見出し画像

命の尊さって伝えられるのかな?

久ぶりに投稿します。

先日、「命の尊さ」について対話する会があったのでそこでの気づきです。

対話のテーマ「命の尊さについて」

命の尊さについて、考えてみました。
まず前提として、命の尊さは教えるものでもないし、わかると実感できるものでもないということ。永遠に問い続け、わかった気にならないことが大事なのかなと。

それを踏まえて、ぼくが今考えていることをアウトプットしたいと思います。

ぼくが尊くて尊くてしかたない家族と一緒に過ごしながら、考えたことです。

「命の尊さをどうわかってもらうか」というテーマだったので、命の尊さの実感ということを考えてみました。
思ったのが命の尊さを実感するには条件があるのではないかということです。

それは「自分を認める(受け止める)こと」
そして、「想像すること」
想像することについてはおまけみたいなものです。

ニュースを見ていると、「人の命を何だと思っているんだ」と思うような、信じられない事件がたくさん流れていきます。教室での子どもたちを見ていても、残虐なゲームにほとんど依存のように時間を費やしていたり、言動からも命の尊さを分かっているのだろうかと心配になったりするようなことがたくさんあります。
そのすべてにおいて、ぼくはそもそも自分自身を認められない背景があるのではないかと思っています。自分自身を認めることこそ、自分の命を認め、尊いと感じることだと思うのです。
例えば、旭川のいじめの事件を考えます。心がきゅーっと締め付けられるような事件ですが、加害者たちは自分自身のことを認められていたのでしょうか。自分自身の行動や感情を受け入れられていたのでしょうか。ぼくはノーだと思います。
認められないから、「自分の命がここにある」と認めてもらうために、非常に残虐な行動を起こした背景があるのではないかと思いました。未成年であることや生育環境も大きく関係してくるでしょう。

自分を受け入れれられない。だから当然、他人の命も受け入れられない。

この世で1番尊いのは自分の命です。それは、他者がどうでもいいということではなくて、自分の世界にいる他者も含めて自分の命という意味です。
ぼくはぼくの家族が尊いです。それは、家族がぼくの命の一部だからです。

それを実感できたのは、ぼくが自分自身と対話をし、他者と対話をしてきたからです。
そして自分自身のいやだと思っていた部分も、好きな部分もすべて受け入れて、認められつつあるからです。

だから、僕の一部である他者もみーんな尊いと思うのです。

まずは自分を愛すること。

ぼくはこれこそが命の尊さを実感することだと今は思っています。

そして、自分が見える世界のすべてが自分の一部だと想像できれば、すべての命が尊いと感じることができるのかなぁなんて思いました。
それが次の段階の「想像すること」だと。


そう考えるといじめをなくすために、「やってはいけないこと」だと縛り付けることが有効であると思えません。
世界のすべてが自分の一部であると捉え、自分のこと(世界も含め)を愛している子どもがいじめをするでしょうか。
もっと自分を好きな子どもを育てたい。
それが今のぼくの想いです。


ここまでが今日たどり着いたことです。

まだ考えます。

まだわからないので。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?