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『ゴジラ-1.0』を観ると、日本人の「戦後」が終わったことがよくわかる

※ネタバレ全開です

というわけで見てきました「ゴジラ−1.0」

いや先週は講演会とかやったんだからその話しろよと言われそうですが、現在持病の消化器疾患がだいぶアカンことになっており、ハードでまじめな内容の長文テキストを書ける体調ではないんですよね。なので申し訳ないのですが軽め(?)の映画批評をとりあえず先に出させて頂こうと思います。もう11月だけで4回も検査のために通院してるんすよ。

さて「ゴジラ−1.0」ですが、本作は戦後日本の総括というテーマに加えて、シン・ゴジラのアンチテーゼというニュアンスを多分に持つ作品だと感じました。シン・ゴジラは主要キャラクターほぼ全員が政治家や官僚や自衛官で、「国家の総力を挙げてゴジラと戦う」ところにひとつのストーリーラインがあるのですが、「ゴジラ−1.0」はこれを強く否定するところに物語の本筋があります。おそらくゴジラシリーズでも珍しいと思うのですが、ゴジラと戦うのがほぼ全員民間人なんですよね。「民間主導のゴジラ撃滅作戦」というフレーズが劇中何度も強調されます。

「ゴジラ−1.0」の主要キャラクターはほぼ全員が復員兵です。主人公は元航空兵、殲滅作戦の立案者も元海軍工廠の技官、他もほぼなんらかの形で二次大戦に関わっていた元軍人ですが、現役の官僚や政治家は全くと言って良いほど姿を見せません。「元軍人の民間人たちが国の力を借りずゴジラに立ち向かう」ところに本作の核心的なテーマがあり、本作を評価されている方は概ねこの部分を肯定的に見ているのではないかと思います。

ただ正直自分としては、「ゴジラ−1.0」で描かれる昭和観があまりにチープで、この程度の歴史観しか持てないから日本人はいつまでも同じことを繰り返すんじゃねぇのという気持ちになっちゃったんですよね。「ゴジラ−1.0」には素晴らしいところも沢山あったんだけど、本作の大黒柱とでも言うべき核心的な価値観が自分には致命的に受け付けなかった。本稿では「ゴジラ−1.0」を通じてみる日本人の戦中・戦後観というテーマについて綴っていこうと思います。


「復興」を描く丁寧な筆致と卓越したVFX

まずは本作の優れたところについてお伝えしていきましょう。監督の山崎貴氏は「ALWAYS 三丁目の夕日」などの作品を制作された方で、昭和中期の日本を撮らせたら天下一のクリエイターです。1940-50年代の東京の街並みをあそこまで説得力をもって撮れる監督はまず存在しないと言って間違いないでしょう。

「ゴジラ−1.0」の戦後描写も凄まじいリアリティを有してます。特に単なる焼け跡を描くだけでなく、それが少しずつ復興し豊かになっていく様を描く力量が素晴らしい。たとえば主人公は最初焼け跡のバラックに住んでいるわけなんですが、劇中時間が終戦直後の1945年から1947年へと少しずつ進んでいくにつれて主人公の身の回りはどんどん豊かになっていくんですね。

まずはバラックが新築の長屋になり、ガレキまみれだった路地が少しずつ整理され、なんの家具もなくがらんどうだった部屋の中に少しずつ家具があふれていく。タンス、机、ラジオ。増えていく食卓のおかず。こうした描写が押しつけがましくない形でさりげなく劇中で提示されているのは本当に優れていたと思います。東京大空襲による徹底的な荒廃とそこからの復興という「ゴジラ−1.0」の前半描写については自分は100%肯定的です。

ぼろぼろの掃海艇による機雷除去作業のような、地味だが危険で重要な仕事に主人公が就く(そしてゴジラと遭遇することになる)というプロットも見事だと思いました。1945年8月15日をもって戦争が終わったわけではない。戦争の爪痕は至る所に残っており、危険を承知でその後始末に従事した人々がいたというのは銘記されるべき史実でしょう。敗戦から10年近く経った1950-1953年の朝鮮戦争においても、GHQの命令によって日本人は掃海や海上輸送のような準戦闘任務にあてられ多くが命を落としています。

そんな掃海任務に就いていた主人公らに、ある日突然ゴジラ迎撃の命令が下る。そこで前半の山場である「重巡洋艦 vs ゴジラ」に繋がる────という流れも自分は好きでした。正直なところ重巡の交戦距離が短すぎるだろ(実際の砲戦は20km以上の距離を置いて始まるのにほぼゼロ距離で戦闘がはじまる)みたいなツッコミ所はあったんですが、まぁギリギリ許せる範囲ではあります。その後ゴジラが銀座に再上陸し、復興し始めた日本が再びガレキの山になっていく…という描写も自分は楽しめました。

こんな感じで、前半まではおおむね楽しめてたんですよ。

流れが変わってオイオイと思い始めたのが後半。

繰り返すように「民間主導のゴジラ撃滅作戦」が始まってからです。


戦後日本にとって軍事力とは何か

ようやく復興し始めた東京は、ゴジラの上陸によって再び壊滅の危機に瀕します。しかしソ連を刺激することをおそれて米軍は武力行使を行おうとしない。日本政府も武装解除されているため武力の行使ができない。ゆえに民間主導のゴジラ撃滅作戦が計画される──。まぁ、こういう流れです。

もうこの時点でだいぶ無理があるんですよね。

100万歩譲って米軍が動かないまでは良いとしましょう。いやクロスロード作戦(≒水爆実験)でゴジラが誕生したことは米軍も認識してるのにその上でノータッチとかありえないだろとか、あれだけ放射線研究に熱心だった米軍どうしたとか無限に言いたいことはあるんですが、100万歩譲ってそこは見なかったことにします。

でも日本政府が一切動けないというのは意味がわからんのですよね。

ご存じの通り、戦前の日本は本土決戦を想定していたため内地にも大量の兵器が存在しました。もちろん終戦後は武装解除され兵器は連合国が管理することになったわけですが、とは言え兵器の「現物」が敗戦後ただちにスクラップにされたわけではありません。大量の総力戦用兵器を短期間に鉄くずにできる設備など日本には存在しませんし(全土が廃墟なんですから)、連合国としても研究したり運用したりできるならしてみたい。というわけで日本各地に大量の兵器が残置されていたわけです。その中の一部は後に返還され、「更生戦車」のような形でブルドーザーになったり雪上バスになったりという第二の生を送りました。兵器というのは一朝一夕に廃棄できるものではないんですね。

引用:旧陸軍戦車、終戦後はどうなった? 本土決戦用の九五式と九七式戦車、その後の奉公先

つまり1947年当時の日本には大量の兵器も弾薬も存在しており、政府がその気になれば(そして連合国が許せば)それなりの武装が可能だったわけです。「ゴジラ−1.0」は、そこを完全に見なかったことにしている。

オタクの揚げ足取りと言われるかもしれませんが、重要なポイントだと思います。

というのは、「民主国家日本は武力行使に対してどう向き合うべきか」というのは前作シン・ゴジラにおける核心的テーマのひとつだったからです。

蒲田に上陸したゴジラ第二形態に対しどのような法的根拠で武力行使を行うべきなのか。シン・ゴジラのキャラクターたちは葛藤し続け、ついに自衛隊の攻撃ヘリがゴジラを射程に捉えたにも関わらず、住民避難が完全ではないことから絶好の機を日本は逃します。それまで閣僚の言いなりでしかなかった首相がはじめて自分の意を明確に打ち出し、

「中止だ!攻撃中止!自衛隊の弾を、国民に向けることは出来ない」

と獅子吼するシーンは「シン・ゴジラ」における屈指の名シーンでしょう。そのような積み重ねがあるシン・ゴジラに対するアンチテーゼとして「ゴジラ−1.0」は作られているのに、戦後日本が直面し続けるこの難問に完全に背を向けてしまった。

正直に言うとここでかなりガックリ来ました。もちろん創作におけるリアリティ・ラインというものはあり、なんでもかんでもリアルにすれば良いわけではない(現に同監督のシン・ウルトラマンはリアリティラインが一気に低下します)わけですが、ここまで戦後復興を丁寧な筆致で描き「戦前と戦後を問う」という態度を取り続けた「ゴジラ−1.0」がこの問いに背を向けるのは論外でしょう。民間主導のゴジラ撃滅作戦を描くにしても、「なぜ民間主導なのか」という物語強度は可能な限り高めないとどうしようもない。

さらに言うと「ゴジラ−1.0」の作戦チームには駆逐艦4隻と戦闘機1機(+爆弾)が配備されるわけですが、その経緯などもほとんど描かれない。急に元海軍のお偉いさんがやってきて「君たちにゴジラを倒してもらう!」と復員兵たちに呼びかける。あまりに陳腐です。丁寧で魅力的だった前半部から後半部へ移るにつれ、どんどん気持ちが醒めていくのを感じました。


「善なる民衆 vs 悪の政府」という二項対立

連合国も日本政府もゴジラに対して何もできない。そのような背景が説明され、民間主導のゴジラ撃滅作戦が発足します。

対策チームは繰り返し「人命尊重」を説きます。戦前の政府はあまりに人命を軽んじた、その結果として首都は灰燼に帰し、天文学的な数の人命が失われた。我々民間はその轍を踏まない。ゴジラは倒すが、命を粗末にするようなことはしない───。

この演説が始まったあたりで、自分のテンションはゼロ付近まで下がりました。「清廉潔白な民衆 vs 悪の政府」という陳腐な歴史観をまーた観なきゃならんのかと。シン・ゴジラが「民主国家は武力行使にどう向き合うべきなのか」というテーマにある程度しっかり向き合おうとする作品だっただけに、そのアンチテーゼを志す作品に対しても期待値が上がってしまったところがあるとは思うのですが、鑑賞中は絶望すら感じました。

言うまでもなく、大日本帝国の拡張政策は軍部と政府のみが主導したわけではありません。日本人の多くがその侵略を支持し、特に財閥をはじめとする民間企業は日本の侵略戦争の「主犯」のひとりでもありました

だからこそ対中拡張政策に反対する皇道派将校は2.26事件において三井・三菱の両財閥を攻撃目標に掲げ、戦後においてGHQも財閥解体に踏み切ったわけです。大戦を招いた原因のひとつである日本の対外侵略について民間企業はずっぷりと関わっており、「平和主義の民衆に政府と軍が犠牲を強いた」という構図では戦前は決して総括できません。

引用:「はだしのゲン」1巻

ここら辺の構図は戦後早い時期に描かれた作品ではほとんど「常識」として扱われているように思います。「はだしのゲン」でも「ひとにぎりの金持ちがもうけるため国民のわしらになにひとつ相談なくかってに(戦争を)始めたのだ」というセリフが出てきますが、ここで言う「ひとにぎりの金持ち」こそ財閥企業とそれを取り巻く財界人でしょう。戦前の日本は今とは比べ物にならないほどの超格差社会であり、財界と政界の癒着も今日からは想像もできない水準にありました。まぁ2.26の時点(1936年)ではすでに政府や軍主流(統制派)は戦争に後ろ向きだったのではみたいな研究も多いので財閥だけを悪玉にするわけにもいかないのですが、「清廉潔白な民衆 vs 悪の政府」という構図が真実の一かけらさえも有していないことは確実でしょう。

自分が心底うんざりしたのが、「ゴジラ−1.0」の中で描かれる民間企業のあり方が戦前の財閥そのものである点です。

言うまでもなく、ゴジラを倒したところで企業は1円の得にもなりません。それどころか貴重な企業財産と社員を危険に晒すわけで、経済合理性で考えればゴジラ撃滅作戦に従事することは損失しかありえません。

しかし「ゴジラ−1.0」で描かれる民間は「誰かがやらねばならない」として企業と国家を同一視し、企業財産と社員の命を対ゴジラ作戦に投じることを自明視します。戦前の政財界の癒着、戦後からバブルにかけての「集団護送船団方式」と揶揄された官民一体構造を連想させる光景ですが、これが「大戦の犠牲への反省」として提示されるのだから見ている方はたまりません。お前らが現在進行形でやってることが戦争の遠因だわとポップコーンのひとつでも投げつけたくなるのですが、劇中では目をキラキラさせたキャラクターたちが「俺たちが新しい日本を作るんだ!」的に吠えまくっており、ゼロを超えてついに氷点下に突入した筆者の心象温度と劇的なコントラストを描いています。ある意味でゴジラマイナスワンです。

もちろん、こうした官民一体構造は日本のみならず多くの国々で見られるものです。ダンケルク撤退作戦のおり、英国の民間企業は英兵の撤退支援のため遊覧船や漁船や貨物船でフランスの海岸線に駆け付け多くの兵士を救いました。民間企業が採算度外視で国益のため奔走するというのは戦時下において珍しくもない光景です。ですがそれを「戦中日本の超克」として提示するというのはあり得ません。

シン・ゴジラにおいてもヤシオリ作戦の折に鉄道会社から国際研究機関から輸送会社まで官民が一体になる構図が見られるのですが、あれは「国という枠を超えた人類同士の紐帯」として描かれていることで戦前の官民一体構造との同一化を辛うじて免れています。合衆国の穏健派やフランス政府や国際研究機関の協力を取り付け、「ゴジラ vs 日本」ではなく「ゴジラ vs 世界」の構図を描くことで、戦後の民主国家日本が歩んできた道のりを改めて提示する。

「やめましょう。クローズのシステムを他国に解放するとここの研究データを盗まれます」

「いえ、ここは人間を信じましょう。喜んで参加すると伝えて」

引用:「シン・ゴジラ」バーグヘッド科学電算研究所のやり取りより

戦後日本の歩みに「希望」と言いうるものがあるとすれば、それは国際協調の積み重ねでしょう。多くの批判はあれど日本は国際協調路線を堅守し、血を流すのではなく経済協力や学術交流という形で諸外国と付き合い続けてきた。シン・ゴジラにおけるヤシオリ作戦は国家プロジェクトであると同時に国際プロジェクトでもあったわけですが、それを可能にしたのは戦後日本の歩みだったわけです。こちらの方がよほど戦前戦中に対する批判として成り立っています。

「ゴジラ−1.0」という作品を観ていると、日本人にとって戦中も戦後も遥かな過去になったのだなということを痛感します。

戦中のことも戦後のことも誰も何も覚えていないから「清廉潔白な民衆 vs 悪の政府」という陳腐極まる構図が「戦前の超克」という文脈で出てきてしまう。なぜあの戦争が起きたのか、戦後日本はどう変わったのか、そうした基本的な知識についてほぼ誰も覚えていないしほぼ誰も理解していない。

戦中と戦後のコントラストをテーマに物語を作ろうというクリエイターですらこのレベルというのが心底嘆かわしいと思いますし、作品批評をざっと見渡した限り本稿のような論点から「ゴジラ−1.0」の歪さを指摘する声も見当たりません。

作品の意図とはおそらく正反対なのでしょうが、「戦後」という時代の終わりを強く感じました。当たり前に共有されるべき知識や精神が共有されないこと。それが時代の終わりでなくはなんだと言うのでしょうか。

以下では購読者向けに、「ゴジラ−1.0」が取りこぼした最も重要な初代ゴジラのエッセンス、つまりは「怨霊としてのゴジラ」というモチーフについてお話していこうと思います。

「ゴジラ−1.0」についてというよりは、昭和とはどのような時代で「ゴジラ」とは本来どのような物語だったのか、というお話です。まぁ「ゴジラ−1.0」がいかにそれを取りこぼしているかという話もせざるを得ないんですが…。


忘れ去られた「死者の声」

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週に1-2回程度更新。主な執筆ジャンルはジェンダー、メンタルヘルス、異常者の生態、婚活、恋愛、オタクなど。

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