承認欲求のいいね漬け

SNSでいいねをもらうとなぜだかちょっとうれしい。
自分の投稿が何かよかった気がしてくる。
そしてだんだん他人の「いいね」に寄っていく。
こうしたほうが「いいね」をもらえるんじゃないか?
あっこれつぶやくと「いいね」をもらえそう!!
そんな視点で人生を見てしまう。
しかしそれは本当に自分の人生を生きているのだろうか?

NHKの「100分de名著」という番組がある。
週1回月曜日の夜に教育テレビで放送しており、全4回に渡って1ヶ月かけて1つの歴史的名著を専門?の人が解説してくれる。
今月の名著はハイデガーの「存在と時間」だ。
ハイデガーは「存在」という概念の根本を問いただすところに問題設定を置いた。
これが実に歴史的偉業のようだ。
それまでは「存在する」という事象は自明のものとして片付けていた。
その存在について問い直すという試みは「現存在」と呼ばれる「存在を認識できる存在=(人間)」を分析することから始まった。
現存在は本来性と非本来性に生きることができるという。
だいたいの人間は非本来性に生きている。
本来性に生きるということは自分の人生に責任を持ち、自分の生を生きること。
非本来性とは、世人と呼ばれる存在しないみんなの空気のようなものに従って他人からどう見られるかを気にして生きることである。
本来性に生きるためには死という交換不能な可能性を受け入れる「先駆」と良心の呼び声に従う「決意性」を合わせた「先駆的決意性」を持たなければならないそうだ。

話がそれたので戻すが、私が言いたいのはSNSのいいねに浸るという行為はこの世人に流され非本来性に生きるということに重なるのではないか、ということである。
全然自分らしく生きることではないのである。

自分の好きなことをしていいねがもらえればそれが一番いいのかも知れない。
いや、いいねを気にして投稿している時点で誰かに見てもらい認めてほしいのだ。
SNSにあげるという行為は別に全くしなくていい行為である。
SNSなんてものが登場したのはせいぜい20年の歴史もないだろうしそれまで人間は誰にいいねを押されることなく生きてきた。
他人の反応など気にせずに生きられればどれだけ楽だろうか。

そういいつつ私はこうやってnoteを書きながらこの文章に「いいね」を待っている。
私の承認欲求は「いいね」という麻薬に依存しきっている。
承認欲求のいいね漬けだ。
非常に不味そうな料理名みたいになってしまった。

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