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サスペンダーの先輩

26歳。
この年齢は、私にとって大きな意味をもつ。

上京。転職。ひとり暮らし。
たくさんの「初めて」を前に、楽しみより不安が募った。

家賃も高く物価も高い東京で、手取り20万円にもならない月給で生きていけるだろうか。
浮気性だった当時の婚約者との遠距離恋愛は終わるが、ずっと一緒にいられるだろうか。
新しい職場でうまくやっていけるだろうか。

結果としてすべて「No」だったので私の心配は的を得ていた。

そして大阪で務めていた企業では、部長は「東京に転勤したいんです」と私が言ってすぐに、その準備を始めてくれたのに、私は当時秘書をしていた企業の役員の紹介でほかの会社に勤めることになった。
東京支社では契約社員で、新しい企業では正社員の扱いだったのが理由だ。

部長は自分より上の役職の役員に、もちろん何も言えない。
「若林さんは同期でいちばん優秀だね」と大きな誤解をしていた部長が会議室に呼び出し、「若林さんに裏切られるなんて」と声を荒げた。

同期の女性たちは「理央ちゃん、父親が誰かわからない子を妊娠してるらしいよ」と噂をして、「私、嫌われてたんだなあ」とあらためて思った。
友情より恋愛を優先していた20代半ばまでのツケがきたのだ。
噂に関わっていないひとりと、そういった噂が広まっていると教えてくれたひとり、合計ふたりしか、同期の友だちはいなくなった。

部署では送別会が開かれた。

私の考えは時代遅れだと当時も思っていたが、その企業で働いた日々を今も夢のように思い返せる。
月曜日が待ち遠しくなるほど同僚に恵まれていて、不定期に行われる飲み会も楽しみのひとつだった。

その飲み会も最後だ。
とても寂しいのに、20代の私は、なかなか泣けない性格だった。
今なら映画『タイタニック』でヒロインのローラが、沈没しそうな船の中で鎖につながれたジャックを救うため、思い切って斧を大きく振る場面でなぜか泣くのに。

ただ私の指導役だった男性の先輩が泣くのを見て「もう会えないんだ」と実感した。
その先輩はとてもやさしく、ほかの仕事でどんなに忙しい時も、新米秘書だった私を助けてくれた。

職場でなくても、大阪に帰省した時、飲み会をすればまた……と期待がよぎったが、その後、いちばんお世話になったその先輩とは会えないまま10年の時が過ぎ、連絡先もわからなくなった。

先輩は男性で家族がいたので、だいぶ年下の私と飲み会では一定の距離をとっていたが、いまだにあんなにお世話になった先輩はいないな、と感じる。

飲み会の最中、いつもサスペンダーをしていて変人扱いされている先輩が、奥さんと離婚をした話になった。
酔ったサスペンダーの先輩は、誰も質問していないのに離婚の経緯を話し始めた。
自分が帰宅した時、寝室で妻と男が……と話し始め、ほかの同僚が「やめてください!」と急いで止めた。

当時はまだ、婚約破棄も結婚も離婚も経験したことがない私は、世の中にはそういうドラマのようなことがあるんだなと他人事のように受け止めた。

二次会に行くことになり、私の指導役だった先輩は帰った。
離婚したばかりのサスペンダーの先輩は二次会に残り、私の隣にすわっていた。

このサスペンダーの先輩とも、二度と会うことがなくなる。
若い私は、「みんな、また会えて、こうして飲み会ができるだろう」と楽観的だった。
人生の変化をちょっとしか感じたことのない、精神年齢の低い26歳だったなと今も思う。

サスペンダーの先輩にビールをついでいると、先輩は満面の笑顔で言った。

「大丈夫。若林さんはどこに行っても何をしても幸せになれる」

おどろいた。
サスペンダーの先輩はいつもやさしかったが、まさかそんな言葉をくれるなんて思っていなかったからだ。

「これから辛いことがあるかもしれない。でも幸せになれるから」

「幸せ」をたくさん繰り返すサスペンダーの先輩を見て、同期の男性が「大丈夫?」とささやいた。

大丈夫。たしかに大丈夫だった。
私は何があっても人生の波を超えていける。
だってサスペンダーの先輩が、そう言ってくれたから。

別れ際も「幸せになれる」と満面の笑顔で言ってくれた。

20代後半の始まりに、私は上京した。
1年後、当時の婚約者の浮気が原因で婚約を破棄する。
その1年後、2社目の企業で同僚だった男性と結婚する。
同じ年、2社目の企業で鬱を発症する。
1年後……もう自分がいくつだったか、覚えていない。

29歳だった。前の夫の両親との不和が原因で、離婚騒ぎになったのだ。
鬱が完全に治っていない私は髪を自分で切って、精神科の薬を飲んだ。
同じ大阪出身の夫が実家に戻ったと聞いて、離婚話が終わっていないのにとあわてて新幹線で追いかけて義実家に行くと、実母もいた。

「旦那さんがケガをしたよ」

驚いて母の車に乗った。ところが病院に着いても夫の姿は見えず、私は診察室に呼ばれて、そのまま精神病棟に閉じ込められる。
ケータイもペンも、持ち物はすべて自傷の可能性があると言われて取り上げられた。
2日個室で過ごしたあと、共同生活ができると判断されて、私は共有スペースと複数の6人部屋がある病棟に連れて行かれた。

大人数になったとはいえ、ここも隔離病棟である。
私は早く退院したい一心で、もぐもぐと食事を完食し、毎日お風呂に入った。
病棟は同年代も多く、仲良くなった人たちは「こんな普通の理央さんがどうして入院を……」と疑問を抱いていた。

私は医療保護入院、つまり強制入院の扱いで、前の夫は一度も見舞いに来てくれなかった。

後で聞いたところによると、彼は自分の両親、つまり義両親にお見舞いをすることを止められていたそうである。

「旦那さんの許可があれば、こちらはもう退院が可能なんですが、連絡がとれないんです」

入院して二週間、元気で気持ちに波もない私を見て、主治医は退院させたがっていた。しかし当時の夫の同意がなければ無理だ。
主治医も私も困惑していた。

「電話をたくさんかけているんですが、繋がらなくて」

これも後日聞いたことだが、前の夫は、これまた両親=私の義両親から病院からの電話に出るな、出るときは離婚届を用意しろと言われていた。

ケータイは取り上げられたまま、パソコンもペンもないので書くこともできない。
私たち患者はよく泣いた。
今でも思う。
なぜ医師の許可があれば退院させてくれてもいいのに、と。
医療保護入院は、医師と保護者、両方の許可がないと出られない。

出たい。
また仕事がしたい。

泣きながらベッドに横たわると、病棟の友人たちが何も言わず、彼らがお見舞いにもらったお菓子をくれた。
彼らもよく泣いていた。
みんな、いつ出れるんだろう、早く出たいと言い、出たあとのことをみんなで話した。

「仕事をしたい」
「子どもに会いたい」
「就職したい」

2カ月経った。
その2カ月で私は務めていた日本語学校を、戻ってこないのを理由にクビになり、退院するまでフリーライターの仕事も激減した。

主治医は根気強く私の前の夫に電話してくれた。
そしてようやく前の夫が電話に出た時、主治医は怒鳴ってくれたという。

「奥さんのこと、どうでもいいんですか」

前の夫は、どうでもよかったのだろう。
彼は自分の親のほうが大切だったのだと痛感した。

そこでやっと退院許可がおり、私はひさびさに外の世界に出た。

仕事を再開してからがまた大変だったのだが、今回のテーマとぶれるので割愛する。
離婚が決まって、親は「大阪にいるより東京にいたほうが自立できるよ。もう心の病気は治ったでしょ」と言って、私は再び新幹線に乗った。

治ってなんかいない。
精神科の入院は、患者の自殺を食い止めるためにあるという。

最悪なことに他の科の医師だった両親は、精神医療に詳しくなく、「退院してすぐのひとり暮らしは避けてください」と言っていた私の主治医の意見をしりぞけた。

「あの精神科医は私たちより若くて未熟だから、経験不足からそんなことを言う」
両親はそんな言葉を口にした。

東京に向かう新幹線に乗りながら私は、初めての上京前の送別会で、「絶対幸せになれるよ」と言ってくれたサスペンダーの先輩のことを思い出した。

「幸せになんか、なれへんやん」

苦笑しながらつぶやいた。一方でそのサスペンダーの先輩も離婚経験があることを思い出した。

「いつか幸せになれるのかな」

その後、私は安いシェアハウスに住み、なんとか生き延びて、そこで今の夫と出会った。
毎日好きな人といっしょの暮らしは久々で、彼は私の気持ちや過去も受け止めてくれた。

やがて結婚をして、数年経った今、その夫はシンガポールに単身赴任をしている。
朝や夜、休日はビデオ通話でつないで、いっしょに作業をしたり話したりした。

私には、まだ叶えていない夢がたくさんある。
だけど、前の夫と離婚した時の絶望は消え、再婚後は、何度も心が明るく照らされていく気持ちになった。

「いつか幸せになれるよ」

幸せのかたちは、人によって違う。
だけど私は、朝起きて、「おはよう」と夫にLINEする日々を当たり前のように受け止めていない。
これは当然のことではないからだ。
離婚したからこそ、私はひとつひとつの幸せを、見逃さないように心がけるようになった。

頭の中にサスペンダーの先輩が浮かぶ。
あの時と同じ表情でニコニコしていた。

「まだしたいことや、夢もたくさんありますけど」
前置きをしてから、私は頭の中のサスペンダーの先輩と向き合う。
「先輩の言っていた幸せって、これだったんですね」

かならずいつか、幸せになれる。

先輩のあの言葉に嘘はなかった。
そして私は、苦しい時、いつもサスペンダーの先輩の言葉を蘇らせていたことを、最近になって思い出した。

苦しい時は自分の悩みに夢中で、何に慰められていたかは後になって気づくもののかもしれない。

やさしいサスペンダーの先輩へ。
「いつか幸せになれる」
あの日から10年以上経ちましたけど、幸せに、なれました。
ありがとうございました。

また、サスペンダーの先輩に会いたい。
そしてもし先輩が何かに悩んでいたら、こう言いたい。

「先輩は絶対に幸せになれます。そう言って私を救ってくれた人だから。
その言葉を、今度は私から先輩にプレゼントしたいです」

会えなくても、伝わっていると信じて、私は今日も「おはよう」と夫にLINEをする。



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