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カムアウト

自分の一部はマジョリティ側じゃない。

その事実を突きつけられ、自覚したのは10年ほど前だった。

務めていた会社でうつ状態になり、そのうつ状態は後に二次疾患だったとわかるのだが、私は大人になって初めて精神科の門戸を叩いた。10年前のことだ。

2012年の精神科は、通院を人に言うのがはばかられるような、敷居の高い存在だったように思う。

医師に話すと「うつ状態は診察できても、それのもととなった症状については、うちでは診断できない」と言われ、私はインターネットで調べて神奈川の果てにある小さな診療所で診断が可能だと知った。

心が重かった。自分がマイノリティだと思い知るために遠出するのは、苦痛でしかなかった。

電車を乗り継ぎながら「一回で終わるから」と自分に言い聞かせる。

なぜかそう思い込んでいた私は、神奈川の果てで落胆した。

「成人している方ですので、診断が出るまで…そうですね、1年はかかると思ってください」

1年も通えないととっさに思ったが、それは診断を受けたくないという気持ちの表れでもあった。

自分がADHDかもしれないと感じたのはなぜか。

記憶の中で、さらに時をさかのぼる。

子どものころから不器用で、小学一年生でクラスでひとりだけ押し花に失敗したことや、書道教室で白い服を墨で真っ黒にして帰ったこと、高校時代の手芸の課題で最後まで終わらせることができず友人に手伝ってもらったことなどが次々に思い出せる。

大学生のころの、書店のレジでの打ち間違いは日常茶飯事で、社員や先輩のバイト仲間から呆れられていた。

反対に書くことや歌うことなど、芸術的な分野では人に褒められることが多く、最初の会社に入社して三年半務めた秘書業務では、高いコミュニケーション能力も体得した。

多くのADHDの人が苦手だと言われる、スケジュール管理も得意だった。

それで自信を得た私は、次に務めた会社でも企業受付の仕事は難なくこなし、同時に与えられた社内広報誌の作成でも上司や先輩から褒められた。

だが、その企業では受付に付随して、エクセルを見て数字に関する処理を行う業務や、使用後の会議室や応接室を整える総務の仕事もしなければならなかった。

私は会議室に並べられた机と椅子が、しっかりと整えられているかわからなかった。

帰る前に、最低三回は会議室に行き、整理整頓をしたり、机やいすが乱れていないか確認したりした。

どんなに確認しても、翌朝になると決まって会議室に連れて行かれ、先輩が私をにらんだ。

「乱れているのにわからない?」

「実はチェックしていないでしょ」

「努力が足りないよ」

そうか、普通の人はもっともっと努力して確認して、会議室を整った状態にするんだ。

たかが会議室の整頓で、と思われるだろうし、実際に心を病んだあと私も周囲から言われた。

だがそれをきっかけに、「努力してもなぜかできないことがある」という私の幼少期からのコンプレックスがよみがえった。

もっと会議室をチェックする回数を増やした。

しかし翌朝に先輩に叱られて「見てないでしょ」と言われる日常は変わらず、二年も経つと先輩がどんどんと自分に対して落胆を隠しきれなくなっているのがわかり、務め始めたころのように休憩時間に先輩と雑談をすることもなくなった。

「あなたは受付とか接客とか、広報誌の文章はうまいのにね。こういうことはできないんだね」

先輩が言う。

私のいいところもしっかりと見てくれるやさしい先輩を落胆させてしまう自分に、ますます嫌気がさした。

ある日、先輩は言った。

「広報や接客の仕事ができる職場のほうが向いてるんじゃない?」

泣きだしそうになるとトイレに駆け込んでいたのだが、その言葉を聞いた瞬間に頭が真っ白になり、衝撃が脳内にすばやくいきわたった。数分後、私はトイレに駆け込む余裕もなく、凍り付いたように受付にあるデスクに座り、職場で涙を流し続けた。

「泣けば済むと思うなんて」

そんなつもりはなかったのだが、同僚からすればそう受け取っても仕方のない事態だ。

先輩は、もうこの子には何もしてやれない、と冷めた目で私を見た。

これ以上、迷惑をかけられない。

2011年の東日本大震災のとき、先輩と力を合わせて、会社の中に電車が止まって帰れない社員が泊まれる環境を作ったり、先輩が休み時間に私が趣味で研究をしているヒグマの話を興味深く聞いてくれたりしたのを思い出し、もうあの関係性には戻れないと思った。

そこで深く反省をしたはずなのに、次の日から、私はベッドから起き上がれなくなった。

大阪に住む実家の母はフルタイムの仕事をしていたが、週末、急いで私のところに来てくれて、なんとか私を起き上がらせ、予約してくれた精神科に連れて行った。

精神科医は詳しく私と母の話を聞いてから、「この状態なら、会社を休まないといけませんね」と診断書を書いた。

ADHDの可能性を指摘されたのはそのときで、「うちでは診断できない」と言われたのを覚えている。

大人の発達障害に関する精神科医の考え方はそれぞれ異なっており、成人してから自分がそうかもしれないと言葉にする人も、2012年はまだ少なかった。

その会社はしばらく休職してから退職することになるのだが、休職中に大人のADHDの診断ができる神奈川のクリニックに行ったしだいである。

見た目も変わらず、高校でも大学でも成績優秀なほうだったし、書くことや歌うことに関しては周囲から絶賛された。

そんな私が、診断を受けると「ADHD」、つまり「発達障害の人」になる。

障害者になることが怖いと感じるのは偏見だと今の私なら考えるが、当時はそれがどんなことよりも怖かった。

結局、診断を受けないまま、「すぐに働いて、社会の役に立たないと」と私は次の仕事について考え始めた。

退職した日に資格について調べ、そのまま申し込みをし、退職した日の翌月から、外国人に日本語を教える日本語教師の資格をとるための養成講座に通い始めた。

養成講座に通っているあいだに、前の会社の他部署の同僚からプロポーズをされて一度目の結婚をした。彼が前の夫である。

日本語教師は激務で生計を立てられるほどの収入も得られないうえに、新人だった私は週1の授業のために残りの週6日をすべて準備に費やした。

それでも、前の会社のように教室が整頓されているか念を入れて確認する必要はなく、残業代が出ないため、数字が関わる添削作業に時間をかけても何も言われなかった。

一方で、夫の両親とのいざこざがあり、結婚式を挙げてからすぐに、離婚の話をするようになっていた。

再びうつ状態になった私は、「あなたの夫が突然の事故で病院にいる」と夫の両親、そして私の両親に言われ、あわてて病院に行くと、そこは入院ができる精神科病棟だった。

精神科病棟へ本人の意志を確認せず入院させる、いわゆる強制入院は、正確には医療保護入院と呼ばれる。

隔離病棟に入れられ、「私の日本語教師の仕事は?次の期のシフトがもう決まっているのに」「ケータイも所持品もぜんぶ取り上げられるこの病棟で、ずっと過ごさなあかんの?」とパニックになる私の手を夫は握った。

彼はとても繊細でやさしい心を持った人だった。

「しっかりと治そう。それからのことは、退院してからいっしょに考えよう」

その後、退院の日まで、夫がお見舞いに来ることはなかった。

「仕事をしたい。せっかく向いていると思ったのに」と泣くと、私の母は「仕事と結婚、どっちが大切なん」と言った。

前の仕事でうつになって退職したから、そう言われるのだろうか。

せっかく自信を失わないで済んだ職を見つけたのに。うつで前の会社を辞めた自分にとって、そんな職はもう見つかるかわからないのに。

その気持ちを伝えたが、夫にも母にも届かなかった。

入院した後は、なぜか症状が出なくなった。

冷静に周囲を見ると、同じ20代も多く、すぐにいろいろな人と話すようになった。

みんな、抱えているこころの苦しみはさまざまだった。

統合失調症、双極性障害、愛着障害、私よりずっと重いうつ…

オーバードーズや自殺未遂で救急搬送された人たちもいた。

傷害事件を起こして行政が強制的に精神病棟に入院させた、いわゆる「措置入院」の人も。

もしかすると、大人の発達障害だった人もいたのかもしれないが、当時は認知度が広がっていなかったので自らの抱えたものを「発達障害だ」と言う人はいなかった。

すぐに同年代だけではなく、もっと年上の人や高校生の子たちとも仲良くなった。

「次はどんな人が来るんかな。仲良くなりたい」

家族みんながうつで、違う病棟にいると話すある高校生の女の子は、心を弾ませてそう言った。

だが、よく話すようになった全員が、毎日のように口をそろえていった。

「はやくここを出たい」

シングルマザーで子どもと引き離された22歳の女性。

目の前で父が首を吊り、直後に母が失踪した20歳の男性。

面会のときに「なあ、もう死んだほうがええよ」と実の両親に言われた18歳の女性。

知らないうちに周囲のものをすべて壊してしまい、入院になった45歳の女性。

みんな、とても繊細で、人のこころに敏感だった。

「症状が出ないのに退院させないなんてひどいね」

45歳の女性は、私にそう言ってくれた。

医療保護入院は、保護者、つまり私にとっては夫の許可がないと退院できない。

入院した病院の主治医は、二週間ほどで「まったく症状が出ないし、退院を考えてもいいかもしれませんね」と言ったが、主治医がいくら電話をかけても、夫は出なかった。

その間、世の中では大人の発達障害ブームが起きていた。

「大人になってから気づく発達障害って?」という問いの答えを導くような書籍が続々と出版された。

だが、入院していた人たちの中で自らを「発達障害だ」と言う人はいなかった。

二か月後、ようやく夫と主治医の連絡がとれて、主治医は「奥さんが大変なときなのに」と夫に強く言ってくれたらしい。

夫は夫で、夫の両親から「理央さんとはもう連絡するな」と言われ、私のいない人生のほうが楽だと確信するようになっていた。

ようやく許可がおりて退院できた私は、ほどなく離婚して、縁あってライターの仕事を始めた。

生活はできたのだが、独身でフリーランスという立場に不安があり、イベントコンパニオンとして事務所に所属もした。

展示会でワンピースを着て客寄せをしたり、バイクの横に立ってモデルのように撮影されたりするのも、接客や目立つことが好きな私に向いていた。

数字に関することや、整理整頓はまったく求められなかった。

しばらくして前の勤務先と異なる日本語学校で教師として復職し、「自分は仕事ができない」という思い込みはじょじょになくなった。

住んでいたシェアハウスで知り合った会社員の男性と再婚もして、友人の中には「好きな仕事をして、好きな人と結ばれて、やっと幸せになれたね」と言ってくれる人もいた。

そのとおり、私は幸せだった。

ただ、うつで会社を退職して以来、自分の心が以前より弱くなっているのは常に感じていた。

みっつの仕事を掛け持ちしていると、自分の心の疲れに気づかない。

子どものころから悩まされていた睡眠障害はよりひどくなり、以前勤めた会社でうつになったとき初めて行った精神科に再び通い出す。

精神医療も変わっていた。

大人の発達障害ブームによって、どんどんと大人の発達障害を診断できる病院が増えていた。

私がADHDだとしたら。

心が弱くなった理由は、ADHDによって「自分は社会の役に立てない」と感じ心を病んだことにある。

私がADHDだとしたら。

入院する必要はなかったのかもしれない。

SNSでは、「グレーゾーン」とか「自分は発達障害気味」という未診断の人たちの言葉も目にしたが、私は診断を受けようと決めた。

自らマジョリティからマイノリティになること。

それの何がいけないのだろうか。

何が、私にマジョリティでなければならないと思い込ませていたのだろうか。

主治医に相談をすると、10年前、「診断できない」と答えた主治医は、私と夫にチェックシートをくれて、書いて提出すると数値を表で示した。

「ほぼ間違いなくADHDだね。少量からになるけど、コンサータ(2013年から大人にも処方できるようになった、ADHDの症状を改善する薬)を出せるよ」

10年前の私は、その瞬間、珍しくない人間になった。

うつも、努力が足りないからだと先輩に言われたことも、何もかも。

ADHDの二次疾患だったとわかっていく。

心のもやは晴れない。傷ついたぶんだけ強くなれるなんてうそだ。

傷ついたぶんだけ、私は弱くなり、消えてなくなりそうな自尊心しか残らない。

でも、その原因が明らかになったとき、すっと心は軽くなった。

コンサータはお金がかかるので、保険料が3割負担から1割負担になる自立支援医療を勧められ、区役所の窓口に行くと「手帳の申請はしないんですよね?」と聞かれた。

10年前の私なら「しない」と答えただろう。

だが私は「したいです」と即答していた。

区役所の職員は申し訳なさそうに「自立支援医療と手帳申請が同時なら、医師の診断書1枚で済むんですけどね、今回は同時じゃないからまた主治医に診断書をお願いすることになります」と教えてくれた。

早く決意すればよかったな。

医師に話し、診断書を再び書いてもらい、窓口で手帳の申請をしながら考えた。

きっと私は「普通の人」になりたかったのだ。

だから自分がADHDかもしれないと思っても「そこまでじゃない」「今の仕事は向いてるから大丈夫」のひとことで診断を避けてきた。

小さなころから不器用で。

数字にまつわることや整理整頓がとことん苦手で。

だけど大人の私はコミュニケーション能力に長けていて。

文章もうまくて。

プライベートでは恋愛経験も豊富で。

だから、「できないことがあるのは、努力が足りないから」と周囲に言われながら、自分自身にもそう言い聞かせていた。

言い聞かせたあげく折れたのに、根本にあったものをずっと放置していた。

私は「ADHD」。

ようやくそう言える。

交付された精神障害者手帳を見つめ、ほっと息をはく。

弱くなった自分の頼りは、大切な家族と、この手帳にあるように思った。

私は手帳をにぎりしめてバッグに入れ、自分の心を落ち着かせるために、自宅に続くふた駅分の長い道をあるいた。

傷ついたこころと、後から来る痛みは深かった。

やがて癒えるのかなんて、私自身もわからない。

だけどもう、誰にも「努力が足りない」なんて言わせない。

自分を責めない。

いま、私は今までの人生でいちばん、私なのだ。

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