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「好きです」と手紙を書いたこと

「好きです」と伝えたくなった

先日、ある人に手紙を書いた。

知り合って数ヶ月ほどの相手に「あなたが好きです」と伝える手紙を。

トピックとしてそれがメインではあるのだけど、自分がその人に感じているリスペクト、感謝のような気持ち、教えてくれた本を読んだ感想も書いた。

手紙なんて書いたのは久しぶりで、でもそうしたかったのは、手で書きながら考えたかったから。フリック操作だと、読みやすさを重視して簡潔にしてしまいそうだったから。

そんな自己満足で10枚にわたる手紙を書いた…という事実を文字にするとびびる。自分の気持ち悪さにびびる。

でも受け取ったその人は、丁寧なお返事をくださった。

文面から、(唐突な好意の発露をされて困ってしまっただろうに)気持ちを受けとめてくれたこと、その人も私をある意味で特別なとらえ方をしてくれているということが伝わってきた。

どんな特別かということについての相手の言葉は個人的宝箱にしまっておく。

でも私は嬉しかった。

そして、「私は、恋愛感情がほかの感情の上にくるものだと思っていたのかもしれないな」と自分に対しての仮説をもった。

というのも、相手が自分に対して恋愛の“好き”は抱いていないことを元からわかっていたし、自分もまた恋愛の“好き”を抱えていたわけじゃないのだと思うのだ。

ここで「意味わかんないんだけど」と突っ込みをくれる人もいるだろうな。

わかる、とてもよくわかる。

「恋愛じゃないなら、なんで『好きです』なんていう手紙を書くのか」という疑問がある。

この手紙の目的は何だ?

私自身、「手紙を書きたいと思ったけど、何が目的なんだろう?」とか「恋愛じゃない気がするのに、どうして好きだと伝えたいのだろう」とか、もやもやしながら書いた。

実際、手紙に「私と付き合ってください」のようなことは書いていない。ただ、その人のどんなところが好きか、ひとつ書いただけ。相手に何か決断を求めるようなことをしていない(たぶん)。

振り返れば振り返るほど、本当に自己満足なものをこさえたもんだと思う。

ただおそらく、それでも書いてしまったのは、「明日死ぬかもしれないから、恋愛でもそうじゃなくても、この人に好意を伝えたい」と思ったから。

考えてみてほしい。

好きな活動や食べ物を語る時、躊躇する人がいるだろうか?「映画が好き」「カレーが好き」と言えない人がいるだろうか?

なかには、「マニアックな好みなので…」といった理由をつけて、言いにくいと感じる人もいるだろう。

でも大方、その対象に向けて「好きだよ」という気持ちを隠そうとは思わないのではないか。

つまり、カレーに対して「私が好意を持っているということを、こいつ(カレー)に悟られないようにしなければ」なんてことを思う人間は見たことがない。

でも、対人間だとどうだろう?

好きな気持ちを悟られたくない、あるいは、知ってほしいけどなかなか言えない、ということは多いのではないか。

でも、人間はいつ会えなくなるか、話せなくなるかわからない。相手を尊敬していたり感謝していたり好意を持っていても、どちらかが今日にでもいなくなってしまうかもしれない。

そんなことを急に感じて(教えてもらった本の影響もすこしある)、好意を伝えねば!と筆をとったのである。

だから、手紙を書いた目的は「好意や感謝を伝えること」だけだったように思う。

わかったのは、自分の気持ちだった

先ほど書いたように、相手からは恋愛の“好き”とはちがうとらえ方で見てくれているということがお返事でわかった。

それはショックでもなんでもなくて、私も了解していたように思う。その人なりの言葉で、どんな関係でありたいかを伝えてくれたことがなにより尊いなと感じた。

でも、もっとすとんとお腹に落ちたことがある。

それは「私は、自分のこの気持ちが恋愛の“好き”だったらよかったのに」と少なからず感じているということ。

なぜか、相手からもらったお返事を読んで、自分の気持ちが前よりわかった。

友情でもなく恋愛感情でもなく、まあ強いて言うなら友情のほうに近いんだけど、もっと言うなら「眩しい仲間」のような存在に抱く感情。

そういうものを抱いているんじゃないかなあと、今は思っている。

それでも、恋愛だったらよかった?

一方で不思議なのは、失恋したわけじゃないはずなのに、失恋したような感覚もあるということ。

その理由を考えていて、見えてきたものがある。

このcotreeのなかむらさん、素敵な思考の持ち主だなあ、それをまた素敵に文章にする方だなあと思う。

わたしは、「好き」のその先に何を求めていたのだろう?と考えるにあたりこの投稿がヒントになった。

たぶん、もっと(あるいは程度というよりこれからも、という継続の欲求)親しくなりたいと思う時、その感情は恋愛の“好き”じゃないといけない。恋愛の気持ちが、ほかの気持ちよりも質が高い。そう思い込んでいたのではないか。

たくさん話しかけたりおでかけに誘ったり、そういうことをしてもいいのは、恋愛関係にある場合なのではないか。

だったら、この気持ちが恋愛であればいいな。

そんなふうに思っていたんじゃないかと思う。

でもよくよく考えたら、恋愛関係だからといって、無限に相手の時間を割いてもらっていいわけじゃないし、恋愛関係じゃないからといって、遠慮する必要はない。

考えればそう、人と人との関係性なんて、ひとりひとりがつくっていくものなのだ。

昔々から「友情」「友達」だの「愛情」「恋人」だのいろいろと感情や関係性に名前がついていて、そこから選ばないといけない気がしてしまうけれど、そんなことはまったくない。

だから「仲良くする」「付き合う」にもそれぞれが抱くイメージがあるのだと思う。

結局、自分のことも完全にはわからない

ここまでわかったようなことをさらさら書いてきたけれど、実は完全にはよくわからない。

「関係性は与えられるのではなく、つくるもの」という自分の信念のようなものの再確認にはなったけれど、手紙を書いた前後のことを、完全には整理できない。

今ちょっと思ったのは、「いや普通に失恋したんじゃないか?笑」ということ。

まだまだ自分の解像度、相手の解像度、ぼやけてばかり。ぼやかしていたい時もあるけれど、ちょうどこの土日で私がやっていきたいことが見えてきたので、この「解像度」を鍵に次の投稿を発信したいと思う。

関係性のことを考えているすべての人、なかむらさん、そして妙な手紙に向き合ってくれた相手の人、あとはその他すべての個々の人に感謝したい気持ちになった。

個々のみなさん、よい1日を。


#エッセイ #関係性 #恋愛




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