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すごくないけど、面白い人。
最近、自分の好みについて気づいたことがある。
人間に関する好みだ。
ちょっとメモしておきたい。
所作が綺麗な人
指先の所作や物を置く所作など、つい見てしまう。この数年、そんな傾向がある。
所作には、心の状態が出ると思っている。自分自身、心に余裕がなくて雑になってしまう時もあるのだが、物を大切に扱ったり所作が静かな人と一緒にいると気持ちがいい。
なるべくそういう人と一緒にいたいし、自分もそうでありたい。
姿勢がいい人
販売員の仕事をしていた時、職場で「あおやぎさん、もっと姿勢をよくしたらもっと綺麗に見えますよ」と教えてくれた方がいた。
普通に背筋を伸ばしている時と、もっと意識して背筋を伸ばしている時。それぞれのわたしの写真を撮って、見せてもらった。
これが、驚くほどちがう。それ以来、人の姿勢が気になるようになった。
人生に前向きで、「いろいろあるけどまあなんとか楽しくやってます」みたいな人には、何故か姿勢の良い人が多い気がする。
ちなみに、姿勢をよくしていただけで、私は少し痩せた。腹筋の筋肉痛も味わった。それまでどれだけたるませていたのだろう。
すごくないけど、面白い人。
世の中には「すごい人」と言われる人がたくさんいる。
世界最年少で〇〇、日本一の〇〇、学年で〇〇、だれだれの〇〇に認められた実力、合格率数%の試験を突破、などなど。
「すごい人」というのはきりがなく、本当にたくさんいる。
でも不思議なことに、私はそういう人に出会っても「すごいなあ」と思うものの「好きだな」と思ったことがない。
もちろん、すごいと思う=好き、ではないのは私だけではないだろう。文字にしてみると当たり前のことのようだが、なんだかこれは面白いのではないかと思った。
むしろ自分が(人間として)好きになるのは、
「すごくないけど、面白い人」な気がする。
なんてことないことしか言わないしやってなさそうなのに、よく見ていると面白い。そんな人が時々いる。
そういう人たちは私が思うに、たいていさりげなく生きている。自分の興味のあることにはアンテナを張っているけれど、それをひけらかすことがない。
でも結構な割合で、他人のアンテナにも柔軟に対応する。「それ、面白いの?どうして?」と聞くことを厭わない。
人は人、自分は自分だけど、面白そうなことをしている人にはそっと近づいて、それとなく一緒に遊び始める。そんな印象がある。
人間っていいな
最近、いろいろな人と接する。
エネルギーを消耗するときもあるし、エネルギーを分けてもらうこともある。
いろいろな人と接するのは私だけじゃないし、私が取り立てて特殊な経験をしているわけでもない。
それでも1日1日、印象が違うのはおもしろい。そしてその日の印象は、その日どんな人と接したか、そこでどんなことを感じたかによって変わるのではないだろうか。
いろいろあるけれど、いろんな人と出会うこと自体が積み重なって人生になるなら、どんな人と出会っても怖くない気がする。
すごくいいことがあったわけではないけれど、「人間っていいな」と思えた1日だった。
おわりにー驚きのまとめー
「おわりに」のはじめに謝りたいのだが、
まずこの文章の構成が書き始めと最後で全く変わってしまったのでごめんなさい。
誰にも謝らなくてもいいというか自分のために書いているようなものなのだが、それならそれで未来の自分に謝りたい。
「自分の好みみーつけた」と始めておきながら、最後は何故か「人間っていいな」と啓発的な雰囲気になり、「すごくいいことがあったわけではないけれど、『人間っていいな』と思えた1日だった」と日記ふうで終えている。
さて読み直して…というところでこの行き当たりばったりな文章に気づいた。なぜ。
こういう振り返りをしていていつも思うのだが、「時間をかけてきちんと構成して書くべき」と「細かく気にせずとにかく感じたことを書くべき」のどちらの声を大切にしたらいいのだろう。
どちらも自分の声だが、今のところ後者が勝利する文章が多い。言い訳だが、前者が勝てばきちんとした構成で、言葉も練って、もっと読み応えのあるものが書けるという自信はある。
だがあいにく前者が弱すぎる。なぜ。
せっかく「人間っていいな」だったのに、今度は自己肯定感がゆるやかにダウンしてきた。
前者と後者、一度じっくり腹を割って話し合わせてみたい。
読んでくださってありがとうございます!