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残像とポストカード

人との出会いを、簡単には言葉にしたくない。

「○○さんのどういうところが好き?」「あなたにとって○○さんは、どんな存在?」といった質問はあまりに一般的だが、問われる私はとても不自由で居心地の悪い思いをする。

その人と私がどういう関係にあるか、私がその人に対してどのような思いを抱いているかなど、簡潔に、そして完璧に語ることはできないと思っている。

語るときにみる「残像」

そもそも「その人」と「私」について語るとき、目を向ける必要があるのはその2人だけではない。親友、初恋の相手、中学時代の教師、親、同僚など、ほかの人間たちと自分との関係を振り返りながら考える。

「その人」はただ1人の人間だが、私の中のその人は、その人のみではとらえられず、存在しない。私が経験したさまざまな出会いの中にその人はいて、幾人もの残像を通して私はその人を見る。

そしてその人もいずれ、残像のひとつ、さまざまな出会いのひとつになっていく。

質問者は、私のまぶたの裏で駆け巡っているこうした残像を知らない。知らないし、知りようもない。結局相手が知りたいのは「今」であり、目の前にいる私が何を言葉にするのかに関心があるだけだ。

景色を伝えるときのもどかしさ

一方で、立場が変わったとき、人は気づきを得ることが多い。

これまで出会った人や経験したこと、それらを自分の目から見た「景色」とするならば、その「景色」を共有していない人に、こちらの考えや意見を伝えることはなかなか難しい。

ごく一部を切り取って伝え合うしかない、と実感すると、「相手もまた同じもどかしさを感じているのではないか」と想像できる。

このもどかしさについて考えるとき、「自分が感じていること、見ているものを伝えようとするのは『ポストカードを贈る』という行為に近いのではないか」と思い至った。


旅先からの贈りもの

4年半で80枚のポストカードを受け取ったことがある。

送り主はすべて同じ人物だ。少しよりももう少し前まで、その人物は私のパートナーだった。

その人は旅先からいつも必ずポストカードを送ってくれた。近県より、少し遠くから届くものが多かった。句でも詩でもない、コピーのような一言と手描きの地図が添えられた。大きな災害のあった地域から届いたものには、長く長く想いが綴られていた。

同世代の交際相手からこうした贈り物をもらうのは、そうあることではない。写真や動画も届いたが、彼の主な表現手段はポストカード。旅に出る、と聞くと『今度はどこの消印が押されるのだろう』と楽しみになった。

その土地の写真や絵、ときにはホログラムやヒノキでできたカード。個性豊かな景色が、時間をかけて私の手元に集まってきた。

80枚にもなったポストカードを見て、考えることがある。

それぞれのカードを書いたとき、彼は何を思っていたのだろう。4年半の間、私はそれらを受け取っていたけれど、実はよくわからない。

ただ「ここにいるよ」と伝えたい気持ちを感じることもあれば、そうではない何かを感じることもあった。

私は彼の思いの送り先であって、受け取り先ではないのだということも。


きっと、私と彼の間に必要なのは、「景色を見せあうこと」ではなかった。

自分が感じているものの一部を切り取って、手渡すことではなかった。渡したからには理解してもらえただろうと思うこと。それは「手渡す」ではなく「手放す」というのだが、とにかくそういうことではなかったのだろう。

「私と彼」と書くのは、自分本位だと思い直す。手放していたのは、私だった。手渡された景色をよく見ようともせず、そのくせ景色に勝手な名前をつけて回るのだ。

彼は本当に、ポストカードの角度からその景色を眺めていたのだろうか。迷いなく選んだのだろうか。それを贈ることを。


見えない「残像」を

自分の中に迷いが見えると、人の迷いにも気づけるのかもしれない。

私は、今見えるものより、その人の「残像」を見たいと思うようになった。しかしそれは、なかなか見えない。何しろ本人でさえ、自分がいくつもの残像をとおしてものを見ていることに気づかないのだ。

私が見ようとするものは、その人のためらい、迷いの中に漂流している残像の可能性に過ぎない。


差し出すポストカードに、残像の存在を感じさせない人も時々いる。

私はそうした人々が、少しだけ苦手だ。

苦手というより、こわくなってしまう。その人は残像を隠したいのかもしれないが、場合によっては「これが自分のすべてだ」と思っているのかもしれない。

生きているとさまざまな経験から残像が生まれ、積もっていくのではないか。そう考えている私は、何の迷いも表出させずに差し出されるポストカードにとまどいを覚えるのだろう。

そしてこの苦手意識が覆される可能性があるのも、私は知っている。

「残像の存在を感じさせない」という印象を抱いていた相手にも、実は長い長い物語があって、やはりその人なりの残像が積もっている。初めに感じたこわさ、不安が永遠に続くとは限らない。

待っているかもしれない驚き

今見えているもの、自分が感じていることはきっとほんの一部なのだろう。そうとらえる余裕をもっていたい。

少し先に待っているかもしれない驚きや喜びに、願わくは出会えるように。少なくとも、出会えたかもしれない何かを、初めから「ない」ことにはしないでおこう。

そんなふうに考えている今は、この景色は、限りなく鮮やかな私の残像になりそうだ。



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