を隠せていない。
 だが、確たる証拠は何もない。もしかすると、これらは偶然起こった別々の事件かもしれないのだ。
 
(いや……いまさら何を誤魔化しているんだ、私は。これは明らかに我々に対する攻撃じゃないか)
  ペネロペは捜査官の一人である。長年、巡回戦士としての職務を懸命にこなし、今回、晴れて<犯罪ギルド対策特別捜査本部>入りをすることができた。一介の巡回戦士から捜査官へと昇進するのは並大抵の苦労ではないが、ペネロペにとってその努力は辛いものではなかった。
 幼ない頃から<青銅の盾>隊への入隊、そして出世は彼女の夢だった。それは、巡回戦士止まりだった母に強く言われたせいではない。
 ペネロペは真面目だが、それが故に、心のどこかに不安感を抱えて生きてきた。それは、ろくな後ろ盾の無い弱小氏族で育ったせいなのか。いつしか、大きく強固な組織の庇護下に入りたい、所属して安心感を得たい、という渇望が常に頭の片隅にあったのだ。その点で、<青銅の盾>隊はぴったりだった。規律を守り、上官に従い、動く。訓練はきつかったが、それ以上に「所属する喜び」の方が大きかった。
 かくして、ペネロペは「模範的な戦士」として出世していくこととなる。
(そして、遂にダリラ様の下で働けるようになった。まだ雑用や書類仕事くらいしかやらせてもらえてないけど、ここで踏ん張ればいつか私も……!)
「あら、ペネロペさん。ご機嫌いかがかしら?」
「あっ、ミレディア上級連絡官殿! ご苦労様です」
 犯罪ギルドに関する様々な情報が書き付けられた羊皮紙の束。この整理と片付けに追われていたペネロペのところへ、ニコルがやってきた。
「……私は、あなたの調子を尋ねたのだけれど?」
「あ、は、はっ! 今日も絶好調であります!」
 ペネロペが慌てて答える。
 初対面の時から思っていたが、どうも、この人はやり難い。
 生まれつきそういう性格なのか、わざとそんな態度を取っているのか分からないが、誰に対しても同じような話し方をするため、前者ではあるのだろう。だが、(本人にそのつもりは無いのかもしれないが)その高慢な仕草や、人を小馬鹿にしたような声のトーンは、こちらを見下しているようにも受け取れる。その結果、捜査官のほとんどがこの女性を嫌っていた。
 当然だ。自分に敬意を払わぬ者に敵意を抱きこそすれ、好意など覚えるはずがない。だが、彼女はエリートコースに乗った文官であり、将来は葉議員になることも夢ではない。そういった人種は、少なからずこのようなパーソナリティを持つ傾向にある、ということはペネロペも知っているので、それほど腹立たしいとは思わない。「お偉いさんはそういうものよね」と、諦めに近い感覚で受け入れている。だからと言って、積極的に仲良くしたいとも思わないが。
「何のご用でしょうか?」
「いえね。昨日の夜、下枝部で起きた酒場爆破事件……その生き残りが連行されてきたでしょう?」
「はい。あの規模の爆発で無傷だったらしいですよ。なんでも、魔法を使ったとか使わないとか」
 やっと目を覚ましたということで、ダリラとロレンサが取調べの真っ最中である。ペネロペは、ふと捜査官たちの噂話を思い出し、思い切って聞いてみることにした。
「あの……容疑者の方は上級連絡官殿のご友人だとか。大変なことになりましたね」
「何をおっしゃっているのかしら。リリスは単なる昔の顔なじみですわ。そうね、ライバルと言って差し支えないけれども、友人ではないわね。……まあ、もはや私とは何の関係もない、赤の他人よ。犯罪者と接点があるなんて、考えるだけでおぞましい」
 何か、劇的な反応をペネロペは期待していたのだが……ニコルは鋭い視線をこちらに向けると、冷たく、吐き捨てるような口調でそう言うだけだった。
(犯罪者が身内にいるなんて、出世の邪魔だってこと? やっぱり私とこの人は生きる世界が違うんだなあ……)
「それで、犯罪ギルドの関与はどの辺りまで解明できたのかしら?」
「さあ、どうでしょう。今、ダリラ様が取調べ中ですので……」
「あら、そう。なら、それに関してはいいわ」
 あまりにもあっさり引き下がるので、ペネロペは拍子抜けしてしまった。
 ニコルは捜査官からあまり好かれていない。さすがにダリラとの情報共有くらいはしているだろうが、他の捜査官が担当する部分までは知らないだろう。詳しい捜査状況が知りたかったのではないのだろうか。
「私、死体が見たいわ」
「は?」
 今、この人は何と言ったのか。会話に必要な言葉を何段階か省いたニコルの物言いに、ペネロペは唖然とする。
「爆発の跡地から回収したのでしょ? 遺留品なんかも、私が見れば、何か分かるかもしれないじゃないの」
「い、いえ、それは、私の一存では何とも……! それに上級連絡官殿はあくまで捜査協力という形ですので、あまり独自に動かれますとそのぅ……」
「大丈夫よ、大丈夫よ。あなたの立場も理解してる。余計なことはしないわ。モルグに安置してあるのを見るだけ。それならいいでしょう?」
 てっきり、「何となく手持ち無沙汰だから、暇つぶしがしたい」という程度でそんなことを言い出したのだろうと思ったので、最初はやんわりと断っていた。だが、思いのほか食い下がるニコルに押し切られてしまった。
 ちょうどモルグはペネロペの担当だったし、一応は国税庁、及び徴税局との合同捜査なのだから、変にニコルを遠ざけるのも具合が悪い。それに、せっかく重要な容疑者が確保されたというのに、事情聴取から締め出されている彼女が何だか哀れに思えたのだ。
 死体を見るくらい、別に構わないだろう。

 後にペネロペは、この時ニコルに情けをかけたことを後悔することになる。

 <青銅の盾>隊本部裏手の道を一本越え、しばらく歩くと河に出る。アンヴリルにおける商業流通の要、オーリオ河である。そこから枝分かれした細い水路の先に、モルグ(死体安置所)は建っていた。
 「死体を安置する場所」と言うと、石で出来た教会のような、神殿のような、荘厳なデザインの建物を想像するかもしれない。だが、その建物はアンヴリルにおける平均的な倉庫とそう変わらぬデザインをしていた。そこがモルグだ、と知らなければ河川沿いに数多くある廻船業者の倉庫かと勘違いする程である。
「アンブリルで出た遺体は、オーリオ河を通じてここへ運搬されるんですよ。かつては荷車に乗せて運んでいましたが、臭いと流行り病の問題がありましてね。下枝部はともかく、中枝部より上層の住民は嫌がりますし」
「それはそうね。私だって、臭いのは嫌だわ」
 ペネロペはモルグのドアを開けると、ハンカチを取り出して鼻に当てているニコルを、奥へと誘った。
「ははは、大丈夫ですよ。室内には消臭魔法と消毒薬、ハヴィエル教会謹製の聖水がたっぷり撒かれていますから」 
 モルグを管理する老婆に声をかけ、保管室の位置を確認する。昼間なお薄暗く、ひんやりとした廊下を進むと、目当ての部屋があった。横開きの引き戸を一気に押し開く。
 いかにも薬品臭い香りが二人を襲い、ニコルは顔をしかめる。
 石材を切り出したのであろう台がいくつも並び、そこに四肢が不完全な遺体が安置されていた。幾つかは、もはや身体のどの部分がどこにあるのか、よく分からない状態で乱雑に置かれている。
 無理も無い。酒場の屋根や壁が吹き飛ぶほどの爆風と火災だったのだ。ほとんどが黒く焼け焦げており、身許の確認は困難に思われた。身につけていた装飾品や焼け残った衣服から推測するほかないだろう。
(火事場泥棒が金目の物を奪ってなければね……)
 人の死を前にしても、その混乱に乗じて悪事を働く不逞の輩はこのアンヴリルにもいる。ペネロペは、時折そんな醜い現実に打ちのめされそうになるのだ。
 ニコルに気付かれぬよう、静かに嘆息する。
「さて、ペネロペさん。記録と突き合わせながら、死体と遺留品の検分をしていきましょうか」
「ええ。先ほど関係書類は預かっておきました」
 ニコルは、物珍しげに辺りをキョロキョロと見回し、遺体の周囲を歩き回っている。ペネロペも書類を捲りながら確認作業を始めた。

 数刻後。
「あれ……?」
 ペネロペはおかしなことに気付いた。搬入記録に記された遺体の数と、目の前のそれが合わないのだ。
 数え間違いかと思い、ニコルと共に指差し確認しながら数え直しても、やはり合わない。遺体が一体足りないのだ。
「手足がバラバラになっているのもあるし、そっちに纏められてしまったのではないかしら?」
「いえ、それはあり得ません。搬入した後、遺体が置かれた台の数で『一体、二対』と記入される規則なんです」
「なるほど。じゃあ、この台に置いてあったのが消えたのね。ほら、これをご覧なさいな」
 ニコルが何かをつまみ上げ、ペネロペに見せる。
 それは、長い、綺麗な銀髪だった。
「えっ、まさか、そんな……! 遺体泥棒?」
「死体がひとりでに起き上がって帰ったのでなければね」
 ペネロペは青くなった。モルグは自分の管轄である。厳密に言えば、こそ泥に侵入された責任は、モルグの管理人及び警備兵にあるだろう。だが、その理屈が<犯罪ギルド対策特別捜査本部>で通用するだろうか。
 ダリラは公明正大で器の大きい人物だ。ペネロペを殊更に責め立てることはないだろう。だが、同僚はどうだろうか。「何をやっているんだお前は」「駄目な新人だな」「まだ捜査官になるのは早かったか」「無能め」──先輩捜査官たちが脳内でペネロペを罵倒する。
「大丈夫ですわ、遺体の一体や二体。そんなの大した問題ではありませんよ」
 ペネロペが震えていると、ニコルが楽観的な声を上げた。
「い、いえ、これは大問題ですよ……少なくとも私にとっては。と、とりあえず、このことを報告して……あと、あと管理人と警備兵に話を聞かなくては……」
 急いで踵を返し、モルグ管理人の下へ向かおうとしたところで、ニコルに腕を掴まれた。
「待ちなさいな、ペネロペさん。そう急ぐものではなくてよ」
 この人は何を言っているのだろうか。早くしないと、自分の立場が悪くなるばかりではないか。
 ニコルの腕を払おうとしたところで、ペネロペの耳に悪魔の囁きが響く。
「まだ誰もこのことには気付いていないんでしょ。管理人の方は何も言わなかったし、書類にもその旨記載されてはいない」
「そ、それが何か……?」
「つまりね。あなたと私の胸にしまっておけば、大丈夫ということです」
 ペネロペの心にニコルの毒がするりと滑り込む。
「ね。私たちはモルグに来たけど、特に変わったことはなかった。間違っているのは書類の方ですわ。管理人の方もご高齢です。うっかり書き損じることだってありますわよ。ね、ほら。この欄だけ書き直しておけばいいのです」
 ニコルが指したのは、搬入された遺体の数。それから、その詳細が書かれている部分だった。そこには「顔に大きな傷のある銀髪の女性。身元は不明。細身。全身に裂傷があるが、顔の物も含め事件以前の物。打撲や細かな出血はあるが致命傷ではない。右脚を骨折しており、添え木あり。死因は不明だが、息をしておらず、死亡と判定する」とある。それから、多くの刃物及び薬物を携帯しており、犯罪者の可能性あり、という記述もあった。
 血の気が引く。ペネロペは身体の芯まで冷え切ってしまった。
 盗まれた遺体は、明らかに怪しい人物だ。犯罪ギルドとの関与だってあるかもしれない。「証拠隠滅」という言葉が脳内に浮かび、ペネロペは放心する。
「不正は許されない、ミスはきちんと報告すべきだ、とお考えならそれも良いでしょう。でも、本当にそれが正義だと言えるのでしょうか?」
「え……?」
 ペネロペは、虚ろな目をニコルに向ける。
「この件を報告することで、あなたは相応の罰を受けるでしょう。管理人のお婆さんはクビになるかもしれませんね。警備の方は左遷されるかもしれません」
「そ、それは……」
「しかし、あなたは職務を忠実に遂行していたではありませんか。ペネロペさんは、自分に落ち度があった、と本当に思いますか?」
「…………」
 その沈黙は、ペネロペの心情を雄弁に物語っていた。ニコルの弁舌にはますます熱が篭っていく。
「ですが悲しいかな、こういった組織では誰かが責任を取らなくてはなりません。まだ新人のあなたはスケープゴートに丁度良いんですよね。その結果、ダリラさんには失望され、関係ない先輩からは馬鹿にされる。場合によっては降格処分もあるかもしれない。……それで良いのですか?」
 少しずつ、少しずつニコルの言葉がペネロペの心を犯していく。それは、甘美な快楽で少しずつ身体を蝕む麻薬のようであった。
「本当に必要なのは、悪を成敗することです。鬼畜のごとき犯罪ギルドの撲滅……それが、あなた達の悲願なのではありませんか?」
「そ、そうです! その通りです! このアンヴリルに巣食う巨悪を一掃することこそが正義なのです! 我々は、日夜そのために奮闘しているのですから!」
 ニコルは、正に我が意を得たり、といった顔で深く頷く。
「ならば、この程度の小事に動揺している場合ではありません。それに……特捜本部の捜査官方を見る限り、ペネロペさん。あなたほどの熱意がある方は、ダリラさんを除いて他におられない。今後の戦いで間違いなく大きなウェイトを占めるであろう、あなたが、こんなところで足を引っ張られるなんて、私は耐えられませんわ」
「み、ミレディア上級連絡官殿……」
 ペネロペは胸に熱いものがこみ上げてきた。
 あまり接点の無かったニコルがこれほど自分を買ってくれていた、というのも大きいが、そもそも<犯罪ギルド対策特別捜査本部>において、ペネロペは、その働きぶりがきちんと評価されていないと、密かな不満を抱いていたのである。
「もう、そんな堅苦しい呼び方はよして頂戴。ニコル、と呼んでくださって結構よ」
「はい……はい。ありがとうございます、ニコルさん……うっ……ううっ……」
 ニコルの親しげな態度に、ペネロペの警戒心は解きほぐされていく。数刻前まで、ただ話しかけられるだけで緊張を覚えていた相手だとは思えない。
「ね、私も協力するわ。共に悪と戦っていきましょう」
「はい……はい!」
 ポロポロと涙を流しながら、ペネロペは何度も頷く。胸の中が温かいもので満たされていく。
「とにかく、このことは私たち二人の胸にしまっておきましょう。より大きな目的を達成するために──大義を成すためには、清濁併せ呑む選択をしなければならないのです!」
 いつの間にかニコルの腕はペネロペの肩に回され、二人は──あくまでペネロペの主観だが──共に紡ぐであろう理想の未来を、モルグの壁の向こうに見出していた。
 ニコルが差し出したハンカチで涙を拭うと、ペネロペは、モルグの搬入記録を改竄する作業を開始した。 

◇◆◆◆◇

「それは、俺から説明しようじゃないか」
 暗く、じめじめした取調室に、光治郎自慢のバリトンボイスが響き渡る。
「ほほう。聞きましょう」
 追い詰められた者の「最後の悪あがき」と見たか、ダリラは背もたれに背を預け、ゆったりと脚を組む。余裕の態度で光治郎を見下ろし、続きを促す。
 (全てを引っくり返すのは、今はまだ無理だ……だが、少しでもリリスの立場を良くすることは、出来るはず……!)
 不安なのか、困惑しているのか、リリスが怪訝そうな顔を向けてきた。光治郎は、安心しろ、とばかりに頷くと、口を開く。
「問題は、なぜリリスが<耐爆><耐火>の高額な魔道具を持っていたのか、ってこと。で、それは、あらかじめ犯罪ギルドのやり方を知っていたから──つまり、リリスが連中の仲間だからだ、というのがあなた方の考えだ。ここまではいいか?」
「ええ。そうでなくては、不自然ですから。偶然にしちゃ、都合が良すぎるってもんです」
「ならば、偶然ではなかったとしたら? 確かにリリスは魔道具を所持していた。だが、そのことを彼女は知らなかった、というのがこちらの主張だ」
「……? どういうことですかね?」
 ダリラが眉をひそめ、鋭い視線で射抜く。光治郎がふざけていると思ったのだろう、ロレンサが威圧しようと動いたが、ダリラが手を振って制止する。どうやら、こちらが何を言うのか興味を持ってくれたらしい。
「リリスに魔法の素養は無い。彼女が知らない間に、持ち物に魔法付与されたりしても気付かない。同様に、魔道具をプレゼントされたとしても、そうだと言われなければ、ただのアクセサリーだと思うだろうな」
「まあ、それは分かります。魔道具に何の魔法が付与されているのかを調べるのには、それぞれに対応した専用の探知魔法をかける必要がある。私だって見ただけでは判別できません。でもですよ、魔道具だってことを知らなかったって、あなた……それは幾らなんでも苦しいんじゃありません?」
「でも、事実そうなんだから仕方ない。そもそも、魔道具ってのはリリスのネックレスだろ? それに探知魔法をかけたら<耐爆><耐火>が引っかかった、と」
「……そうです。ここに搬送される時に危険物を隠し持っていないか、ボディチェックしましたからな。<カウンターマギ>が付与できそうな装飾品はそのネックレスだけだった」
 リリスが、ハッとして自分の身体をチェックする。胸元に、母の形見のネックレスがあることを確認すると、ホッとした様子だった。だが、昏倒している際、無断で身体をまさぐられたことに対する嫌悪感は拭えないらしく、嫌そうな顔をしていた。
「ああ、大丈夫ですよ。<カウンターマギ>が消費され、魔力の残滓しか残っていないそれは、もはやただのネックレスです。取り上げたりはしませんから、ご安心を」
 見当違いの気遣いを見せるダリラに、リリスは生返事を返していた。
 もしかしたら、小さな不快感を与えてこちらの動揺を誘おうと、故意にやっているのかもしれない。刑事モノの海外ドラマでやっていたが、容疑者をわざと怒らせたり、悲しませたり、不安にさせたりして、うっかり口を滑らせるのを待つのである。だが、光治郎には違うように思えた。思うに、このちょっとガサツところがダリラの素なのだろう。
「じゃあ、それ以外に探知魔法をかけてはいないんだな?」
「何を言ってる? 魔法がかけられそうな物は他に無かった、とダリラ様がおっしゃったではないか」
 ロレンサが怪訝な顔をする。
「リリスの服はどうだ? 頭のリボンやチョーカー、ニーソックス、靴なんかには試したのか?」
 ダリラもロレンサも当事者のリリスでさえも、ぽかんと口を開け、狐につままれたような顔をした。
「どうなんだ? 試してないのか?」
 大袈裟に溜息を吐くと、やれやれ、といった様子でロレンサが話し始める。
「お前は何を言ってるんだ……。普通、<カウンターマギ>は服なんかにはかけない。何故かと言えば、付与する範囲が広すぎて膨大な魔力量が必要になるからだ。分かりやすく言えば、金がかかるんだ。それに、付与する対象の強度も問題になる。布や陶器などにかけても、破れたり割れたりしたら無駄になるんだぞ。だからこそ、壊れにくく、小さなアクセサリーにかけるわけで……」
「だが、それが出来るのがパルドーア氏族なんじゃないか? 本家は古くからアンヴリルにある、由緒正しい名家だ。莫大な財産を持っているんだろう? 無駄になったら、また別のものにかければいいじゃないか。そうだ、『魔法の重ねがけ』ってのがあるんだろ? 布が破れるってんなら、<防刃>の魔法もかけりゃいい」
「いや、理屈ではそうだが……」
 ロレンサはいまいち納得できない様子だ。
「つまり、<耐火>や<耐爆>だけじゃない。リリスの服は、全ての脅威に対抗する<カウンターマギ>を付与されてるんだ。そう考えれば、酒場の爆発に耐えられても何もおかしくはないだろ?」
 光治郎の大胆な仮説にロレンサは呆気に取られていた。困ったような顔でダリラの方を見る。
「なるほど、金に糸目を付けず、服や身につける小物類に<カウンターマギ>を付与したとしましょう。理論上は可能ですからね。ですが、それをリリスさんに知られずに、誰が、どうやって魔法をかけたんでしょう?」
「母上だ……」
 茫然とした様子で、リリスがぽつりと漏らす。
「だよな。俺も、そうだと思う。リリスの服は特注だ。専門の業者が仕立て、出入りの商人が本家の倉庫に納品するんだったよな。戦士の隊舎に住んでいるリリスが受け取りに行くまで、必ずタイムラグがある。<カウンターマギ>を付与する機会はいくらでもあるはずさ」
 リリスの目の端に光るものが見えた。
 戦士として修行を始めてからは、ほとんど顔を合わせなかったと言っていた母親だ。自分が愛されているのかどうか、不安に感じたこともあったに違いない。それが、知らぬ内に娘の身を守る魔法を、莫大な金銭を払ってまでかけてくれていた、というのだ。胸に込み上げてくるものはあるだろう。
「証拠はある。前に、同期の奴に嫌がらせを受けたことがあった、ってリリスが言ってたろ? 服に落書きをされた、って。でもさ、普通そういう時って、ハサミとかでズタズタに切り裂くんじゃないかな。それを落書きに止めたってのはちょっと違和感がないか?」
「……ああ、確かに……言われてみれば、そうかもしれないな」
 光治郎が過去の話をし出した理由が分からず、一瞬、不思議そうな顔をしたリリスだったが、すぐに同意する。
「たぶん、最初はそうしようとしたんだろう。でも、いくら刺そうが、刃物を当てようが、切れなかったんじゃないだろうか。だから落書きする、って形で汚すことに路線変更したんだ」
「<防刃>の<カウンターマギ>、その重ねがけか!」
 リリスが目を見開く。
「そういうこと」
 にっこりと、光治郎も得意満面の笑みで返した。
 と、それまで二人のやり取りを見守っていたダリラが、口を開く。
「いやいや、だとしてもですよ。服の組み合わせの問題だってあります。『魔法の重ねがけ』にしたって、万能じゃない。一つの品に何個もかけられるものじゃないんですよ。全種類の<カウンターマギ>を常に発動している状態にするには、それが分かってないと……」
 と、ここまで言ったところで、ダリラにもおおよその察しがついたらしかった。
 にんまりとした光治郎に、ダリラは、ばつの悪そうな顔を向ける。
「なるほど……。私は若者のファッションには疎いですが……その私でも何となく分かりますよ。リリスさん、あなたのその服……一式でセット注文しているんですね? 小物から服、靴に到るまで、コーディネートされた状態で。なら、話は簡単だ」
「理解が早くて助かるよ、ダリラさん」
 数瞬、取調室の埃っぽい空気が弛緩したようだった。だが、光治郎の戦いはまだ終わらない。
(何とかここまではこぎつけた……。次が勝負だな)
「分かりました! 分かりましたよ。とりあえず魔道具の件に関しての疑いは晴れました」
 ダリラが大仰に、ホールドアップのポーズを取る。
「ですが、だからといって、リリスさんの容疑が晴れたわけではありませんからね。あなたの周囲の人間が次々に命を落としているのは事実なんですから」
(よし、ここだ!)
 光治郎は大きく息を吸い込むと、出来るだけ威厳のある声に聞こえるよう、ゆっくりと、重々しく言葉を紡ぎ出す。
「……ダリラさん。そこで、一つ提案なんだがね。取引をしないか?」
「取引……ですか?」
「ああ。あんたの目的は、あくまで犯罪ギルド撲滅だ。下っ端を捕えることじゃないだろう? それじゃ、本体へと辿りつく前に蜥蜴の尻尾切りをされちまう」
「当然ですね」
 ほとんど反射的に、ダリラはそう答えた。過去に何があったのか知る由もないが、ダリラの犯罪ギルドに対する執念は、相当な物であろうと思われた。
「俺たちとあんた方では見解の相違があるが……とにかく、リリスが犯罪ギルドに命を狙われたのは事実だ。そこで、提案だ。俺たちを釈放してくれ」
「!? 言うに事欠いて……何を言い出すんだ貴様ら!」
 ロレンサが即座に激昂する。
 「バッドコップ」の役割を忠実に演じているのだと思いたいが、額に青筋を浮かべ感情を爆発させているその様は、ひょっとしたら演技ではないのかもしれない。
 内心ビビりまくってはいるが、光治郎は、表面上全くの平静を装い、会話を続ける。ゆっくりとした動作で視線を上げると、短気な取調官に呆れたような溜息さえ吐いてみせる。今いる世界は違えども、光治郎は腐っても役者だ。己のプライドに賭けて、このくらいの演技はしてみせる──これは光治郎にしか演じることの出来ない大舞台なのだから。
「何も、無条件で釈放しろとは言わんよ。いいか? <犯罪ギルド対策特別捜査本部>に逮捕されたんだぞ。その俺たちがすぐに釈放されたら、犯罪ギルドの奴らはどう思う?」
「なに……? そりゃ、お前達は事件に関係ないと判断されたと……」
「違う! 連中はきっと、こう考えるはずだ。『ギルドの内情を洗いざらい喋って見逃してもらったんだ』と、な」
 ロレンサは、腰に吊った剣の柄から手を離さず、光治郎から目を逸らさない。ダリラもいるのだし、まさか斬りつけてくることはないと思うが、光治郎も内心穏やかではいられなかった。
「だから、俺たちを泳がせてくれ。もし俺たちが犯罪ギルドの仲間だとしたら、裏切り者は許さない。絶対に実行部隊が始末に来るはずだ。たとえそうでなかったとしても、酒場の爆発で生き残った、ただ一人の人間だ。連中の姿を見てる。……この場合でも奴らは生かしておかないんじゃないか? ほら、どっちに転んでもあんたらにとっては得だろう?」
「ふむ……」
 ダリラは考えるそぶりは見せたものの、結局、光治郎の提案は却下された。
「大変魅力的な提案ですが、お断りします。犯罪ギルドが動く前に、貴方たちが行方をくらましてしまう可能性も捨てきれません。任務がある、とか言ってましたよね? それで、堂々と国外に出られては元も子もありませんし」
(くそー……ダリラさんなら必ず乗ってくると踏んでいたんだけど……)
 
 ダリラが再び尋問を開始する。
 だが、いくら調べてもリリスは潔白だ。長期間拘留されたとしても、犯罪ギルドに関して、何の情報も得られないだろう。いつかは解放されるはずだ。
 だからと言って、手をこまねいてはいられない。<勇躍する大樹>隊の任務があるのだ。その開始期日は四日後に迫っている。それまでに外に出られるかと言えば、それは難しいだろう。
 早く次の手を考えなければならない。

「それでは、リリスさんの宿泊先ですが……」
 もう何度目か分からない質問が繰り返されようとしていた時、突然、取調室の扉が叩かれた。
 ロレンサが応対すると、顔を青くした戦士が部屋に飛び込んできた。敬礼もそこそこにダリラの元へ駆け寄ると、何やら萎縮した様子で耳打ちをしている。
 二言三言、言葉を交わした後、ダリラは一つ頷くと、席を立った。
「では、お二人とも。お話はこれくらいにして、部屋を変えるとしましょうか」

◇◆◆◆◇

 ダリラとロレンサは部下たちに案内を命じると、どこかへ行ってしまった。
 意図が分からず、何処へ行くつもりなのかと聞いてみたが、「面会だ」と言うばかりでどうにも要領を得ない。リリスと二人、首を捻りながら捜査官のあとに付いて行くしかなかった。
 <青銅の盾>隊にしては随分と小綺麗な、応接室といった部屋に通される。
 そこには、厳しい顔をした女性が二人、待っていた。二人とも戦士ではないのか、鎧の類は着ておらず、<ナルイグの民>にしては露出度も控えめである。
 年長の方が、捜査官と二言三言言葉を交わす。会話の内容から、どうやら二人はパルドーア氏族族長代理の遣いであるらしいことが察せられた。
 「人払いを」という無茶な要求に、ここまでリリスと光治郎を連行してきた者たちは明らかな不満を浮かべていたが、結局何も言わずに部屋を出て行った。
 本来、容疑者との面会など許可されないか、たとえされたとしても、複数の巡回戦士立会いの下、物々しい雰囲気で行われるものである。そういった規則を曲げて人払いが出来る辺り、リリスの実家は警察組織にも顔が利くようだ。
「さすが、エヴァンゼリン殿はお耳が早い。正に、『枯れ木の千里耳』──歳を取ると、些細なことにも敏感になると言うが、あれは本当のようだ」
 開口一番、棘のある物言いをするリリスに、光治郎は驚いた。無骨で不器用ではあるものの、竹を割ったような、こざっぱりとした性格をしたリリスが、このような嫌味を言うとは思っていなかったのだ。
 リリスは目の前の二人ではなく、その後ろに控えているであろう、別の誰かを見ているようであった。
「お嬢様! いくらお嬢様であろうとも、一族のまとめ役でおられる方に対して、そのような物言いは……!」
 二人の内、年若い方が堪らず声を上げた。身長差のせいか、リリスよりも大分年下に見える。
「族長の行方はいまだ分からぬが、その生死は不明だ。エヴァンゼリン殿もそれはご承知のはず」
「まだそんなことを……! お嬢様、いい加減に現実を見て下さいませ! このままでは我が氏族の勢いは衰え、いずれは……」
「そこまでにせよ、ルルイナ。」
 それまで黙って成り行きを見守っていた、上司らしき女性が鋭く注意する。
「はっ。……出過ぎた真似を致しました」
 気勢を削がれたのか、ルルイナはすぐに謝罪をした。あくまで「上司に恥をかかせてしまったこと」に対してであって、リリスへ向けたものでは無かったことが引っかかったが、リリス本人が気にしていないようだったので光治郎も口をつぐむことにする。
「……お嬢様。部下が失礼を致しました。私の教育が行き届いていなかったこと、ここにお詫び申し上げます。ですが若輩者のしでかしたこと、ここは、寛大なご沙汰を頂戴致したく……」
「よい! 私は気にしておらん。全く、お前は昔から……そう、大仰な言い方はよせ」
「はっ。そのようなお言葉を頂けるとは、ありがたき幸せ。光栄の至り。このペリアンヌ、肝に銘じておきます」
 大袈裟な身振りで謝意を表すその姿に、仏頂面だったリリスにも笑顔が戻る。よく見てみればペリアンヌの顔にも「してやったり」とでも言いたげな、いたずらっぽい笑みが見えた。
 先刻まであった一触即発の空気は緩和され、リリスの緊張も幾分解けている。
「いや、久しいな、ペリアンヌ。いつ以来だろうか。私が士官学校に入る前に一度会食したかな。」
「はい。懐かしゅうございます。あれから幾度の夏と冬が過ぎたでしょうか。……私どもも色々ございました。あの日々は、もはや遠い昔のことのように思えてなりませぬ」
「そうか……お前も色々あったものな……。だが元気そうで安心したぞ」
「お嬢様もお変わりなく。いえ、以前より格段に逞しくなられましたな。戦士としても女としても、一層の成長をされたようで」
「ハハハ、言うじゃないか。戦士としての訓練ばかりで、男とは全く関わってないんだ。それじゃあ、まずいとは常々思っているんだがな」
 ペリアンヌはリリスの昔馴染みであるようで、この堅物で頑固なところがある女戦士の機嫌を損ねることなく、見事に操縦している。彼女が遣いとして送り込まれた理由がこれだとすると、リリスが敵視するエヴァンゼリンとやらは懐の深い人物であろう。たとえ裏切らないまでも、彼女がリリスに肩入れする危険性を考慮して、それでもペリアンヌを寄越したのだ。
(一応、ストッパーとしてお目付け役を一人付けているみたいだけど)
 ちらりとルルイナに視線を走らせると、彼女は、リリスとペリアンヌのやり取りを険しい表情で見つめている。
 リリスはと言うと、ダリラやロレンサに相対していた時とは全く違う、穏やかな表情で、何やら近況を話しているようだ。そのままこちらの情報をペラペラ喋ってしまうのではないか、と光治郎の方が心配になってしまうほどである。
「男といえば……お嬢様には新しい男が出来たようですね」
 チラリとこちらを一瞥するペリアンヌ。これまで蚊帳の外だったため、気を抜いていた光治郎は慌てて居住まいを正す。
「あっ……ああ! 実はそうなんだ。懇意にしている友人の伝手でな。こう見えても私は顔が広いんだ」
 光治郎が何か言うよりも早く、リリスが早口で捲くし立てた。
(俺が何かボロを出すんじゃないか、とでも思っているんだろうか)
 別の世界から魂を呼び寄せてしまったという意味で、確かに降霊は失敗しているのだから仕方が無いのかもしれないが、何だか自分が信用されていないみたいで嫌だった。
「なるほど、ご友人が……。やはり、その方は中央にも顔が利くのでしょうな」
 リリスは答えず、曖昧な笑みを浮かべている。その態度は──口にこそ出さない、あるいは出せないが──ペリアンヌの言が正しいのだということを雄弁に物語っていた。
「失礼ですが、その方はどちらの氏族の……」
 よほど気になったのか、それまで黙っていたルルイナが口を挟む。しかし、その疑問は、横から彼女の前に突き出された上司の腕によって阻まれてしまった。
 「それ以上訊いてはならぬ」というペリアンヌの強い意思を感じ、再び失態を演じてしまったことに気付いたルルイナは、顔を赤くして黙り込んだ。
 リリスが言葉を濁して、あえて名を出さないようにしているのだ。その「ご友人」がこのアンヴリルでどれほどの影響力を持っているのか分からない以上、下手をすれば藪をつついて蛇を出すことになりかねない。だから、ペリアンヌは当たり障りのない表現で訊いてみて、結果──危険だと判断したのだろう。
「お嬢様がお元気で、このペリアンヌも安心致しました。ひとまず、今得た情報だけでも報告に戻ろうと思います。<青銅の盾>隊に付いては、こちらにお任せください。すぐに出られますよ。それでは、失礼致します」
 途中でリリスが何かを言いかけたが、有無を言わせぬ口調でそう言い切ると、ペリアンヌとルルイナは足早に去っていった。
 最後に一度振り返り、「お嬢様。ここは、ご辛抱くださいませ」と付け加えた。
 光治郎にはよく意味が分からなかったので、リリスに尋ねてみる。
 すると、リリスは渋面を作り、搾り出すような声で、こう言った。
「家に……借りを作ってしまうことになる。それが嫌なんだ、私は」

◇◆◆◆◇

【幕間・2】

「私は……何とご報告すればよろしいのでしょう」
 ぽつり、と。ルルイナの口から問いとも愚痴とも取れる言葉が漏れた。
 <青銅の盾>隊の建物から出たペリアンヌとルルイナは、人が忙しく行き交う通りをゆっくりと歩いていた。正午を幾らか過ぎた辺りで、中天に差し掛かった太陽はギラギラと強い光を投げかけている。例年ならばまだ涼しい季節だというのに、二人の額には汗が滲んでいた。
「それは……包み隠さず、聴いたままを報告するしかあるまい」
 眩しそうに手をかざしながら、目を細め、ペリアンヌは空を見上げる。

 <ナルイグの民>は他の種族と比べ、特異な社会体制を持つ。女族長の下、組織を運営していくのは女の役目であり、後方に控えてこれを維持し、氏族を担う人材の育成と、各家の管理・調整を行うのが男の仕事である。家督を継ぎ、要職に就くのが女であるため、血の繋がりによる跡目争いというのは基本的に起こらない。族長の子はあまねく氏族の宝であり、女子ならば誰でも長となる権利を得るからである。このような社会においては、子の父親が誰か、ということは重要視されない。族長が氏族内のどの男と交わる可能性も平等にある為である。言うなれば、「氏族内の男集、全員が父親である」と言ってもよい。

 ルルイナ=シャトラン=ポー=パルドーアは、ポー家の三女である。ポー家は、母祖ラーシャナ──初代族長の娘の一人である──が興した分家筋ではあるのだが、氏族の要職を代々受け持ってきた一族の末裔である。
 <ナルイグの民>は多産の種族であるから、三女というのは産まれた順番からすると早いほうではあるのだろう。だが、王位継承の序列が年齢順に決まるヒト族とは違い、彼女らにそういったルールは無い。後継者は純粋に能力の優劣で決まる、というのが一応の建前ではあるものの、それが常に優先される訳ではないということもルルイナは知っている。
(あの方は私を毛嫌いしている)
 詳しい事情は知らないが、過去に交わった男と何かあったらしいのだ、母は。その男──十中八九、父なのであろう──に、ルルイナはそっくりなのだと言う。
(そんなの……私の知ったことか!)
 心中で幾度となく繰り返した言葉を、今日もルルイナは反芻する。
「ルルイナ……エヴァゼリン様は寛大なお方だ。そう気に病むこともあるまい」
 知らず知らず、強い(こわい)貌になっていた自分に、ハッとする。尊敬する上司に無用な勘違いをさせてしまったことにルルイナは気付き、雑念を振り払うかのように、首を強く左右に振った。
「いえ、大丈夫です。それよりも何故、報告役は私なのでしょうか。ペリアンヌ様を差し置いて、部下の私だけがお目通りする、というのは、やはりおかしいのでは」
「それは、もう言わない約束だろう。色々あるのだよ。私にも……あのお方にもな」
 申し訳なさでいっぱいだったルルイナの心に、さらに昏いものが追加されてゆく。それは濁り、歪み、軋み、よどんだ澱のごとく。ゆっくりと時間をかけ、ルルイナを蝕んでゆく毒だ。
 
 どうして、物事はこう巧くいかないのだろう。
 小さく溜息を吐くと、ルルイナは口をつぐむ。これ以上言葉を連ねても、ペリアンヌに気を使わせるだけで、何の益も無いのだから。
 いずれ、「族長代理」から後半の二文字が取れたその時──せめて、自分の敬愛するペリアンヌの努力くらいは報われて欲しい。たとえ家が違うとしても、実の姉妹以上の何かをペリアンヌに抱いているルルイナとしては、そう願わずにはいられないのであった。

◇◆◆◆◇

 <青銅の盾>隊本部の一角、<犯罪ギルド対策特別捜査本部>の長であるダリラのために用意された執務室。
 ダリラとロレンサ、そして配下の捜査官数人が作戦会議──という名の密談──の真っ最中であった。
「……うまく行きますかね?」
「ええ、もちろんですとも。ふふふ、手応えはありましたからね。彼女は間違いなく何かを隠してる」
 やや不安そうなロレンサに対し、ダリラは自信満々であった。
「やはり尋問で無理矢理聞き出せばよかったのでは?」
「無駄ですよ。彼女は<青銅の盾>隊で、出世街道を一足飛びにひた走っていた、十年に一人の逸材ですよ。口を割るわけがない」
「だからって、無罪放免で釈放していいんですか?」
「良いんです、良いんです。彼女を突破口にして、新たな道が開かれる予感がするんですよ、私ぁ」
 そこで部下の一人が手を挙げ、意見陳述の許可を求めた。
「はい、ドロテアくん。何でしょう」
「上手いこといったんで、あたしがどうこう言うことじゃないかもしれやせんが……。彼女の実家から圧力がかからなかった場合、どうやって泳がせるつもりだったんで?」
「そりゃ、まあ色々と。私だって伊達に長くこの仕事やってませんて。蛇の道は蛇。抜け道はそれなりにあるもんです。それに、彼女の氏族は誰よりも名誉を重んじるパルドーアですよ。絶対に横槍入れてくると思ってましたから」
「あー……本部長が顔青くしてましたよ。<青銅>統括次長から直接命令書が来たって」
 ロレンサが、へどもどする本部長の真似をすると、室内に笑いが広がった。
「そりゃあ、ビビるでしょうなあ。ステラくんはまだまだお若いから。まあ、コスティリャ管理官殿がしっかりしてるから心配ないでしょ」
「へえ、ダリラ様は、ずいぶん管理官殿を買ってるんですね」
「いやいや、ありゃなかなかいい男ですよ。ホントよく現場を気にかけてくれるし、我々の後方をしっかり守ってくれてる。野心もあるし、エリートさんにしては胆力だってある。ありゃ、出世しますよ。私があと二十年若ければ、強引に行ってるところですわ。わはは!」
「ははは。ダリラ様なら今でもいけますって!」
 部下の一人が囃し立てる。
「なるほど。それじゃ今度、特捜の『研修会』にでも誘ってみますかねぇ。もちろんこいつをやりながらの『個人研修』ですがね!」
 ジョッキをぐいっと煽るジェスチャーをしながら、にやけた顔でダリラがおどける。
「そりゃ、いい! ダリラ様にかかれば管理官殿もあっという間に丸裸ですわな!」
「デカいベッドを用意しておかなけりゃなりません。私ぁ結構激しい方なんでね!」
「わははははは!」
 下品な冗談を言い合いながら大口を開けて笑う捜査官たち。
 しかし、そこには、場を和ませるために少し無理をしてバカを演じているような、そんな素振りが見え隠れしていた。
 もちろん、本人たちにそんな意識はないだろう。だが、<犯罪ギルド対策特別捜査本部>という厳しい職場で働く彼女らが、一時その辛さを忘れられるのは、こういったくだらない馬鹿話をしている時だけなのかもしれない。

「はははは! ダリラ様、最高ですわ!」
 ドロテアが笑い転げる声が室内に響く。ダリラがまた下品な冗談を言っているようだ。
 
 彼女らの陽気な笑い声は、このあとしばらく続くのであった。


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