不潔な共同体と、清潔な監獄 「べてるの家」についての補論
アジールが失われ、アサイラムが生まれようとしている。
監獄が復活しようとしている。
「べてるの家」の炎上とその対応について、昨日の記事では「典型的なmetoo的誤謬を犯している」と批判した。
今日の記事では「規律と管理のルールを導入しようとしている」点について説明したい。
そもそも論として、べてるの家を「清潔」なコミュニティだと見なしていた関係者や学識者はどのくらい居るのだろう。個人的な観測では、べてるとは際立って「不潔」な共同体だった。その一例がこの記事だ。
この記事では、べてるの中での出産ブームと、あるメンバーの出産について綴られている。精神障害者の地域活動拠点で出産ブームが起こるというのは、極めてまれ、という言葉では言い合わらせない、ある種の奇跡のようなものだ。
しかしテキストを深く読んでいくと、この「奇跡」は決して「清潔」な環境の中で起こった奇跡でないことがわかるだろう。
>>一九九五年に、お祭りに出かけて孕んだかおるさんが、家族の反対を押し切って出産を決意したとき、べてるのメンバーが集まって緊急ミーティングをして、みんなの子どもとして育てることを決めたことを思い出す。
>>今回も、朝美さんは七カ月まで、おめでたに気づかず、「何となくお腹が膨れてきた」という相談を受けたスタッフが、急いで病院を受診してわかったという
>> 私も朝美さんのお祝いに病院へかけつけたが、思わず笑ったのが、未熟児として生まれた美来ちゃんのベッドに掲げられたプレートを見た時だった。そこには、母親の名前「松原朝美」と並んで、父親の名前の欄に「べてる みんな」と書かれていた。それは、主治医から「お父さんは?」と聞かれて、思わず「エイリアンかもしれない……」と呟くという予想外の場面で、スタッフが機転を利かせて「べてる みんな」を提案して実現したものだった
>>ドクター・ヘリや、救急車のサイレンが途切れなくやってくる状態を「エイリアンが美来を奪いに来た!」と思い込んだ朝美さんが、病室の椅子を振り上げて、天井に巣食うエイリアンに戦いを挑むという“事件”が起きた
>>病院にとっては“大事件”である。急遽、精神科への転棟と、保護室への入室と拘束、沈静を目的とした向精神薬の多量投与が予測される事態となり
冷酷に、共感性を排し、突き放した事実のみを語るなら、こういうことだ。
一般的な病院なら即座に拘束・鎮静を検討されるような精神障害者がべてるでは普通に生活しており、彼・彼女らは地域の祭りなどで誰に管理されることなく普通に避妊せずセックスをしている。しかも彼・彼女らは妊娠の自覚を抱けないほど性知識もしくは認知機能が低く、子供の父親すら把握できていない。
世間の、アタリマエの常識からすれば、これは論外というべき状態だろう。
このような状況をつまびらかに世間に開陳したとき、一体どのような「ご意見」が飛んでくるだろうか。ひとつ予想してみよう。
まず第一に、認知機能に欠けた人間のセックスは慎まれるべきだと言われるだろう。
妊娠を自覚できず、子供の父親が誰かもわからない人間がセックスするなんてありえない。性感染症や、望まぬ妊娠のリスクもある。性知識が十分でない子供がセックスから遠ざけるように、アルコールや精神疾患などで認知機能が弱っている人間からもセックスは取り上げるべきだと言われるだろう。
第二に、子作りは計画的に、明確な同意の元に行われるべきだとも言われるだろう。
避妊のないセックスは、夫婦や結婚を前提としたカップルが、計画的に、明確な同意の元に行うべきだとされている。上記の「べてる」の例には上にあげられた全ての条件を満たしていない。計画性、明確な同意、それらを可能にする明確な責任能力、全てなにひとつ揃ってない。もし「べてる」に住まう当事者がセックスしたいなら、計画性と明確な同意について「学ぶ」べきだと言われるだろ。
第三に、そもそもそんなキチガイを外に出すなと言われるだろう。
一般的な病院で即座に拘束・鎮静を検討されるような精神障害者なら、そもそも精神病院で拘束・鎮静されているのが正しいのであって、自由なセックスや妊娠などもってのほかで、精神病院に入れて「治療」すべきだと言われるだろう。
このような意見はすべて、全くの正論だ。そのようにして、何十年も精神障害者は監獄に閉じ込められてきた。清潔で安全な精神病院の中で、薬物や拘束バンドで自由を奪われ、物言わぬ肉塊として余生を過ごすことを余儀なくされていた。そう、「正論」を進めるなら、そのようにやるしか道はないのだ。
べてるの例外性は、その「正論」に真っ向から対抗したことだ。
>>最近、札幌でもグループホームが続々と整備されている。その多くが、保護や管理が徹底され、門限も、交友関係や地域活動にも多くの制約が課され、朝美さんのような子育てのエピソードは、ほとんど起こりえない。
>>そんな現状の中で、べてるの住居は、門限もなく、男女交際も自由で「管理が行き届かないところ」を伝統として大切にしてきた。
精神障害者とは、社会とうまく折り合いをつけて生きていけない人たちのことだ。だからこそ社会は、そのような異物を檻に閉じ込めて薬漬けにし、社会と関われないようにしてきた。近年は、それではあまりに可哀想だということで「脱入院」「精神障害者の地域移行」ということが進められてきたが、それを推進するグループホームにしても、「保護や管理を徹底」するような、形を変えた監獄でしかなかったのだ。
べてるは監獄を解き放った。監獄を解き放つとは、そこに閉じ込められていた「社会とうまく折り合いをつけられない人たち」が巻き起こす無限のトラブルを、限界まで許容しつつ共に生きていくということだ。
それは綺麗ごとではない。ほとんど無限に思える厄介事・トラブルを巻き起こすだろう。現に「べてる」では、2004年に殺人事件まで起きている。うまく社会と折り合いをつけられない人たちと共に生きるというのはそういうことだ。そこに清潔さはない。不潔な、どろどろ、ぐちゃぐちゃした、人の営みの腐臭のなかで足掻いていくことしかない。それを「べてる」は1984年の設立以来、36年に渡って行ってきたのだ。不潔な共同体の伝統がそこにはある。
トラブルが起きたから、再発防止のために管理を強化する。
それは正論だ。
日本中・世界中で繰り返されてきた正論だ。
しかし忘れてはならないのは、精神障害者とは無限にトラブルを起こす人たちだと言うことだ。
彼らがトラブルを起こすたびに新たな管理を設けるなら、早晩そこは精神科入院病院と全く変わらぬ監獄と化すだろう。
今回の「べてる」の事件に当たって、「2015年にべてぶくろで起きた性被害に関する特設ページ」では以下のような「再発防止策」が提示されていた。
・事実確認と補償に向けた第三者委員会設置
・性被害者への初期対応と中長期的支援についての勉強会実施
・当事者研究という名の付く活動で傷ついたと感じている方のオンブズマン
・当事者研究実施上の原則・ルールの見直しと公表
なんとか「管理」的にならないようにと努力している跡は見受けられるが、残念ながら、やはりこれも新しい「管理」だ。このような小さな塵が積み重ねられて、精神科入院病棟のごとき監獄は成立する。この小さな再発防止策を許すことが、「べてる」を監獄化させる第一歩になるのだ。
そもそも当事者研究にしてもオープンダイアローグにしても、厄介ごとを起こしてしまう当時者を隣人としながら、なんとか共生していくための知恵だったのではなかったか。トラブルに際して管理で応えるなら、それは今までやってきたことの全否定に他ならない。
もちろん、無制限な無法が許されるわけはない。どこかで一線を引かねばならない。実際に2004年に起きた殺人事件も、犯人は逮捕・収監されている。個人的には、「一線」を超えた場合の対処は法律に頼るのが最適で、それ以外の新たな「ルール」を内部に増やすことは不適切だろうと考える。それはアジールをアサイラムに変化させる第一歩だからだ。外部のアサイラムのルールを借用するのが最も賢い方法で、アジール内に新たなルールを設けるのは愚の骨頂だろう。
最後に、2004年に起きた殺人事件をふり返った一節を引用して終わろう。
人ひとり命が失われたのは、凶器となった包丁がやすやすと病室に持ちこまれたからであり、それを許した病院の管理に問題があたっからではないか、そう追求するメディアと、危険物が持ちこめないように管理を強化しても、おそらく今回の事故は防げなかった。それどころかそんなふうに管理を強化したら、精神科の治療全体には大きなマイナスであり本末転倒になります。そう答える川村先生のやりとりはまったくかみあっていない。浦河だけではなく、日本の各地ではしばしば繰りかえされてきたやり取りの再現です。…ところがそうした余波、衝撃は、不思議なことに事件現場の病棟ではあまり感知されず、現場から遠ざかるほど大きくなるのであった。事件現場を中心とした同心円を描いてみると、事件の衝撃や危機感は中心から遠ざかるほど大きくなっています。
(「治りませんように」84~88ページ みすず書房 より引用)
人は弱く醜い。社会的弱者であるなら、その度合いはさらに増す。そのような弱く醜い人間が織りなす不潔な営為を、そのまま否定せずに、そのまま管理せずに、受け止め続けたのが「べてるの家」だ。
不潔な共同体に祝福あれ。
ではければ、なんのための「べてる」だったのだ。
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