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人にやさしく

ある朝目が覚めると顔の左半分が全く動かなくなっていた。

数日前からの高熱と、これまで経験したことのないような激しい頭痛にうなされていたが、挙げ句の果てに顔の半分が動かなくなるとは思いもよらなかった。

鏡に映る自分の顔は歪んでいて、強烈なめまいのおかげでぐるぐると世界が回っている。

近所の耳鼻科で診察を受けるとラムゼイハント症候群という病気であることが判明し、2万人に1人くらいの確率でしか発症しない、稀な病気であることがわかった。

顔の麻痺が治らない可能性もあることを告げられた後、大きな病院での治療が必要なため紹介状をもらう。

大きくて綺麗なその病院には、たくさんの患者がいて、たくさんのスタッフが忙しそうに働いていた。

長い時間を待った後、指示に従い必要な検査を一通り受ける。

これまで病院に来ることすら滅多になかったので、そこにいる患者も、働く人たちも、僕の目には新鮮に映った。



「あなたの顔の麻痺は治らない可能性が高いです」

検査結果を見ながら、そう無表情で言った医師は、カタカタとキーボードをタイピングしながら機械のように動いていた。

医師からの言葉を受け止めたあと、自分にかかる地球の重力が少し重くなったような気がした。

僕の麻痺のレベルは10%以下で重症だと言われる中0.3%で、医師も困惑するほどに低い数値だった。

相変わらず続くめまいと吐き気を抑えながら、後遺症についての質問をしたが、医師からの回答は経過を見ないとわからないの一点張りで、その時僕にわかったことは、この人が僕の質問の答えを本当にわからないんだということだけだった。

医師がわからないのであればと、僕はインターネットを使って自分がかかった病気のことを調べ始めた。

ラムゼイハント症候群と調べてまず出てきた情報は、あの有名なジャスティンビーバーも同じ病気にかかっていて、たったの2か月程度でライブツアーに復帰しているということだった。

一方で、何年も麻痺が治らず後遺症に苦しむ人たちの苦痛の声も山ほど見つかった。

顔面神経麻痺を治すことができると豪語する人や、そういった情報は間違いであると批評する人、そんな言葉に戸惑い助けを求める人など、インターネットの中はとにかく情報に溢れ返っていた。

人の苦痛は最もいいビジネスになると聞いたことがあるが、資本主義の現代ではこうも混沌とした状況が一つの病気を取り囲んでいるとは思いもよらなかった。

インターネットで検索すれば大抵の情報を見つけられる世の中で、僕は情報の渦に飲み込まれた。

僕を飲み込んだ情報の渦の中にはいくつか希望のようなものも見つかった。

それは、困難を乗り越えて逞しく生きる人たちの声だった。

実体験から得た経験を語る彼らの声は力強く、過去や未来ではなく今を話すその姿は信用に値するもので、病人を食い物にしたような不確かな情報の百倍、僕に元気を与えてくれた。

「ピンチはチャンス」

なんて言う言葉は幼少期から嫌になる程聞かされてきたが、大人にはそう思う他どうしようもない状況もあるんだなと思った。



自分で言うのも何だが、僕はこれまで一生懸命生きてきた方だと思う。

まじめに仕事をして、休みの日には友達と遊び、空いた時間があれば将来のことを悶々と考え続ける。

常に前に進んでいないとどこか不安で、一箇所に止まっていることに恐れを感じることもあり、友人からは「生き急いでいる」と言われることも少なくない。

病気になり、見舞いに来てくれた人たちから最も言われたことは「とにかく休め」だった。

顔面神経麻痺と共に、平衡感覚も失われたようで、しばらくの間はいつも船の上にいるような感覚が続いた。

なかなかまっすぐ歩くことができず、無理やり長い時間歩こうとすると船酔いのような状態になり、吐くこともあった。

ここまで体が弱ったのは人生初めてで、ただただ戸惑うしかなかったが、いくら友達から休めと言われたところで、早く治さないとという思いは強くなる一方だった。

そんな思いとは反対に、僕の症状は一向に良くならなかった。

医師から最初の3ヶ月でどれくらい回復するかが今後の経過を見る上で重要だと言われていたにも関わらず、3ヶ月後に行った神経のテストでは相変わらず麻痺のレベルは0%のままだった。

今後、この麻痺と付き合っていく覚悟をしないといけないのかという思いが、頭の中をぐるぐる回っていた。



幸いなことに、僕の職場はこの状況を理解し、長期休暇を取得することを許可してくれていた。

何もできないのに時間だけは大量にあるという、これまで経験したことがないような毎日が続いた。

神経のテストでは最悪の結果だったわけだが、体調が少しづつ良くなってきていることは実感していた。

最初はろくに歩けなかったのが少しづつ歩けるようになり、全く動かなかった顔の左半分も、4ヶ月目あたりから少しづつ動くようになってきた。

何より辛かったのは片目が全く閉じることができないということで、「マニュアルで瞬きせなあかんねん」と言って、手で目を閉じる仕草をする僕のギャグに、友人たちは苦笑いしていた。

顔を無理に動かしすぎると後遺症が残るという情報をみて、最初の頃は笑うことさえためらっていたものの、途中からそんなこともどうでもいいような気がして、不自然な顔で笑うこともできるようになった。



これまで僕は、世間一般で言われる障害者と呼ばれる人たちと関わる機会があり、そんな人たちのサポートをする経験もしたことがあった。

ハンディキャップがある中でも一生懸命物事に取り組む彼らの姿に感動し、どうすれば彼らがより生活しやすくなるのか、強く逞しく生きているように見える彼らの生活の裏側にはどんな苦労があるのかと、まじめに考えたこともあり、僕は彼らの理解者だと思っていた。

しかし、実際に自分が体に障害を抱え、その状態で公共の場に出ることになった時、強烈な劣等感のようなものに襲われた。

普通の人が普通にできることができないということが、こんなに苦しいことだとは思わなかった。

人と話す時に顔の半分が動かないと、やはり表情が不自然なわけで、笑いたい時にちゃんと笑えないし、なぜか片目だけ瞬きしていないというのはどこかおかしい。

これまで、顔の良し悪しだけで人の価値を決めることなんて馬鹿馬鹿しいと思っていたが、そんな僕にも見た目を気にする気持ちはあったんだなということを実感した。

世の中には、僕が想像ができないような大変なハンディキャップを抱えながら生活している人たちがいて、その人たちと比べると顔の半分が動かないことくらい大したことではない。

しかし、わかった気になっていても、実際に経験してみないとその本質はわからないということに改めて気づかされた。



「これであんたも少しは人に優しくなれるなぁ」

これは病気になってすぐの頃、母から電話で言われたことだが、病気で弱っている人間になかなかきついことを言ってくれるなと苦笑した覚えがある。

母はもちろん僕のことを心配してくれていたわけだが、彼女は少し癖のある人で、昔から悪気なく棘のあることを言うことがよくある。

その癖はもちろん僕にも受け継がれていて、僕はこれまで周囲の人たちを無意識のうちに傷つけてきたんじゃないかと、今になって思う。

今回のことがあり、もっと優しい人になれるといいなと、僕は本気でそう思った。



膨大な時間の中で、いろんなことを考えた。

これまでのことや、これからのこと。

どれだけ考えても、気付かされるのは結局当たり前のことで、時間は有限であり、人生というのは二度とやり直しができないということ。

こんなことになってもちろん苦しかったが、こんなことにならなければ気づけないことがたくさんあった。

体力があって、健康な時にしかできないことがたくさんあるということ。

健康で普通の生活を送れることがどれほど幸せなのかということ。

金、地位、名誉ではなく、大切な人たちと過ごせる時間が自分にとって最も重要であるということ。

このくらい大きな病気にかからないと気づけなかった自分は馬鹿だなと思いながらも、このタイミングで気づけてよかったなとも思う。

僕の体調は日に日に良くなっていて、顔の麻痺も最初の頃に比べると遥かに良くなった。

今回のことで、失ったものもあったが、それ以上に得たものもある。

これからやりたいことは山ほどあって、体調に気をつけながら少しづつ実現したい。


感謝の気持ちを忘れずに、最高の人生を送ろうと思います。


記事を読んでいただきありがとうございます。