見出し画像

車が運転できること、あるいは都会と田舎での「外」「内」の配分について

Photo by Zhuoqian Yang on Unsplash

__

私は北海道の南端、道南(どうなん)といわれる地域で2021年の夏から暮らし始めている。元々住んでいた家のため、Uターンという言い方が一番近いだろうか。

道南暮らしには車が欠かせない。函館市の一部の地域を除けば、市電もバスもJRも頻繁に利用するにはちょっと遠いか不便かのどちらかだ。さらに言えば、自分の車があればそのどれもが面倒くさい手段となってしまう。ダイヤなどの時間の制約なく、また路線などの行動範囲の制約もない。自分の意思でいつでも、どこにでも行けてしまうのだ。

七飯町に暮らす夫と私も、車が手放せなくなった人々である。埼玉に住んでいたときは2週に1度程度、深夜のドンキや草加健康センターに行くぐらいの頻度でしか運転していなかった。あまりに頻度が低く、バッテリー切れを起こしても数日気づかなかったこともある。その車が、今や毎日乗るものとなっている。もはや自転車クラスの気軽さである。息を呑み、冷や汗をかきながら都内や埼玉の道の運転練習をしていた私が、育った地域でグイングインとハンドルをさばくようになるとは。人生どうなるかわからないものだ。

七飯町の今いる家は、私が中学生まで育った場所だ。つい最近まで知人に貸していたが引っ越すこととなったため、2021年に私と夫と猫が移り住む形となった。中学生の当時と今と、景色もほぼ変わらない。

慣れ親しんだ土地。とはいえ、今の暮らしの楽しさは段違いだ。

楽しさの原因はいろいろある。特に、大人になって使えるお金が増えたこと(中学生のころは3000円のCDを買うにも震えるぐらいの勇気が必要だったと思う)、そして、車が運転できるようになったことがかなり大きな理由だ。

車とは偉大な文明の利器だ。日本の産業界を牽引してもいる。ただ、23区の中、ないしは近い場所に住んでいたときは、その便利さやすごさを実感することはなかった。家から徒歩5〜10分の場所に駅がある。適当に駅に着いても電車が2分やそこらで来る世界。車なんて乗らずとも済むのである。

賃貸で暮らすことが多い都心エリアでは、車を所有すると諸々の維持コストに加え、駐車場代を追加で払わなければならない場合が多い。ただ停めているだけでも駐車場代が月2〜3万かかるような純コスト増になるのなら、車は余裕のある金持ちのものと言っても差し支えないような位置づけとなる。

田舎は違う。まったくの車社会である。家族で1人1台以上の車を所有しているということもざらにある。そして、まちの形も、車に最適な形でカスタマイズされることになる。そうなると運転ができない年代の子どもに何が起きるか。地元の文化的拠点(例えば本屋やゲームショップ、レンタル屋、コンビニすらもこれにあたる)にアクセスするのも一苦労となるのだ。それが私の子ども時代であった。

インターネットのほぼない(父のPCでmsnメッセンジャーやAOLメッセンジャーを使っていた)時代に、どのように雑誌にアクセスできるかはかなりの死活問題だった。本屋もコンビニも、一生懸命自転車をこがないとたどり着けない距離である。なんなら通学も徒歩で片道30分かかる。その後に自転車に乗って本屋に行くのは骨が折れた。否が応でも体力がつく、ほぼ弱虫ペダルの世界である。

もしくは、両親が車で文化的拠点に行くときのタイミングを座して祈るしかない。個人資金(おこづかい)も、潤沢に持っているわけではない。待機時間は、禁じられていないテレビ番組を食い入るように見つつ、同じ雑誌を5回読むほか、図書館で借りた本やそこら中から集めたフリーペーパーを読み込んでいた。ちなみに私が所持していたゲームはゲームボーイポケット(白黒)のみだった。貧乏という訳ではないのだが、車がなければ選択肢の乏しいワンパターンな暮らしとならざるを得ない。

今同じ場所に子どもとして住んでいても、インターネットがあるのでそこまでの必死さは生まれないだろう。とはいえ物理的な不便さは変わらない。田舎に暮らしながら、車が運転できないというのは私にとってまことに不自由なものであった。

ところがどうだ。30代も半ばにさしかかろうとする今、運転に慣れた自分が住むとめちゃくちゃ楽しい。車があるというのは、なんと素晴らしいことなのだろう。中学生の頃に自由に行けなかったあの場所もこの場所も、車で16分でひとっ飛びなのである。これはとてもすがすがしい体験だ。なんなら函館にとても大きい蔦屋書店があるので、文化的な刺激で言えば十分な量の拠点を有するエリアになるのではと思う。中学生の頃の無念が溶けていくような充実感だ。

自己の意思に基づく移動は、自由に他ならない。一人一台の車は、翼を装着することと変わらない。こちらに住み始めてやっと、都心との自由のあり方が大きく違うということを肌身を持って知ることとなった。

では都会の自由はどこに現れるか。個人的に言えば、ノイズキャンセリングのような感覚遮断からだと思っている。あまりに多くの刺激にさらされる都市では、静寂こそが自由そのものなのではないか。だからこそ、個の空間を作り出すガジェットが不可欠となる。都市に暮らす場合、部屋の中だとしても、集合住宅の隣接する部屋との関係性によってはすでに「外」であると私は思う。例えば上階の人の足音などから生活のリズムが分かってしまうのは、個人的な空間と呼ぶにはあまりに阻害されているのではと思う。意識せずともずっと緊張して暮らしているのが常ではないだろうか。

都会では、いかに個人の世界に没入できるかが重要だ。——それで言うと、VRやその機器というものは、都会に属する要素ではと感じている。わざわざ異世界に行くほどの動機を持つのは、現実の世界感覚を遮断したい都会の人が多いのだろうと個人的には思う。

田舎ぐらしは、ずっと「内」にいるような感覚だ。1人に1台あるような車は、まさに個人の空間だ。私の実感値だと、普段の生活で「外」が占める割合は1割にも満たない。外界とほぼ接触しないし、気を遣わないし警戒もしない。ご近所さんも、他人ではなく身内や親戚のありように近い。それが都会ではない暮らしのかたちなのではと思う。

逆に言えば、家という空間を共有する家族の中にいると、個人として自我を育て、保つのは意外と難しいのではと思う。相互の時間が溶け合い、食や移動をはじめとしたイベントが同時進行し、相互に連関する。もしノイズキャンセリングをすれば、それは共同体を拒絶するという形になることもあるのではとすら思う。こうして私のように自我が無用に強い者は、いつか都会に住みたいと、幼心にちいさい炎を灯すのだ。

私個人としては、どっちも好きは好きではある。ただ、個人としての空間認識、そしてその感覚というものが大きく違うことは、実際に住んでみないとわからなかったのでとても面白い。まるで別の国。文化が違う。車という空間がこんなに私的な空間だと思っていなかった。爆音で好きな曲をかけて熱唱してても誰も構いやしない。フロントガラスの後ろをギリギリまでぬいぐるみで埋めたっていい。車の底が光ろうが低音が漏れようが居心地の良い家の延長なのだ。そして、アクセルを踏めばもれなく移動という快楽を享受できる。身体拡張と称されることも多いけれど、移動の自由を担保する巨大ガジェットとも言えるだろう。すごいぞ車。ありがとうHonda。大好きだぜN-BOX。

車なんてなくても生きていける、車というものがなんで売れているのかわからない、という昔の私のような人は、一度だけでも車社会に住んでみることをおすすめしたい。どこまでも続く、心地よい、自分の空間が待ち受けているはずだ。

サポートされたら、おいしいお菓子を買ってさらにしあわせになっちゃうな〜