見出し画像

神の家

 今日はフラットシューズでよかった。

 目的の場所がこんなにも遠いとは思わなかったので、助かった。でも、帽子も持って来ればよかったのに。薄い雲間から差す、やわらかな光も長時間浴びれば肌を焼くだろう。

 そんなことを考えながら人通りのない道を歩いていると、地下道の入口が現れた。駅でもらった地図によると、その地下道をくぐれば、目的の場所にたどり着くようだった。

 階段を下ってゆくとだんだん空気が冷たくなり、汗ばんだ夏の肌を急激に冷ます。よかった、そんなに日焼けしないで済むかも知れない、私はそう思いながら、向こう側の光を目指した。

 地下道を抜けると、目的地である塔がすぐ目の前に現れる。

 石造りの堅牢なその塔は、こちら側の街と、あちら側の森を隔てる円形の広場の真ん中に、すっくりとそびえていた。広場は少なくない人々でにぎわっている。

 仕事が早く終わってよかった。ここはこの辺りでは有名な観光地なので、出張が決まった時から、時間があれば寄りたいと思っていたのだ。かばんを抱え直し、塔に向かって歩く。

 塔の入り口に続く階段を登っていると、ひとりの男の子が、

「僕、三分で登ってみせるよ」

 と父親に向かって叫んでいた。

「階段で走ったら危ないよ」

 父親は言ったが、

「大丈夫、いっつも学校の階段も走って登っているから」

 と彼は言い返す。

 私が眺めていることに気が付き、父親がこちらに向かってほほ笑む。

「元気ですね」

 そう言ってほほ笑み返すと、父親は困ったように、

「ええ、わんぱくで手を焼きますよ」

 と言った。男の子の方もこちらを眺めている。私は膝をかがめて、

「今何年生なの?」

 と尋ねた。

「一年生」

 彼は答えた。

「そっかあ、お父さんとふたりで遊びにきたんだ。いいねえ」

 そう言うと、彼は本当にうれしそうに、にっと笑った。

 塔の中は螺旋階段になっていた。男の子は途中までは父親や私と一緒に登っていたが、中ほどで走り出し、先に登る人を押し分けて見えなくなってしまった。

「こら、危ないからやめなさい」

 父親は叫んで、すみません、と言いながら彼を追いかけて行ってしまった。

 私は再びひとりになってのんびり登っていたが、少し疲れて立ち止まり、壁にうがたれた窓から外を眺めてみた。薄曇りの空は光に満ちていた。

 少し呼吸が整ったので、また登り始める。

*************

 私は階段を下りていた。

 いや、私は登っていたのではなかっただろうか? しかし、階段を下っている。

 突然、大きな音が辺りに響いた。雷のような音で、私は手で耳を塞いだ。辺りの人々も皆体を丸めている。

 その音が止み顔をあげた瞬間、脳裏に、塔のてっぺんで稲妻に男の子が打たれた映像がひらめいた。

 あの子は死んでしまった。

 私はなぜか、そう確信した。

 窓から外を見る。塔の周りの広場には、大きな音が轟きわたっていた。それは地響きのように低い低い声のようだった。しかし、ここは地面からあまりに遠く、その声の言葉の内容が聞き取れない。

 その声が途切れないうちにと、急いで階段を下る。その声は、恐らく、あの子が死ななければならなかった理由を語っていた。私はそれを知りたかったし、知らなくてはならなかった。同じように塔の上を目指していた者として。

 しかし、間に合わなかった。ようやく私が下にたどりついたころには、広場には声の余韻のような地響きが、途切れ途切れに響き渡るだけだった。

 人々は次々と塔から出てきて、肩をすくめながら足早に去ってゆく。

 でも、私は塔の入り口に腰を下ろした。

 聞き逃した神様の声を、もう一度聞くために。

 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?