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「どうしても」のベースにあるもの

何かに執着した瞬間、私は強烈に「自分」を感じる。身近なようで最も遠い存在。近すぎて、知った気になっている存在。正体不明の謎な存在。そんな「自分」から沸いてくる欲を追い求めている時、私はまわりの人たちを知らない間に遠ざけて、大切にしているはずの何かを失っている気がする。

高校生までは、欠けているものを埋めるために何かを得ようとしていた。でも、高校を卒業して、統一された評価基準のない場所で、形のない未来を前に、何かを得ようとすることは何かを失うこととイコールの関係にあるように感じる。

何かを求めるほど、自分の気持ちに真っ直ぐに進めば進むほど、「ごめんなさい」「すみません」「ご迷惑おかけしてます」「申し訳ありません」の使用頻度は格段に上がる。今日だって、自分の「どうしても」のために、何回使ったかわからない。

高校生の時の私に見えていたのは、輪郭のある未来だった。目標というのはいつもピラミットの頂上にいて、そこに進むための方法は嫌というほど教えられていた。立ち止まったら間に合わないことも、もう待っている未来に乗りこめなくなることも、未来を目指すことが過去の自分を肯定することも、逆に未来の目指し方次第で過去の自分を崩してしまうであろうことも、なんとなくだけど知っていた。

うまくいくための公式は与えられていて、それにのっかるだけだった。逆算の仕方をたくさん習ってきた。答えがあって、それを求める過程を、求め方を、私は必死になって学んでいた。「こうすればうまくいく」というやり方が自分に馴染んできた頃から、いろんなことがそれなりにこなせるようになっていた。未来の完成形に向かって、未完成な自分を、日々完成に向けて動かしていた。未来を生きる自分の姿はある程度見えていて、だからこそ、その瞬間を自分が「わかっていない」状況を作ることは、すごく不安だった。

これまで私が求めてきた「どうしても」は「結果」だった。欠けのない、完成した未来だった。その「結果」の実現のために、パーツは漏れなく入念に準備すべきで、各パーツの完成度は高ければ高いほどよかった。進むべき道は見えていて、だからこそ一瞬でもその最短(と思われる)経路からずれることが怖かった。

今求めている「どうしても」は「選択」だ。「どうしても」やりたい仕事があって、「どうしても」知りたいことがある。「どうしても」見てみたいものがある。それを経験して、それを知って、それを見て、どうなるかなんて知らないけれど、何か楽しいことが起こりそうな気がしてる。自分が何かすればするほど、未来がわからないものになっていく。どうなったら完成なのかも、本当に自分が完成を求めているのかも、完成したらどうなるのかもわからない。わからないけれど、見えない何かを追い求めているのが楽しい。

でもその「どうしても」やりたいことのためには時間と労力が必要で、諦めなければいけないことがある。わからない未来を求めている今、私が知っていた「こうすればうまくいく」は通用しない。だから、「いつもの」をこなすために使っていたエネルギーを、「どうしても」のために使わなければいけなくなる。

「いつもの」を崩したら、ある部分においてよくない「結果」が待っている。そのことはわかっているけれど、そうさせてしまうくらい魅力的な「選択」がある。エネルギッシュに私に向かってくる今日があり、それを掴みたいという私の気持ちがある。どうバランスをとっていけばいいのだろう。守るべきものと攻めたいものの線の引き方が、わからない。だから、私は今、楽しいはずなのに悩み、なにか大事なものを失っているような気持ちになっている。

私が距離を置きたいのは「結果」をベースにした「どうしても」だ。結果を追い求めるのはもうお腹いっぱいだ。これから私が求めるのは「選択」がベースにある「どうしても」だ。必要最低限のことはする。守りたいものは守る。でも、結果に縛られるような生き方は、制服と一緒に卒業したのだ。私は「わからない」を楽しみたい。「どうしても」したい選択をし続けた私が、どこに向かっていくのか、観察したい私がいる。

(2020/11/27 最近忙しくて、方々にごめんなさいばっかり言ってる。)

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「家」の時間に「外」が入ってくるのが結構ストレスだったりする。この話はまた今度。

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