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ドイツ日記|海外留学という家出 2024.04.19

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 ドイツに来て、自分が適応出来なかった「日本社会」の要素の一つひとつが粒になって言葉になってきた。日本にいた24年間、「そういうものだから」と押し込めていたものがむくむくと膨れ上がってきた。もっと言えば、「日本人」の中にいると、どことなく居心地の悪さを感じていたことに気付くに至った。ドイツにいて、日本人のことをすこし嫌いになった。

 日本社会に適応出来ていないと感じていたことも、それがバレないように、集団の中に積極的に埋没しようと努める自分に対しても、うす暗い後ろめたさを感じていたし、日本や日本人に対するネガティブなイメージはそのまま自分にも当てはまる。

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 YouTubeの動画で、Amazonから届いた商品を開封していたり、友達がInstagramで「22時にスーパー閉まったら夕食どないせえっちゅうねん」とストーリーを上げたりしていて、もうそういうのはやめようよ、と思った。
 そのストーリーは冗談半分だったとしても、周りを見渡すと過酷な労働環境で精神を壊している人があまりに多い。軽自動車に小包をパンパンに詰めて地獄のような再配達をこなしている人や、見向きもしない客に対して「いらっしゃいませ」「またのお越しをお待ちしております」と立ってお辞儀をし続けている人がいるなんておかしい、とこっちに来て思うようになった。

 自分がちょっと無理して大変な思いをして労働するようになって、それに慣れてくると、「お金払ってるんだからサービス受けて当たり前」、「仕事なんだからそれくらいしてもらわないと」と思うようになってしまう。そうやって他人に厳しくなってくる。

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 社会をちょっと便利にするために人間性を剥奪されて酷使されるなら、人を酷使するのが当たり前になってしまうくらいなら、そんな社会なくたっていい。「楽しいとか楽しくないで仕事してない」と思ってたけど、楽しくない仕事はもうやめたいし、せめて楽しくなくても報われる社会であって欲しい。
 教師、幼稚園教諭、看護師を始めとするエッセンシャル・ワーカーの待遇の低さに、日本社会の未成熟さが映っているような気がする。そこに金かけてくれ。収支報告の分、全部彼らに回してあげて欲しい。お上である政治家が叩かれないのも嫌だった。

 国立大学に行くのにも年間50万はするし、博士人材は冷遇されて、金にならない学問なんて要らない、文化なんて必要ないと芸術や音楽には金をかけないくせに、やれノーベル賞だの、首相が「うちで踊ったり」だのしていて、その欺瞞にはいつも怒っていた。

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 でも、日本で政治の話はほとんどしなかったし、「仕事が楽しくなくて」とか「実は哲学が好きで」だなんて、世間で話せることじゃない。バカロレア試験で哲学が必修科目であるフランスを、名だたる哲学者を輩出しているドイツを、ただ羨ましく思って、日本はいやだと言う割になにもしなかった。

 なにもしない代わりに、「社会はそのように出来ている」、「そういうふうに回っているんだ」と信じることで目を背けていた。そうやって割り切っていた。長時間労働を耐え忍ぶことも、便利さのために他人に労働を過度に強いることも、日本社会の矛盾を見て見ぬ振りしないとやっていけなくて、そのこと自体も、それを諦めてる自分も嫌いだった。「もっと早く届けてよ、Amazon」と思っていた自分の欺瞞をうすうす感じていた。

 でも、割り切ってなにもしてないと、矛盾で満ちた社会を容認しているようで、社会と共犯関係になってしまうことが何より嫌だった。もう嫌なことばっかり。

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 だから、慣れ親しんだ言語と土地で、ほとんどが同じような背格好と彫りの深さで落ち着くし、コミュニケーションは最低限でよく、言わなくてもだいたい分かってくれて、住み良い実家だったけれど、日本をずっと出たいと思っていた。はやく楽になりたかった。

 自己主張の強い海外勢に押されて言いたいことが言えずに後悔したり、ずばっとNoを突きつけられて凹んだりした時に、家を出てよかったと思う。
 学校の授業でも、クラスメイトは分からなければ「分かりません」と言う。遊びの誘いも、気乗りしなかったらNoって言う。「う〜ん、ちょっと…」とか「そうですね…」とか濁す必要はなくて、言いたいことをそのまま言っても人間関係はびくともしない。「言わないと伝わらない」のが共通理解としてある。逆に言えば、なにも言わなければ、了承しているか、なにも考えていないのと同じになる。加えて、クラスメイトや先生と話していて、よく「どういうこと?」「ちょっと理解できてない」と言われる。中東、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、アジアからも人が来ているから、「聞かないと分からない」と皆思ってる。理解するために聞くこと、聞き返すことが許されている方が安心できる。

 臆病なせいもあるだろうけど、日本では「どういうことですか?」って聞けなかった。相手を困らせちゃいけないって思ったし、分かって当たり前のような雰囲気もあったような気がする。気のせいだろうか?ここでは俺は外国人だから、馬鹿のふりが出来ていい。聞き取れなくても怒られないし。

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 日本のような共有されたマナーや規範はなくても、対人のコミュケーション能力の高さと自由な思いやりによって社会が回っている。

 近所の人と目を合わせて「おはよう」って言うし、駅でぶつかれば「すみません」「大丈夫よ」と手を振って挨拶するし、「調子はどう?」とリンゴを齧ってる店員と話をする。石鹸を二つとチョコレートを握りしめて並んでいると、カゴいっぱいに商品を入れている、前にいるご婦人が「先どうぞ」と譲ってくれた。ありがとうございます〜と言って、店を出ようとすると他の人に「チョコレート忘れてるわよ」とウィンクとチョコレートをもらう。

 そういう、真っ向からコミュニケーションを取ろうとする気概がある。ここでは人間が、とても人間らしい。今日も、教会に折り畳み傘を忘れて、そのまま歩いていたら、走って俺の元へ届けてもらったりした。ミュンスター、えらく信頼できる。

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 日本よりドイツの方が労働環境がホワイトなのではないかと思う。日曜日は基本的にお店は全部閉まるし、レジの店員は座ってるし、役所は仕事が遅い。自分の心身の健康を損なってまで仕事はしないのだと思った。スーパーに惣菜はない。街中で目にするのはドイツ郵便くらいで、AmazonやUberの配達員はいない。
 労働時間はそんなに変わらないのかもしれないけど、店員が仕事中に客とお喋りしたりもするし、「働いている時はずっと業務に従事しなければならない」とか「店員はこうではなければいけない」みたいな規範は薄いと思う。

 こう言って良ければ、あんまりちゃんとしてないし、市民もそれを許している。日本はちゃんとしているし、皆がちゃんとしていないことを許さない。日本のおもてなしや便利さは、労働を奉仕させて、人間性を犠牲にして成り立っていることのように思える。
 語学学校の先生は服装も自由で、先生と生徒という上下関係も薄い。WhatsAppのアイコンに恋人と映ったりもしていて、「先生はこう」みたいな固定概念がないように見える。何より、先生たちはとても楽しそうに授業をする。

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 それから、ミュンスターという都市は人と環境にやさしい。ヒューマニティがこの街にはある。スーパーに購入したペットボトルや缶を返しに来れば1本あたり40円返ってくるし、「袋は有料ですがどうなさいますか?」と店員に聞かれることもない。必要な場合のみ、棚の中にある袋をカゴに入れて買う。

 日本の感覚からすると若干不親切だけど、も〜それくらいでいいよ〜と思った。日本はあまりにも客がお客様過ぎて、店員が人間扱いされてない気がする。サービスする側の愛想を強制する文化があるし、接客が良いことに慣れすぎてて、生身の人間なのに「完璧な店員」であることを求めているような感じもする。

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 ミュンスターでは、たむろする場所がなくてカフェ難民が発生することもない。大きな市立図書館と大学図書館があって、勉強する人はそこに行くから、カフェは専ら社交の場となっている。土曜日はレストランのテラス席でお喋りを楽しんでる人も多い。
 お金がなくても外で日向ぼっこしていられるから、課金しなくても腰を落ち着けることが出来る。街が人を許容していていいなと思ったけど、街って本来こうあるべきなのでは?と思った。街にアートはあっても、人が排除されていない。街にいることを許されている。
 もう、物乞いがいることも、「1ユーロくれ」と言われることにも慣れてしまった。彼らがいないように見える日本の方が異常なんだと気付いた。

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 美容脱毛や整形の広告もなく、お店の雑誌コーナーにグラビアアイドルがいなくて落ち着く。日本で、特に男性から女性への性欲を含んだ眼差しが当たり前に容認されているのも許せなかった。女性を人間ではなくて、女扱いしている場面に何度となく居合わせた。日本では男でいるだけで肩身が狭い。

 こっちの人は、各人がしたいようにファッションを楽しんでいる気がして、服のコードや化粧に対する社会的圧力は見えない。露出の多い服装でも「エロくない」のは、社会がそれを許しているからだし、男性がそれを見て騒いだりしないからだと思った。日本には、女性に対する見た目の麗しさやコードを強いる雰囲気もあって、も〜ここに来て日本のことが嫌いになった。

(②へつづく)

最後まで読んでくれてありがとう〜〜!