だから魂のこもる創造物は尊いのだ

ヘラクライトスは、「運命は性格にあり」と言った、そう言ったのは小池晶子さんだ。
本当にそうなのか?何もしなければ、どんな答えも分かるべくもない。
でもどうやって?小池さんの引用をもうしばらく続ける。
「これと同じことを小林秀雄が言っていました。「彼は科学者にもなれただろう、軍人にもなれただろう、しかし、彼は彼にしかなることはできなかった。これは驚くべきことではないか」。そういうふうに、彼は魂としての存在の謎を述べたのです。
何にでもなれるけれども、その人はその人以外になることだけは決してできない。
これは本当に驚くべきことです。何をやってもその人のするようにしかできないんですね。まったく当たり前ですけれども、事実はそうですね。」(小池晶子『人生のほんとう』)
運命は性格にあるのか,いやそもそも,「わたし以外にはなりえないわたし」とは,どういうことなのか。

西田幾多郎(1870~1945)の次の言葉がある。
「人間は人間自身によって生きるのではない、またそれが人間の本質でもない。人間は何処までも客観的なものに依存せなければならない。自己自身を越えたものにおいて自己の生命を有つ所に、人間というものがあるのである。」
人間の単位で見るとその運命は生きて,死ぬことである。
万物はそうして常に形を変えてゆき,自然の中に「わたし以外にはなりえないわたし」の存在はある。

「君を知る」わたしの現実の中のわたしは,君がこの世からいなくなっても,「君を知っていた」わたしの現実を,引き受けて生きてゆく。

君の身体には限りがあるが,わたしが消えるまで,君はわたしの中に生きている。

わたしの中の君は,わたし以外に持つことができない。
よってわたしの方法でしか,君を抱きしめる事はできない。

ものごとをどのような方法でどのくらい類別化し,相対化し,絶対化してゆくか。
なにを追求しなにに溺れるか---
わたしの意識が働くまで,事象はわたしの現実には存在しないし,どのような性格を獲得するにせよ,
「わたし」という絶対の存在がそれをいかようにもしているようにも思う。

その,いかようにもしている「わたし」とはいったいなんなのか。

フロイトという,精神分析学を創始した有名な精神科医がいる。
彼は自我あるいは自己について,”心的構造論の中で,外界からの要求から生じる精神力動的葛藤を現実原則に従って調整する機関である” と言った。

同じく分析心理学を創始した精神科医,ユングの分析心理学では,自我あるいは自己について,”自分の存在についての一般的認識と記憶データからなる資料の複合体で,意識の統合の中心” であると定義している。

しかし,”外界からの要求から生じる精神力動的葛藤を現実原則に従って調整する機関”が自己(わたし)であるなら,
Ⅰ 外界からの要求が感じられない,また,精神の力動的葛藤が生じない人には,「わたし」という自我は無いのか。
Ⅱ その場合,何によって「わたし」が保たれる(ものを考える)のか。
Ⅲ ”外界から要求される主体”と”現実原則を取り入れる主体”を調整する主体とはつまり,自我を用いて自我でないものを志向するのが自我なのか。
(「調整する」のが「自己」なら,「あんなふうに」調整しようとする自己は自己でないもの
を目指しているということであり,調整された「あんなふう」な自己はどうして自己といえるのか)

”自分の存在についての一般的認識と記憶データからなる資料の複合体で,意識の統合の中心” であるなら,
Ⅰ 「自分の存在についての一般的認識」は何を参照していつ生まれたか。
Ⅱ それが外界を参照してきたとして,参照する外界の中に自我はないのか。
Ⅲ 外界の中の自我があるとしたとき,それらを統合する自我のとの間の,
どこが”意識の統合の中心”というのか。
Ⅳ たとえば,「一般的認識」を保つことが難しい場合,---たとえば,統合失調症の患者さんや,認知症の患者さんの意識のように---記憶データを保持しえない場合,彼ら---統合失調症の患者さんや,認知症の患者さん---には,自我がない
と言えるのか。
(※統合失調症の患者さんにはよく,自我障害がみられるが,その自我意識の変性についての推察は,ここでは省略する。)

「自己についての一般的認識(アイデンティティ)」は,周り(外界)との関係において形成
され,それを統合する「わたし」が存在(実現)し,それを認識する自己こそが,「わたし以外に,なり得ないわたし」を担保しているのではないか。
このことを小池さんは,こう表現したのではないか。

「何にでもなれるけれども、その人はその人以外になることだけは決してできない。」

つまり,「なにを行ったか」が人の固有性を形づくるのではなく,行ったことの中に,固有性は「わたし」として創造されるのではなかろうか。

「創造」をごく簡単に説明しているところでは,「新しいものを生み出すこと」とあり,もう少し辛抱強く調べると,「新しい精神の発見」という表現がなされている。
わたしは「わたし」として創造され続けているのだから,他の何にもなりようがない。

個人の感覚的な話になるが,人は「喪失したわたし」をベースにわたしを創造する。
創造はたいてい,なんらかの付加価値を生む。
それを,わたしは魂というのではないかと思う。
失ったなにかから新たなわたしが生まれ,それに魂が宿る。

だから魂のこもる創造物は尊いのだ。

何かを失った事実などは消せはしない。
失った自然に対して,人は取り戻す術はないが,考えることはできる。
繰り返すが,喪失に対するフィードバックとして,「創造」があるのだと思う。

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