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孤独に結論なんていらない

私は孤独だった。


私たち夫婦はとある問題を抱えながら関係を続けていた。それも年単位で。


その問題の解決法は明快ではなくて、分かりやすい解決法は残酷なもので、思わず目を背けたくなってしまう。それでも目を背けたくない問題だった。その問題すら、紛れもなく私たちを説明する要素のひとつだから。


例えば、自分が問題を抱えたときに他人に求めることは何だろう。


「聞いてよ」
「助けてよ」
「こんなことがあってね」


すぐに解決しない問題ほど誰かと共有したくなる。それは、解決法を探しているのでなくて、誰かと一緒にこの重い荷物を持ちたいからなのだと思う。この荷物を持ったまま独りにしないでよって叫びなのだと思う。


こんな重いもの持ってたんだね、って。片っぽ持つから一緒に考えよ?って。それで充分すぎるくらいの救いだ。


摂食障害のことを打ち明けたときもそうじゃなかったかな。目の前の友人に摂食障害を治してもらいたかったんじゃない。ただ、この重い荷物の存在を知ってもらいたかった。そして願わくば、少しだけ手を差し伸べてほしかった。独りぼっちから救ってほしかった。


問題を抱える煩わしさを、分かち合いたかった。

私は無力なあたたかさに飢えているのかもしれない。ハウツーがびっちり書かれた本なんて見飽きた。誰かが得意げに話すそのアドバイスは何度も考えた上で、私は悩んでいる。ほしいのは結論ではなく、過程なのだ。

9月は久しぶりに体調を崩した。過去と現在を繋ぐカウンセリングで、その重さに耐えられなくなったのだ。自分の人生が重くて、この重い人生の延長線上になんて生きていたくない。死ぬまで自分と一緒にいるなんて、耐えられるわけがないと思った。

母の前で瞼を腫らして泣いた。

「毎日起きたら絶望する」
「毎日1日が長くてキツイ」
「死にたくないけど生きてたくない」

母は決まって1日の終わりに「今日も頑張ったね」と言った。

「今のわかちゃんにとっては、1日を生きるのがとってもしんどくて長いものなんだよね」

母の前では安心して泣けると思った。「死ぬなんて言わないで」とか「生きてほしい」みたいな言葉は、このときの私には暴力でしかなくて、私を生かせる言葉にはならない。

点と点で存在していた過去が線になったとき、自分が負の産物だと泣いた。私には耐えられる重さじゃなかった。自分の過去が、人生が、重くて仕方なかった。いっそ私ごと手放してしまいたくなった。

大切な人に話した。この人なら否定はされないんじゃないか、と思った。完全に直感だけど。

すると、こんな言葉をもらった。

「その時の最善策で頑張って生きてたんだと思うよ。だから少なくとも私は負の産物だなんて思わない。」

問題は解決しなかった。だけど、自分を沼の底から掬い上げてもらった気持ちになったのだ。少しだけ自分を許してもいいのかな、って思えたりしたんだ。

人生っていつだって難しい。もっと普通のことを普通にできて普通に笑ってる人生どこ?って思うときがある。普通が何を指すかもわかんないのに。

悩みがない瞬間なんてなくて、頭の中は常に何か問題が住み着いていて、その問題は私の日常すら攻撃してくるから面倒くさい。

そんなときに必要なのが、結論じゃなくて過程を共有できる人なんだと思う。問題を問題だね、って言える人。重い荷物を重いね、って言い合える人。人はひとりで生きていくには力が足りない。だから楽しいときだけじゃなくて、つらいときにもその気持ちを共有できる人がほしい。

私も誰かのそういう存在でありたいし、私もそんな人に支えられてこれからもやってくるであろう問題に涙しながら立ち向かってやりたい。

今日もみんなと私、おつかれさま。
世知辛いけど明日も生きようね。


💚💛


竹口和香(たけぐちわか)

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