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一年前の大量服薬を振り返って。

去年のまだ半袖を着ていた頃、大量の薬を口に入れた。つまりODだ。これは単なる記録ではなく、実体験をもとにした私からの強いメッセージ

コロナウィルスがいよいよやばいという情勢の中、仕事の疲れがたまり、芸能人の訃報が続き、長い梅雨が明けた頃だったと思う。体調を壊すには充分すぎる条件が揃っていて、私は在宅ワークをいいことに鬱々とソファーと一体化しながらキーボードを叩いていた。

そんなある日、とある人が亡くなった。自殺だった。テレビのニュース以外で自殺のことを聞かされるのは初めてだった。遠い関係の方だったので、自分の中でうまく処理をしてしまおうと動悸する胸をなでていた矢先だった。亡くなった方のお父さんから電話がかかってきたのだ。

「最後まで連絡を取っていたのが竹口さんなんです。支えだったのだと思います。ありがとうございます。」

電話越しに聞こえる声は震えていた。そして、最後に私とどんな話をしたのか、どんな様子だったのかを知りたいと仰った。私は思い出せる限りの話を、そしてそのときの温度を彼に伝えようとする。もうこの世にはない温度を再現したくなってしまったのだ。彼はまた震えて、そして声を詰まらせた。顔も知らない彼の表情が浮かんだ気がした。しばらく黙って、そして電話を切った。

私はその瞬間、その死の責任を抱えてしまったのだと思う。どうしようもなかった。私にできることなんてなかった。あったとしても死を防ぐことはできなかった。そう考えても、自分が最後だなんて知らされたら、自分の無力さに、人の命の儚さに絶望するほかなかった。それ以外の選択肢が思い浮かばなかった。今振り返ると改めて思う、人の人生は変えられない

それからというもの、私はとどめを刺されたように自分の心身が壊れる様にただ従うだけの日々を送った。


朝起きると社内チャットに出勤報告を打つ。今日こそはと思いながらも、水を飲んで歯を磨いて着替えた頃には、頭の中が波打っていた。毎日が富士急ハイランドのジェットコースターのように。


受信ボックスにたまるメール、1通を読むのに数分間かかる。目で追うとどこを読んでいるか分からなくなり、指を添えて読むようになった。それでも頭に内容が入ってこなくなった。次々とポップアップで表示されるチャットに嫌気がさすようになった。


数時間するとコンセントが抜かれたように、パソコンを持ったままベッドに倒れ込む。居眠りというより、気絶といったほうが近いかもしれない。
何とかその日の仕事を終えるも、終えた頃には漠然とした恐怖の波が私の全身を覆い尽くしていた。そこから夜中の3時まで訳の分からない涙が止まらなくなった。その頃の記憶は今でもほとんどない。

お酒はあまり飲まない人間だったのに、お酒がないとご飯が食べられないようになっていた。大切な人ほど怖く見えた。他人に近い人ほど、今の自分に合っている気がした。楽だった。

病院に行くと「人格障害です」と言われた。せめてパーソナリティ障害だと言ってほしかったなぁ、と感じた。人格障害という言葉は重い


「限界です、仕事休みたいです」
「あなたは人格の問題だから仕事は続けなさい」

睡眠薬と抗不安薬をマックス量出された。もうその頃には自分が自分で分からなくなっていて、「あぁ、私がおかしいから私が頑張らなきゃいけないんだな」くらいにしか思えなかった気がする。そう、私はおかしくなっていた。

マックス量の抗不安薬を服用して1ヶ月、何も様子は変わらず、むしろ悪化の一途を辿っていた。会社には週18時間勤務に調整してもらうも、それすらギリギリの状態だった。この頃の記憶はほとんど飛んでいて、ここにまとめて文章にできるほどのもんじゃない。

と思ったら当時の日記(?)が出てきたので数枚貼ってみる。

字面もエグい。まさにこんな感じの日常だった。

さすがにここまで悪化するのは人生初めてで、ようやく治療内容に違和感を抱いた。病院の帰り、近くのメンタルクリニックに電話をかけてセカンドオピニオンを受けることにした。

診断名は変わらなかった。


「主治医の診断に相違ないと思いますよ」
「そうですか」
「他に気になることは」
「休みたいんです。もう限界で」
「確かにしんどいと思うけど、パーソナリティ障害の人にとって社会との接点は大事だから、ね」

無機質な病室をあとにした。まだ頑張らなければいけないらしい。もう終わったと思った。終わらせたいと思った。

今思えば、間違った処方(あとで書きます)でここまで悪化した状態で受診すると、誤診があってもおかしくない。あくまで医者は、今目の前にいる私を見てしか判断できないのだ。それにパーソナリティ障害の人が社会との接点が必要なのもわかる。だけど、業務が遂行できていない事実も加味してほしかった。精神科って難しい。

そんなこんなで、その「終わらせたい日」が来るのにそこまでの日数は要さなかった。数日間だけ人生を休ませてほしいと思った。死にたい訳じゃなかった。その日は旦那の帰りが遅いと聞いて、乗っている電車の中からソワソワした。念の為に大切な人の連絡先は全て消しておいた。携帯をサイレントモードにした。

携帯で「OD 致死量」と調べて、それに至らない量を計算する。本当に数日間だけ逃げさせてほしいだけだった。その選択肢がその頃の私にとっては大量服薬しか思い浮かばなかった。もちろん今までその行為に及んだことはない。知らない世界だと思っていたのに、その時はまるでその世界しか知らないようだった。

次の日、私は猛烈な頭痛と吐き気で目が覚める。いつも起きるより早い時刻だった。視界が湾曲して、更に吐き気が強まった。眠っているはずの時間に起きてしまった私は半ばパニックになり、インスタに出てきた洋服の通販サイトで服を爆買いした。それほど何をしていいか分からなかった。

近くの川沿いを歩く。何で起きてしまったんだろうなぁ。なんで休めなかったんだろうなぁ。馬鹿だなぁ。疲れたなぁ。そんなことを思いながら、少し潮の匂いがする川を、足を引きずって歩いていた。

少しするとLINE が鳴り「どこ?」と表示された。「川」「たすけて」とだけ送った。家族にSOSを出すのはいつぶりだろうと思った。数ヶ月前には大切な人への頼り方がわからなくなっていたもんだから。橋の上から川を見下ろしていると、遠くから人が走ってくるのが見えた。

気づいたら病院にいた。
「死にたかったの?」
「死にたくはないです。逃げたくて」
「もうやらないって約束して、本当に死ぬから」
「私まだ働くんですか?」
「社会がどうこうって病じゃないから」
「…」
「つらい?」
「…ッ」
先生は奥にあるティッシュを取って渡してくれた。それでも休職許可は出してくれなかった。

結局、休職許可を出してくれたのは会社の産業医だった。おそらく特例だと思う。特例ということもあって休職までに1ヶ月かかり、それまでは死んだ心身で働いた。それもまた地獄かと思ったけど、会社には本当に命拾いをさせてもらった。

その先生は、私のエピソードを聞くなり「パーソナリティ障害じゃないね」と諭し、休職と転院を勧めるよう言ってくれた。本来なら産業医の職域を超えるだろうけど、と前置きするなり「双極性障害とADHDだと思うから、このエピソードを次の先生のところではしっかり伝えて」と過眠過活動のエピソードを指した。

それから気づいたら実家のある兵庫に引っ越していて、それに伴って転院もした。「ここではっきりとは断定しないけど、双極とADHDの方向で治療を進めるね」と新しい先生は言った。薬がガラッと変わった。その頃には自力で1〜2時間ほどしか活動できないほどに身体が衰弱していた。

双極性障害の鬱期は過眠になる人が多いらしい。しばらくは毎日10時間以上寝続ける日が続いた。起きると何かに怯えて泣いていた。家の周りを散歩して、写ルンですで空を撮った。15分歩くだけで疲れたけど、空がきれいだなぁと思った。

その後の様子や家族との関わりはこの記事に詳しく書いてあります。家庭環境に悩みがあったり、幼少期にモヤがかかっている方はぜひ。


それから食事が食べられるようになって、適切な睡眠がとれるようになったのは、今年の明けくらいだったと思う。体重は知人の自殺前から13kg落ちていた。今は随分と元に戻ってきたよ。

マックス量飲んでいた抗不安薬は徐々にゼロへ近づいた。今は双極性障害とADHDの薬で生きさせてもらってる。自分のクセみたいなものもだいぶ分かってきた。薬が効いていることで、自分はこの障害なんだな〜と実感することがよくあるな。とはいえ、障害を持っていることで気分が落ち込んだり、「早く治さなきゃ!」と焦りに駆られることはない。

私は双極性障害とADHDのことを「血液型?Oだけど」くらいにしか思っていない。周りには言うほどのことでもないから言わないだけで、必要になったら言うよ〜くらいでいる。薬を飲むのはめんどくさいけど、自分が生きやすくなるなら増薬だってありだと思う。(そういえば、こないだ先生に増やそうぜ!って言ったらとめられた)

それよりも、幸運にも良いお医者さんにたどり着けたり(1年で4人まわった!)、1年前にどうしようもなくなった自分が少しずつ動けるようになったり、人に弱音吐きながら毎日なんとか生きれてたり、こうやって責任持って続けたい活動があるって、とても大切にしたいことだと思う。

これを読んでどうって話だけど、私も摂食障害の病歴はあれど自分がこんな壮絶な約半年を過ごすとは思っていなかった。ODが自分ごとになって、休職が自分ごとになって、自立支援が自分ごとになると思ってもみなかった。自分ごとだと思ってくださいとは言わないけど、特別なことだと思ってほしくなくてこれを書いている節がある。


誰だってそのトキが来れば起きるかもしれないことなのだ。私も摂食障害が治った頃は、やっと解放されたぜ〜!なんて思ってた。けど人生は続くんだよ。その中でたまたま不運に合ったり、過去の膿が滲み出てくることがある。人生はつくづくむずい。


そして、目の前の答えは決して100%正しい訳じゃないということを忘れずに、自分で自分を生きることを諦めないでいようと思える人がいると嬉しい。


精神疾患になったからって終わりじゃないし、もしそう言う人がいてもそれはその人の意見でしかない。あなたの答えじゃない。治療がうまくいってないなら他に答えがあるかもしれない。常に今以外の可能性があることを、忘れないでいてほしいなと思う。

それにしても精神科選びは難関なので、大悪化する前にうまく付き合える先生と出会う旅をすることをおすすめします。

双極性障害とADHDを罹患しながら、摂食障害の活動を続けることに「?」な人もいるかもだけど、きっと摂食障害にそれだけの思い入れがあるんだと思う。それに、摂食障害は寛解5年も経って客観視できたり、ある程度の知識もあるから責任を持てる。そういった面では双極性障害とADHDではピアとして不十分な気がするのだな。

そんなこんなで、いつかは表にしたかった私の壮絶な1年前の出来事でした。今はちょっと上がったりちょっと下がったりもしながら生きてます。


最後ですけど。こうしてどんな状態の私でも帰ってこれる場所を作ってくれているのは皆さんだなぁと。大袈裟でなく、この場所があるからこの1年間私は生きられました。いつも支えてくれて見守ってくれてありがとうございます。


これからも言葉や行動で私なりに皆さんへ恩返ししていけたらと思います。どうかよろしくね🌱


(文中のセリフはあくまでイチ当事者、イチ医者の意見です。また人物を特定しないよう一部内容を変えている部分があります。)


生きてやるか!


💜💛

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竹口和香(たけぐちわか)

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