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備忘録 関ヶ原の合戦と「玉城」

今年の大河ドラマ「どうする家康」も終盤を迎えているが、ドラマの効果か「関ヶ原の合戦」に注目が集まっているようです。
近年になって、「小早川秀秋の東軍への寝返りは、実は直前に翻意したのではなく事前に話がついていたものであった」など、従来の通説に異を唱える見解もみられるようです。

豊臣家内に「秀頼出陣」の議論がどの程度具体的にあったのか、というのも興味深い議論です。これまで主として文献記録による研究が行われてきましたが、なかなかはっきりしなかったようです。
2020年頃から「航空レーザー測量」による関ヶ原周辺の精密な地形の計測が行われました。その結果、現在関ヶ原の古戦場跡とされている場所の西側約2 kmほどの場所にある「玉城」という古城跡の山頂付近に、相当の準備期間をもって建設されたと思われる広大な陣地があったことが判明しました。また、各地に残っている「合戦図屏風」からこの地には、にわか造りではない本格的な建物があった可能性が高いと言うことです。これらの事実から、玉城は秀頼出陣を想定してその本陣(御座所)に使用するため、既存の中世古城を大がかりに改造して築造されたものではないか、という推論ができます。この結果については、これまで何度かテレビでも取り上げられていますが大きな話題にはなっていないように思います。

参考資料 「関ケ原の戦い(千田嘉博)」『新説戦乱の日本史:SB新書』に収録

ではなぜ実際に秀頼の出陣が行われなかったのでしょうか。この点については今後の研究の進展によって明らかになっていくことが期待されます。

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