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夢の終わりにみたもの


「プロのダンサーになる」


そう心に決めたのは二十歳の時のこと。

あれから10年が経ち、気づけば俺も三十歳になった。

結局俺は、二十歳の時に思い描いていたような、プロのダンサーにはなれなかった。

努力の量が足りなかったし、努力の方法も間違っていた。

それでも、自分の過程や結果に悔いはない。

三十歳を目前にして、俺は夢を諦めた。

10年という時間は「夢を諦めた」という一言では片付けられないほどに長い。

三十歳の誕生日、今日はせっかくなので、夢を追いかけた日々を振り返ってみようと思う。



ダンスを始めたのは19歳の時のこと。

大学の部活動を辞めて、暇を持て余していた俺に、大学で出会った親友がダンスを教えてくれた。

それまでスポーツしかしてこなかった俺はストリートダンスという新しい世界にのめり込んだ。



20歳になり、大学を休学して、英語を学ぶためニュージーランドでワーキングホリデーをした。

英語が全くできなかった俺を救ってくれたのはダンスだった。

言葉が通じなくても、ダンスを通してたくさんの友達ができた。

大道芸をしながら海外を転々としている日本人ダンサーに出会い、その人に弟子入りして、オークランドの道端で大道芸を始めた。

自分のダンスを見て、目の前にいる人が喜び、それにお金を払ってくれるという体験に衝撃を受けた。

オークランドで開催された、ラグビーワールドカップのオープニングセレモニーにダンサーとして出演することになり、何万人という観客の前で踊った。

あの時にみた光景が忘れられず、プロのダンサーになろうと心に決めた。



21歳、ニュージーランドから帰国したその当日、空港まで迎えに来てくれた大学の同級生達に、プロのダンサーになるという夢を話した。

俺を待っていたのは圧倒的な否定だった。

大好きな仲間たちに、自分の夢を否定された悲しさと、悔しさに涙を流した。

あの時の俺にあったのは、海外で培った無根拠な自信だけだった。

根拠の無い自信はいとも簡単に崩れ去ったが、頑固な俺が夢を諦めることはなかった。

暑い日も寒い日も、バイクで練習場所に向かい、狂ったようにダンスを練習した。

まわりの学生達が就活を始める中、一人だけ違う道を選んだ不安を振り払うには、それしかなかった。



22歳、大学生最後の一年間を無駄にしないため、韓国へ交換留学をした。

古びた学生寮、馬鹿でかいキャンパス、飲み屋だらけの学生街、世界中から集まった留学生達。

一年間の交換留学生活は、言葉では表せないほどに楽しかった。

俺の留学先の大邱は、偶然にもストリートダンスが盛んな街だった。

関西弁を流暢に話すハウスダンスの韓国チャンピオンに出会い、その人にダンスを教えてもらいながら、韓国のストリートダンサーたちと毎日のように交流した。

彼は、各地で行われるいろんなダンスのイベントに俺を連れて行ってくれたり、どんな時も練習に誘ってくれた。

帰国する頃には、韓国のダンサーたちと家族のように仲良くなり、別れをしのんで号泣した。



23歳、大学を卒業し、ダンスのために上京。

浅草にあるダンススタジオ付きのシェアハウスに転がり込んで、人力車夫の仕事を始めた。

人力車夫の仕事は自分に合っていたらしく、入社三ヶ月目にして社内での売上が一位になり、普通の新卒では考えられないほどの給料をもらえるようになった。

昼は人力車夫の仕事をして、それが終わると銀座線に乗って、渋谷にあるダンススタジオに毎日のように通った。

休みの日のほとんどはシェアハウスについているダンススタジオにこもって練習した。

どうすればプロのダンサーになれるのか、どんなダンサーになりたいのかもわからず、ダンスレッスンを受け続けた。



24歳、ただただダンスを練習し続ける日々。

東京のダンス業界にはなかなか馴染めなかった。

ダンススタジオに通うことに意味を感じなくなり、レッスンを受けることを辞めて自分のダンスと向き合い始める。

自分が世界で最も尊敬するフランス人ダンサーとの再会をきっかけに、もともと考えていたアメリカへのダンス留学を白紙に戻し、フランスへダンス留学にいくことを決意。



25歳、人力車夫をしながら貯めたお金で、フランスへダンス留学。

最初はパリの街が自分には全く合わず、何もかもが嫌で、いっそのこと日本に帰りたいと思うくらいだった。

しかし、パリのストリートダンスシーンはまさに衝撃的で、こんな世界が本当に存在するのかと目を疑うほどに凄かった。

自分が尊敬するダンサーたちとコンタクトをとり、レッスンを受けにいったり、練習に参加させてもらったりした。

毎日一緒にダンスを練習する仲間もできて、ストリートで大道芸をしたり、ダンスの大会に出場したり、毎週末クラブに通って、水だけを飲んで朝まで踊り続けた。



26歳、パリでの生活にも慣れ始めて、フランスパン片手に街を歩くことも普通になったし、最初は門前払いされていた高級ナイトクラブにも顔パスで入れるようになった。

語学学校で受付の仕事をしたり、パリで出会った様々なクリエイター達と時間を共有した。

毎日のように起きる、ありとあらゆるトラブルにも心地良ささえ感じるようになった。

フランス滞在中に、これまで自分が世界中で出会った友人達を訪れる、一ヶ月間のバックパッカーの旅に出た。

ヨーロッパ各地で生きる彼らは快く俺のことを部屋に泊めてくれて、街を案内してくれた。

帰国する前、ロサンゼルスでダンスをしている親友の元で三ヶ月間の休暇を過ごした。

個性の強いダンサー四人で暮らしたシェアハウスは喧嘩も絶えなかったが、最高に刺激的な空間だった。



27歳、貯金が尽きて、日本に帰国。

帰国後に転がり込んだのは東京の福生市にある、またしてもダンススタジオ付きのシェアハウスだった。

一人暮らしをしようと思っていたが、次の仕事を全く決めずに帰ってきたので、自分で部屋を契約することさえできなかった。

引っ越してから街をぶらぶらと歩き、目に入ったレストランで面接を受けたら、そこで働くことがすぐに決まった。

米軍基地の近くにあるレストランで働きながらダンスと向き合い続ける日々。

地元の人たちが働き、米軍の人たちが食べにくるそのレストランは、なんとなく居心地がよかった。

都心でのダンスの活動が忙しくなり始めた頃、世田谷区に引っ越して、渋谷の道玄坂にあるバーで働き始めた。



28歳、新しいダンスチームに参加し、アルバイトとダンスの日々。

道玄坂のバーは、まさにゴミの掃き溜めのような場所だった。

酒飲みのおもしろい店長が、やたらと自分のことを気に入ってくれたことと、数少ない気の合う常連客との会話だけが楽しみだった。

バーで朝まで働いて、空いている時間はほぼ全てダンスにあてた。

いろんなダンスイベントに出演するようになったが、チーム内で感覚のズレが生じることが多くなり始めた。

方向性の違いという、よくある理由でダンスチームが解散。

自分には合わないダンス業界に身を置き続けることや、深夜のバーで酔っ払いに絡まれ続けることに疲れ果てた。

外資系IT企業の採用試験を受けてみた結果、契約社員として採用になった。



29歳、感染症が世界的に流行、日本のダンス業界が完全にストップする。

毎日部屋で過ごし続ける日々は悪くなかった。

好きな音楽を聴いて好きに踊り続ける。

自分だけの世界。

あっという間に入社から一年が経ち、気がつけば正社員になっていた。

人生初めての正社員。

気がつくとダンス業界とはほとんど関わりがなくなっていた。






そして、三十歳を迎えた。



俺が二十歳の時に決めた、プロのダンサーになるとはどういうことかというと、ダンサーとして収入を得て、ダンサーとしてご飯を食べていくということである。

しかしある時、俺はダンサーの仕事だけで生計を立てるということに、全くと言って良いほど魅力を感じなくなってしまった。

自分のダンスを深めていくと、ダンサーの仕事の中に、自分のやりたい仕事がほとんどないことに気がついた。

自分のダンスを深めれば深めるほど、ダンスを仕事としてではなく、自由にやり続けたいと思うようになった。

若かりし頃の自分は、ダンスを極めるということは、プロのダンサーになるということだと思っていた。

しかし、プロを目指せば目指すほど、自分のやりたいことから遠ざかっていくような感覚に苦しくなった。



三十歳になり、二十歳の時に決めた、プロのダンサーになるという夢を諦めた。

正確に言うと、ダンサーの仕事だけで生計を立てることを諦めた。

大好きなダンスを辞めるわけでもなく、ダンスが自分の表現方法の一つになるという、ただそれだけである。

これまで、二十歳の時に決めたプロのダンサーになるという夢を追い続けてきた。

夢を追い続けるということは、自分にとって自由なことだと思っていた。

しかし、夢を諦めることによって、自分がもっと自由になれるということに気がついた。




俺はこの10年間で起きた全ての出来事に感謝している。

世界中で起きたいろんな出来事は、ダンスが俺に与えてくれた奇跡だ。

この10年間、夢を追い続けた自分を誇りに思う。

また10年後、自分を誇れるように、俺は今日夢を諦める。

そして、また新たな夢を追い続けようと思う。




記事を読んでいただきありがとうございます。