摂食障害の発信と支援。無力という力。
摂食障害について発信して6年目になる。
ずいぶんと長い月日が経って、たくさんの人たちと色んな景色を見てきた。「これで生きていこう」と思った日もあれば、「もうやめよう」と思ったことだって何度もある。あれだけ生きる根気を全て摂食障害に注いでいた私が、今の「私のライフスタイルや生きづらさを言葉にすることで誰かのヒントになれるといいね」「そうやって集まった人が訪れられる空間を作りたいな」のようなスタイルになった経緯もそれなりにあるわけで、そういったことを今日は書いてみようと思う。
いつかは摂食障害の発信をしたいな。支援側に立ってみたいな、という人に届くとうれしいです。
摂食障害を卒業した人生
私が発信活動を始めたのは2018年の頃。摂食障害は寛解という状態になっていたので、何食わぬ顔で就職活動をしてもちろん何も言わず会社に入った。いっちょまえに内定式で代表挨拶もした。毎日忙しく働いてそれなりに成績もおさめてお金を稼いだ。あの地獄のような日々からは想像できないほど「普通に」私は生きるようになっていた。
そんな日常を続けていると心のどこかに違和感を持つようになる。「私は嘘をついている気がする」という漠然とした罪悪感に襲われていたのだ。普通に働いて普通に食べて普通に寝て普通に生きてる。何食わぬ顔をして生きているこの瞬間がどれだけ特別なことか、それを知っている私が私の中にいる。あの時見たかった未来が今だとしたら、今の私がやるべきものがあるのかもしれない。直感的にそう思った。
思い立つと3秒後には動いてるタイプなので、すぐに発信の準備をした。
「私が摂食障害のときに欲しかったものになりたい。」
それが原点だった。当時欲しかったのは未来の選択肢。再発率や死亡率みたいなデータや治療センターの電話番号ではなくて、実名顔出しで信頼ができる生の声がほしかった。よし、それになろうと思った。
コンクールに出す手記を用意して、授賞式から逆算して発信のスケジュールをたてる。受賞したあとの企画や売り込みも全て計算して、その通りに動いた。予定通りコンクールでは受賞できて、その後の手記お届けキャンペーンなどもうまくいった。そうしてなんとか発信活動の初動を切り、私の発信活動は始まった。
私の発信マイルール
私が摂食障害を発信するときに気を付けていることがある。それは、「断言しないこと」。摂食障害という名前はついていても、人によって答えは様々である。「寛解しました」と言葉にすると、当然その方法を聞かれるのだけど、私は私の経験以上のことは語れない。よくSNSで「摂食障害を直す方法3選」のような投稿を目にするのだけど、私はその類のものがとても苦手である。というか害であるとすら思っている。
「断言しない」というのは、発信者として非常に弱い。人はわかりやすい答えに助けを求めるし、何事にも答えがある前提で検索ワードに言葉を入れる。そんな世の中で断言しない人間というのは、存在しない人間とほぼ同義とすら言える。
「わかりやすい」人の名前がどんどん売れていき、卑屈になったこともあった。強い言葉は影響力がある。影響力があるということは、自分の人生を変えてくれる感、のような期待がむくむくと膨れ上がる夢のようなものだと思う。私だってそういう人にすがりたくなるときがある。
おふたりトークの背景
そんなもやもやの中で始まったサービスが「#おふたりトーク」だった。
「どうやって治したか教えてください」
「つらいです。たすけてください」
「私がだめだから治らないんですか」
摂食障害を発信するうちに、たくさんのDMが届くようになった。
答えられなかった。私は医者じゃないから。カウンセラーでもないから。あなたの全てを知らないから、あなた自身にはなれないから、私は答えを提示できない。断言できない。でも、応えないこともできなかった。私も一人で辛かったから。
「辛いよね。よくこうして私と繋がってくれたよね。すぐに治すことも難しいし、私にはその力もないけど、少し先を歩んだ同士として苦しさの言語化なら手伝えるよ。そうしたら明日は少し楽になれるかな?」
そんな思いで始めたサービスだった。私には摂食障害を治すことはできない。だけど、目の前の人の心を見える形にして、摂食障害の根幹にある苦しさを少しでもほぐすことならできるかもしれない。
きっと摂食障害を持つ方が望んでいるのは、チューブを預って切り刻むことでもない。無理やり食べ物を食べさせることでもない。「あなたは一人じゃないし、一人になる必要もないんだよ」ということを体感することだと思う。うわべの「わかる、つらいよね」じゃなくて、摂食障害を知る私だから想像できる世界がある。摂食障害に直接触れるのではなくて、目の前の孤独と手を繋ぐことを大切にした。
発信者という権威性
そんなこんなで発信を数年続けていると、様々なご縁もありそれなりに活動が忙しくなった。TVに出たり、教材DVDを作ったり、講演会に出たり、摂食障害の活動家さんや他の精神疾患の活動家さんと対談をすることもあった。応援してくれる人も増えて、いわゆるファンというありがたい人たちにも恵まれた。
そこで怖くなったのが、自分の発信者としての権威性だった。私が「個人的な意見なんですけど〜〜^^」とのこのこ発言したことが、画面越しの誰かへの「答えの提示」になり得る力を持ってきた、という感覚があった。
本当ならその権威性を責任感に変えて、任せろ!!大きく業界を変えてやる!!みたいなのがヒーローと言われる人なのかもしれない。それが私にはできなかった。自分の視野で自分が作った世界を信じ切ってしまう人がいたら、それはその人の摂食障害の回復から遠ざけてしまうことになると思っているから。
摂食障害は、自分の答えに気づき(持ち)自分の人生を生きる過程に回復がある。その決定権を誰かに委ねてしまっては、いつまでも誰かの人生を生きて、摂食障害という魔物に助けられなければいけなくなる。
お節介な!!!という感じかもしれないが、私が権威性を持ってしまうことに大きな不安を感じるのは、そうした背景がある。
「支援をするな。とことん無力であれ」
家族会で講演会をする機会があり、こんな言葉を発した。
摂食障害を持つ人の周囲は、どうにか力になれないかとあの手この手を使って手助けをしようとする。「それは本人が決めて行動すべきでは」と思うようなことですら、周囲が手を差し伸べてしまっているケースがある。
摂食障害を持つ人の周囲は、とことん無力でい続けることが大切だと思う。それは決して無関心というのではなく、本人の意思と行動を信じ続けるという無力で「い続ける」行為を指している。
これは私のような発信をする立場の人にも同じことが言える。何か手を加えようとしない。自分が救えると過信しない。無力であることを認めながら居続ける。言葉でいうと簡単だけどとても難しいのだ。だって支援することで救われたいと思う人がたくさんいるから。
そんな無力ばかりじゃ現状が良くならないじゃないか!!!!という意見もあると思う。なので、これもあくまで私の視野で見えた私の答えであり、自衛でもある。
「他人の摂食障害を変えられる」などと思い始めたら、それはもう発信者としても支援者としても機能していないのだと私は思う。
答えじゃなく選択肢を
答えじゃなく選択肢が増える発信者が増えるといいな、とつくづく思う。そして情報を受け取る側も、発信を「選択肢(可能性)」として受け取る力をつけなければいけない。
誰かの答えが自分の答えになり続けているうちは、摂食障害からは抜け出せない。誰かが提示してくれた選択肢をヒントに、自分の答えに気づいたり築いたりしていかなくてはいけない。
そういうやわらかい発信者が増えたらいいな〜と私は思いながらTwitterを眺めています。私の経験談が、誰かの何かの参考になればうれしいです。
おまけ
私もやんわり活動は続けているので、このnoteを読んで相談してみたいなぁという人がいたら「おふたりトーク希望!」と連絡してください。これから活動したいけど話聞いて〜という相談もOKです。
(プロフからリンク消しちゃったのでDMでどうぞ)
来週もそれなりに生きましょうね。☺️
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