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久しぶりに思い出した祖父との記憶

昨日は祖父の命日だったらしい。「らしい」というのは、母が思い出したかのようにふとつぶやいたからだ。昨晩に速報ではいってきた田村正和さんの訃報を伝えるニュースを見て思い出したらしい。

祖父を一言で表すと、The・昭和な男である。造園業を営み、家族と従業員を養い、夜になれば近所の仲間が遊びに来て宴会が開く。とても派手である。そして怒りっぽいことでも有名だった。気に入らないことがあれば怒鳴り、ときにはちゃぶ台をひっくり返し、手を上げることもしばしば。そんな環境で育った母は毎日ビクビクしながら過ごしていたと言っていた。

わたしも怒られないようにとって小さいながらに祖父の様子を伺っていながら過ごしていた。だけど、わたしにとって祖父は怖いだけの存在ではなかった。妹の出産で母が里帰りしている間、暇している私を仕事場に連れて行って遊ばせてくれていた。毎日「現場に行ってくる〜」ってさくらんぼのお気入りのワンピースをきて、元気に出勤していた。一緒にコマで遊んでくれたこともある。祖父はコマ回しが上手だった。紐の上でくるくると器用にコマを回している祖父に感動したことを覚えている。祖父はおじいちゃんとして私のことをとても可愛がってくれていたし、伺いつつも私は祖父になついていた。

そんな穏やかな時間も祖父が病気になってからはままならなかった。がんが発覚して、それが完治しても、その手術の後遺症やまた違う病に何年も何年も悩まされていた。自分の体調が悪いと機嫌も悪くなる。看病する祖母たちも疲弊していった。「もしものとき、延命治療をするか」医者からたずねられたとき、子供ながらにそれを断ろうとしている雰囲気を感じた。それは祖父の意思というよりはその家族たちの気持ちが尊重される瞬間だった。長年の看病の疲れ、厳しかった祖父への恨みがそこに現れているようで、切なかった。

いろんな機械に繋がれ、胃ろうをし、気管切開してしゃべることすらできない。そんな祖父の姿を見るのは辛かった。正に機械に”生かされている”状態。人の最期はどうしようもなくて、お見舞いにいってもうまい言葉ひとつ掛けられないただ立ち尽くす。そんな自分がすごい嫌だった。無力だった。

祖父がなくなったとき、これまで感じたことない空虚感を覚えた。長い闘病生活から楽になれたんだなっていう気持ちや、これで祖母もみんな祖父から開放されるんだなとか。もう会えない悲しみとホッとした気持ちがまぜこぜになったなんとも言えない気持ちだった。不思議と涙は出なかった。

あれから13年。祖父と一緒に過ごしてきた時間と同じだけ、祖父のいない世界を生きてきた。時のながれの早さを感じつつ、その分だけ思い出が丸く温かいものになっているような気がする。母や祖母だって「おっかない人だったね〜」とは言うものの、それは辛かった大変だったあのときの記憶を思い出して互いに懐かしいんでいるようにみえる。わたしの思い出の中の祖父は時間とともに色あせてセピア色のようだ。怒られた記憶だって、今や淡く優しい時間をすごしていたように感じる。記憶の中の祖父にあえて嬉しい、25歳になったわたしは今そう感じている。

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