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社会の一部

大学に進学するのがあたりまえという風潮のある学校にいたから、教室に満ちていた「大学どうしよう」という思いの大抵は「高偏差値で社会的に評判のいい大学の中から、いかに自分が学びたい学問を見つけて、そこに向かってどう力を注いでいくのか」という問いであった。それは「そこに行く努力ができるのか」「そこにたどり着く頭のよさを兼ね備えているのか」という、常に「あなた自身は」という視点で語られていた。

「落ちたらどうしよう」という思いは常にあったが、それはただ単に「今までの私の努力が認められなくなってしまう」という怖さだった。家族の期待を背負っていたわけでもなんでもないが、「小中高12年間の教育をどの程度「あなたは」真剣に受けてきたのか、素直に受け止めてきたのか」という目で誰かから見られていて、それを証明するために、休めることなくペンを動かしていたような気がする。

大学生になった。センター試験がもう直ぐだというニュースを、他人事のように聞いている自分が、あの苦しみから脱出してもう一年経つのかと気づいて、改めて自分と大学について考えると、この一年でずいぶんと自分の考えも変わったのだと気づかされる。

まず、私は大学に入るために努力していた、という事実。これは、当時は「頑張っている私」はえらくて、立派なことだと思っていた。もちろん、それはそうだと、今でも思う。でも、大学生になった今思うのは、誰もが無条件に努力できる(環境にいる)わけではないし、みんながみんな勉強に労力を捧げられる余裕があるわけではないということだ。できない理由を環境のせいにする自分は弱虫だと、当時は思っていたのだが、それを社会全体の「できない理由を環境に求める人たち」に適用した時、それはいつでも「正」であるわけではないのだということに気づいた。

頑張るだけの体力と、勉強に労力を捧げられる余裕があって、進学を許される恵まれた環境にいた私の考える「正しいこと」は、時に凶器になり、「正しさ」という厄介な鎧をきた強者が、世間の人間に褒め称えられ、弱者を傷つけながら闊歩するという構造が生まれかねない。

私が今いる場所は、誰でもいられる場所ではない。こうして好きなことを学ぶ環境に身を置いていることは、私だけのものではない。微々たる力しか持っていないかもしれないが、私は社会の階層構造や仕組みを背負ってこの場所にいる。自分が大学生であることは自分だけのものではなく、社会の役割を担っているということを私は忘れてはならない。

自分は、社会的あるいは経済的な要因、さらに言えば現在の私には考えの及ばないような理由によって、大学に進学しなかった人たちの分まで大学で学ぶ必要があるし、大学で学んでいる以上その学びは必ずどこかで社会に還元しなければならないのだと思う。

努力できる環境にいられたこと、経済的な余裕のある家庭で育てられたこと、大学という選択肢が考えられたこと、体力があったこと。目を向けないと忘れてしまうことだからこそ、何度だって思い出していたいし、自分が把握できることはこの世の中で実際に起こっていることのほんの数%しかないからこそ、目に見えている範囲のことに対しては自分の感情を持ち合わせていたい。そして私は休むことなく、自分の「知っている範囲」を広げて、喜び悲しみながら、ただ単にグラフとして現れる数字たちにリアリティを持って接していくべきだろう。

(2021/01/14 久しぶりの更新。)

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