「中世化」する左派運動と「中世化」する現代社会
先日、藤田孝典さんという反貧困アクティビストの方とSNS上でちょっとしたやり取りがあった。ほんの数往復のやり取りだが、争点は「反差別運動の闘争手段として『キャンセル』のような私刑を選択することの是非」であったように思う。
おおむね、互いに敬意を抱きつつの意見交換に終始したのではないかと自分は思っている。1年以上前に書いた記事でも少し触れたが、自分は藤田さんに個人的かつ一方的な好意を抱いており、彼の仕事の多くに敬意を払っている。もちろん多くの点で見解の相違があり、共に仕事をすることはできないだろう。だが好意と思想は別物だ。
さて、以上のやり取りを見てもらえばわかるように
「目的のためならば私刑は許容される」
というのが現代における左派のコンセンサスであるように思う。それは藤田氏の言うように「弱者が強者と戦う手段」として正当化されている。「強大な権力と戦うためには多少のダーティーな手段は許容される」というロジックが流布した結果なのだろう。
特に反差別問題についてはゼロ・トレランス(不寛容)な方法で取り組むべきだとする意見が現在左派の中で急速に多数派を占めつつある。法に定められた処罰に依らず、公職から追放し、職業を奪い、メディアから追放し、公的存在としてのその人を消滅させる。そのような運動手段を著名な社会活動家や大学教員が真顔で主張しているのが現代という時代なのだ。
しかし言うまでもないことだが、「近代」という観点からすれば彼らの主張は狂気に等しいと言える。彼らは「新しい時代」を築いていると思っているのだろうが、彼らが向かう先はよく知られた中世の暗黒だ。
本稿では私刑を濫用する社会運動が向かう暗い道のりについて綴っていこうと思う。
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