臨場猫はきょうも刑事にお供する 第1話 待機殺人 #2

 台所兼居間にはテーブルと椅子が1セット置かれてあり、女性が腰掛けていた。
 伸ばした髪をアップにし、クリップでひとまとめにしている。丸くなった背中が消えてしまいそうなほどに小さくなっていた。
 今はまだ悲しみの中というより、事実を受け入れがたくて呆然としている様子だった。
 おそらく彼女が通報者で被害者の妻。景山朋子、23歳。
 丁寧な化粧をし、ゆったりとしたチュニックのような大きな花柄のワンピースを着ている。
 どこかに出かけていたのだろうか。

 飴智警部補と目が合うと女性を手のひらでさした。
「こちらが景山朋子さんだ」
 わたしは女性のそばまできて手帳を見せ、「小柳です」と名乗った。
 女性はこちらを見ることもなく、ただそれが礼儀とばかりに頭を軽く下げた。
 自分たちはあまり望まれていない客のようである。原因究明などせずに今はそっとしておいてほしいのかもしれない。

 飴智警部補はつとめて事務的に声をかけた。
「あなたが通報されたということですが」
 彼女はやはり黙ったままうなづいた。
「そのときの状況は? あなたはずっと部屋にいたのですか」
 飴智警部補が聞き手になるようなので、わたしはメモ帳を開いた。

「いいえ。わたしは出かけてました。帰ってきたら夫が倒れていたんです」
「あなたはどこへ行ってたのですか」
「ナスです」
「え? ナス?」
 わたしが問い返すと彼女は「はい」といった。
「友人の叔父さんが別荘を持っていて、それで誘われて一泊しました」
「栃木県の那須ですね?」
 と、飴智警部補が確認する。
「そうです」

 そういえば、どこかでボストンバッグを目にしていた。
 彼女の向かい側の椅子に置かれているのは、男性物のA4ファイルが入る程度の大きさのカバンだ。
 その椅子の背には今取ったばかりというかんじで、ストライプのネクタイが置いてある。旦那さんの物だろう。

 きょろきょろあたりを見渡すと、玄関の上がり口の端にブランド物のボストンバッグが置かれてあった。
 そのあたりには物がごちゃごちゃと置かれてあって、傘立てまで床の上に乗っかっており、浜辺で使うようなパラソルや、護身用のためなのかグリップが真新しい金属バットが刺さっている。
 ともかく、旅行へ出ていたのは間違いないようだ。

「いつ家を出ましたか」
「昨日の朝です。主人が出勤したあと、午前9時頃、自宅の前まで友人の叔父さんが運転する車で迎えに来てくれました。もう一人の友人もすでに車に乗っていて、そのまま那須まで行きました」
 わたしは友人の名前と連絡先を一応聞いておいた。わたしが書き留めると飴智警部補は質問を続けた。
「それで、帰宅されたのは?」
「さっきです」
 通報の時刻は午後5時37分なので、それくらいの時間か。
 カバンもそのへんに置いたまま何も手に付かず、そのままずっとそこに座っていたのだろう。

「玄関に鍵はかかってましたか」
 彼女はちょっと考えるような仕草をして、しばらく記憶をたどっていた。
 そのときは部屋の中で旦那が死んでいることなど知りもしなかったので、気に留める事柄ではなかっただろうか。彼女は慎重に答えた。

「かかっていなかったと思います。声をかけても返事がないし、おかしいなとは思いました」
「ちなみにご主人は今日、出勤の予定でしたか」
「いえ。日曜日は仕事が休みなので」

 そうか。今日は日曜日か。
 ネクタイもカバンもそこに置きっぱなしということは、きのう帰宅して片付ける間もなく亡くなったということだろうか。
 Yシャツもスラックスもぱっと見たところ見当たらないので、着替えることもなく、まさに着の身着のまま運び出されたのであろう。

「でも、どこかへ出かけていたかはわかりません」
「旅行中、電話とか、メールとか、やりとりは?」
「いいえ。普段から用事がある時しか連絡は取りあってません」
 すると、最後にコンタクトをとったのは、旅行に出る前の、昨日の朝ということか。

「話しを戻しますけど、あなたはご自宅へはおひとりで帰ってこられたのですか」
「家の前まで送ってもらいました。疲れたし面倒だし、ご飯も食べて帰ろうと誘われたんですけど、二日間も家を空けてましたし、主人の食事の支度をしてないといけないので。あの……」
 ひといきに話すと彼女は口ごもり、ようやく顔を上げて探るように飴智警部補を見つめた。敏腕刑事とは思えぬ柔和な表情で飴智警部補も見つめ返す。
「なんでしょうか」
「夫は、殺されたんでしょうか」
「どうしてそう思うんです?」
「頭から血を流してましたので……」
「ご主人を発見した瞬間からそのように思っていましたか」
「いえ。わけがわからなくて。なんでこんなことになっているのか、わかりませんでした。あたりももう暗くなりかけてましたし、よくわからなかったです」
 首を振りながらまたうつむいた。

 洗面台の下の開き戸は木目調なので、少し血痕が付いていたところで、薄暗ければわからないだろう。
 一般の人は事件や事故に遭遇することはまれなので、帰宅して身内が血を流して死んでいたら動転するのは当然のことだった。

「そういえば、やってきた警官がブレーカーが落ちていたといってましたが」
「はい」
 彼女は伏し目がちに答えた。かなり疲れているようだった。
「ブレーカーが落ちることはよくあるんですか」
「……いいえ。どうしてそうなっていたのかわかりません」
「そうですか。エアコンもこの部屋だけみたいですし。30アンペアあればエアコンと電子レンジとドライヤーをいっぺんに使ったところで落ちたりはしないでしょうね」
「はい……たぶん」
「ああ、それと、ドライヤーが洗面台のコンセントに差しっぱなしでしたけど」
 飴智警部補はたたみかけるように尋ねる。
「いつもです」
「いつも?」
「ずっと差しっぱなしで、ドライヤーはラックの上に置いてます」
「床に落ちて壊れているようでしたが」
「気づきませんでした」
「洗面所の床が水浸しでしたね。どこかが水漏れしたんでしょうか」
「わかりません」
「出かける前はなんでもなかったんですよね」
「はい」
「今までに水漏れしたことは?」
「ありません」

 景山朋子は膝の上でぎゅっと手を握りしめながら、明瞭に答えていっていた。
 少し息をつくと飴智警部補は彼女を気遣った。
「すみませんね。あと少し。朋子さんとご主人は二人暮らしで?」
「はい」
「ご遺体に付き添われていったのは?」
「主人の、お母さんです。このアパートはお母さんの知り合いが大家で、そのつてで借りました。警官が駆けつけたり騒ぎになったので、大家さんがお母さんに連絡したみたいです。わたし以上に慌ててしまって、ちゃんと調べてもらいなさいって。あなたはここできちんと状況を説明するようにっていわれました。主人がどうして亡くなったのかわかるんでしょうか」
「ええ、わかりますよ。亡くなられた原因と、いつ頃に亡くなられたのか、すぐにわかります。ご主人に持病は?」
「いいえ、特には」
「もっと調べたければあなたのご友人や、ご主人の仕事場にも話しを伺いに行くことにもなるかもしれませんが」
「お母さんがそれを望むなら、わたしのほうはかまいません」
「ありがとうございました。我々はこのへんで失礼させていただきます。あなたもご主人のもとへ行かれた方がいいですよ」
「ありがとうございます」
 憔悴しきった彼女は深々と頭を下げた。そのまま倒れ込んでしまうのではないかと思うほど長いお辞儀だった。

 なんだかとてもスムーズに終わったと思ったら、エセネコがいつの間にかいなくなっていた。
 飴智警部補は最後に部屋をぐるっと見渡している。
 もしや……と、メモ帳をしまいながら飴智警部補をチラ見する。
 エセネコが飴智警部補に憑依してしまったのではないかと疑う。
 飴智警部補とは今日あったばかりで、事情聴取の仕方から仕草、話し方、考え方、なにも自分は知っていない。
 エセネコが憑依しているかどうかなんて、見分けがつかないのである。

 わたしの脇を通りすがっていく飴智警部補がつぶやいた。
「どうかしたのか?」
 まずい。チラ見が完全にばれている。
「いえ、なんでもありません」
 靴を履いて「失礼しました」と出て行く飴智警部補に続いた。
「それじゃあ、ここで解散しようか。明日になればご主人が死亡した状況もわかるだろうから、職場の人に話しを聞きに行こう。報告書もまだいいだろうからきみも直帰でいいと思うよ」
「はい。お疲れ様でした」

 エセネコはどこへ行ったのか。玄関先できょろきょろしていたら、あの若い警官と目が合った。
 この男とも今日が初対面だが、なぜだかこの男のことが良く分かった気になっていた。
「あのぉ……」
 声をかけられ、先に答えてやる。
「あ、検分も終わったから、帰れると思うよ。署に報告しておいてね」
「はぁ……」

 相変わらずの覇気のなさで、わかったのかわかってないのか、だるそうな返事をしてきた。
 なぜ彼は警官になったのか。いや、たぶん、彼はどんな仕事に就いたところでこんなかんじなのだろう。
 何をさせても、自分だけが損をしているというような被害妄想で憂鬱そうにし、のらりくらりといわれたことはやってるのだから文句は付けるなと、時折威圧顔を見せるのだ。

 どうせ正義感などないのだから、わたしと同じように浮ついた気持ちでやりすごせばいいのに。根底が同じでも出口が違えばちょっとはまともな人間に見えるのだから。
 わたしは闇に消えていく飴智警部補の後ろ姿をスマホに納め、蒸し暑い夜の街を帰って行った。

 正義と悪、何年か経ったのちにもその名をとどろかせているのはどちらか。
 インターネットで検索するとヒットするのは怪盗八面六臂ばかりであった。
 ルパンと銭形くらいの攻防を繰り広げていたら、飴智警部補も合わせて語り草になっていただろうが、いかんせん、逮捕劇はあっけなさすぎた。

 次の日、少し早く署についたので、怪盗八面六臂のことを調べてみようと思ったのだが、調書を読むのが面倒で、結局ネット検索で調べてみた。
 まとめサイトを読み流し、怪盗八面六臂という名が関連づけられた画像を見ていったが、やはり、怪盗八面六臂が猫に扮したことがあるという記述は見られなかった。

 出所から3年後に交通事故で死亡したことまで言及しているサイトもあって驚いた。
 影武者だとか、身代わりだとか議論がいまだに紛糾しているが、自分はそれをまったく把握していなかった。
 だが、さずがに怪盗八面六臂の幽霊を見たという情報はない。
 よって、憑依できるというのが真実かどうかは不明だ。というより、ネット情報の信憑性は……話半分で聞いておかなければならない。

 そうこうしているうちに飴智警部補もやってきた。
 空調のきいた室内に一息つき、武骨な指先で細身のネクタイを締めあげた。
 昨日とは違う柄のネクタイに、こういうのを選んでくれる奥さんなどがいるのだろうかと想像を巡らせた。
 今日の飴智警部補はまだわたしの視線には気づいていない。なぜなら、部屋に入るなり鑑識の桑田さんが駆け寄ったからだ。

「あ、桑田さん、どうだった?」
「うん、なんかあるね」
「だね。死亡時刻は?」
 なんだか二人は旧知の仲のようにいきなり話しをはじめていく。桑田さんは手にした紙を飴智警部補に渡した。

「おとといの午後11時から午前1時ってところ。ここ見て」
 と、添付した写真を指さして続けた。
「現物を見たよ。高価そうな腕時計をしてた。写真じゃわかりにくいけど、11時44分のところで秒針が足踏みしてた」
「なるほどね。たまたま電池切れになったのか、倒れたひょうしに打ち付けて壊れたのか、水没でオシャカになったか。偶然にしてはできすぎてるから、死亡した時刻がこのあたりだろうね。床が水浸しだったけど、死亡推定時刻に影響は?」
「勘案した」桑田さんは2度ほど深く頷いた。「床の水を吸い上げて、水につかっていない衣類もじっとりとしめってはいたけど、冷水や氷をぶっかけられたわけじゃないだろう。この暑さとはいえ、湿度も高い。遺体は体温もないし、そんなに早くは乾かないな。髪の毛はほとんど濡れてなかったし」
「死因は? 溺死ではないよね」
「ふふふ。まさか。遺体を動かした形跡もない。死因は脳挫傷でしょう。左側の後頭部、やや下の方。洗面台の縁に勢いよく打ち付けたとみられる」
 桑田さんは自分の後頭部を手のひらでガツンとたたいてみせた。
「そうか。それ以外に不審に思ったところは?」
「取り立ててない」
「指紋はどうだった?」
「あったよ」
 桑田さんは紙をめくれという動作をしてうながした。飴智警部補は次のページに視線を落とす。
「ブレーカーを上げたっていう警官、それから害者の指紋もあった。それと、長年の埃をかぶっていたからちょっとわかりにくかったけど、もうひとつ。歯ブラシについていた指紋と同一」
「おいおい、そんなところまで調べたのか」
「現場にあったものなんでね」
 いかつい顔つきの桑田さんがさらに悪人風情の笑みを浮かべた。飴智警部補はあきれ顔でいう。
「だいたい、奥さんはあの家の住人なんだから本人から直接指紋は採ったんでしょ」
 部屋の指紋を採取するのなら、住人と他人との指紋を区別するために関係者の指紋は採っておくものである。わざわざ奥さんの歯ブラシから指紋を採るなんて、事情がない限りはやらない。
「あんたがブレーカーの指紋を採っておいてくれというもんだから、奥さんの指紋を期待しているのだろうとは思ってたよ。だからブレーカーの指紋と、ピンクの歯ブラシの指紋が一致して、ああ、やっぱりあの人なのかと。それで本人の指紋と照合してと。そのピタッとはまってゾクゾクするかんじ。わかんないかな」
「私にはそんな捜査の楽しみ方はできないね」
 飴智警部補は肩をすくめて首を振った。
「そうなのか? 取り調べではねちっこく追い詰めるって聞いたけど。被疑者が落ちていく様子を楽しんでるのかともっぱらの評判だよ」
「しつこいのは本当だが、まったく違う意味合いで聴取してるよ」
「ふうん。あ、長話してる場合じゃない。現場に行かないと。この署もわりと忙しいんだよね」
「そうみたいだな」

 桑田さんはいそいそと部屋を出て行った。
 怖い顔つきをしているが、仕事は黙々とやる人だった。職人気質なんだなと思っていたが、そんな密かな楽しみがあったとは。別の意味で怖い。
「小柳くん」
 いつの間にかわたしの裏に飴智警部補が立っていてぎょっとする。
「はい! おはようございます」
 スマホを伏せて立ち上がる。
「それはひょっとして怪盗八面六臂?」
「あ……はい」
 他人から見えにくいという謳い文句のスマホの画面も、飴智警部補にかかれば筒抜けだと思ってしまうほどに何もかも見透かされていた。
「私のことが気にかかるとか?」
「あ、いえ、怪盗八面六臂のことが」
「怪盗八面六臂が」
 その名を繰り返し、飴智警部補は自分より悪党のことが知りたいのかとでもいいたそうに苦笑した。

 誰が手錠をかけたかなんて、一般の人からしてみればそれほど興味のないことだ。「警察」が逮捕した、その事実だけで十分なのだ。
 だけど、今更怪盗八面六臂を調べているってことは、飴智警部補が手錠をかけたことを知っているからにほかならぬと考えて当然のことだった。
 実際には、怪盗八面六臂を名乗る幽霊に遭遇したからなのだけど、飴智警部補にそれをいう勇気はなかった。

「だからそのぉ、飴智警部補が捕らえた怪盗八面六臂は更生したのか、気になったものですから」
「そう。改心したとは聞いていたが、事故で亡くなったようだね。残念だ」
 知っていたのか。自分で手錠をかけた人間がどうなったかは気になる。それが大物ならなおさら。

「小柳くんはどうして警察に?」
「はい、わたしは――」
 いつも聞かれて口にしていることを反射的に答えようとしたが思いとどまった。

 人の役に立ちたい。

 何の疑問もなく、教官にも面接官にも誰にでも、当たり障りのない用意した答えを口にしていた。
 だが、飴智警部補はそんなことを聞きたがっているのだろうか。
 あきれられてもいい。どんな理由であれ、わたしはそれなりにではあるが、刑事という職をまっとうしている。

「わたしは、警察がかっこいいと思っていたので、小さい頃からのあこがれの職業でした」
「それは実際に助けてもらったから?」
「いいえ、たぶん、ドラマとか、漫画とか、そんなのを見て、なんとなくです。飴智警部補のことは警官になってから知りました。そのエピソードもすごくドラマチックで、といったらともて失礼ですが、署が違っても語りぐさになってます」
「それはそれは。恥ずかしいやらなにやら」

 飴智警部補は当時を思い起こすように首をなでた。
 突然目の前に現れた指名手配犯にひるみ、がむしゃらにしがみついて捕らえ、相手は無傷であったのに、飴智警部補は病院送りになるほどの痛手を負ったときく。
 でも、警察官なら危険な状況に見舞われるのはまれなことではない。
 桑田さんのように楽しむところまではいかないだろうが、武勇伝の1つや2つ、もっていて当然だった。

「あの、桑田さんとはお知り合いですか」
「きのう会ってるよ」
「長いつきあいがあるのかと思ってました」
「私も警察官になって長いからね」
 それ以上の関係性を語らないので聞かないでおいた。刑事なら顔が広いほうがいいにきまっているが、あけすけにするものでもないだろう。スマートなやり取りに感激する。

 実際にお会いしてもイメージが崩れない飴智警部補。
 怖い。怖いくらいに完璧だ。
「小柳くん、さっそくだが聞き込みにいこうか」
「はい」
 今日も、長い一日が始まった。

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