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【限界福祉労働者のエッセイ③】レペゼンDVサバイバーより職場の皆様へ

2023年7月15日(土)

突然タイトルとは全く関係ない話をするが、ZINEを作りたいという欲望がある。

文字を書くという行為に並々ならぬ想いがあった私は、昔から「自分で自分の本を作る」ことに憧れを抱いていた。それも装丁にめちゃめちゃこだわったものを作りたかった。
高校生の頃、思いがけずこの世には「同人誌」なるものが存在し、アマチュアでも本を作って売り買いができる「コミケ」というイベントがあることを初めて知った。腐女子ならば誰でも通る道である。
1度目の大学に入ってから、当時大流行のジャンルで2冊ほど二次創作の同人誌を作った。中身には満足していたけど、Wordで作った表紙にはいまいち納得できなかった。

その後しばらく執筆から離れ、2度目の大学に入ってから「ZINE」の存在を知った。
え、そんなに自由に、しかもオリジナルで本を出していいの?コラージュアートも、ヘタウマ的な味のあるイラストも、手書きでゴリゴリ書いた文字も、ところどころに挟まれる写真も、全部がカッコいい。ZINEって自由でいいな!――と気づいて以来、私はとにかく「ZINE」を作ることを目指し始めた。このブログもいずれはZINEにまとめる予定である。

もし私がZINEを作るなら、手ごろなお値段で本当にパンフレットみたいなささやかなものを、何冊もシリーズで出したい。
そして創刊号は特集「辞表」だ。
これはすでに決まっている。同居人と一緒に、辞職することについて書くのだ。
そして私の書いた文章のタイトルには「レペゼンDVサバイバー」とつけたい。

“レペゼン”とは“represent”、つまり「代表」という意味だ。一時期高校生ラップ選手権にハマっていたミーハーな弟に聞いたのだが、ラッパーが使う用語の1つらしい。

私が今の仕事を辞めたい理由には、私自身がDVサバイバーであることがおおいに関わっている。
ストレス耐性がとにかく低いことや、将来の見通しが立てにくくて目先の辛さに振り回されがちなこと、人と接するときの過度な緊張や距離感のバグり方など、私の思考の癖にはサバイブしてきたころの名残がいくつかあるようだ。
ストレスに弱いので、ちょっとしたことで傷つくし、メメントモリ的な思考で何でも死んだら解決すると思っている節もある。だから酒を飲んじゃいけない時に飲んじゃって、おまけにそこへ風邪薬をぶち込むような真似ができてしまう。ほほ。

私はこの「名残」を、少々複雑な思いで捉えている。
こんなふうに自分の癖が分かっているのなら、多分私が真っ先に行くべきは、心の病気や認知のゆがみを治すための病院だろう。
この名残のせいで、22歳まで夜中2時間泣かずには眠れなかったし、四六時中不安に苛まれて自傷的に飲酒をし、他人に対しては怯える一方、ちょっとでも優しくしてくれた人のことは100%の理解者だと思い込み、後で勝手に裏切られていた。
仕事を始めてまでこの名残に振り回されるくらいなら、何年かけてでも治療して気持ちよく生きた方が良いに違いない。でないと転職と就職を繰り返すことになる。私の人生はずっと安定しないだろう。
また仕事や人付き合いが上手くいかないときに、サバイバーであることを理由にすることは、私自身に対して居心地の悪さをもたらす。「私サバイバーだから…」と言い訳しているような気がして。
それならいっそ治療してしまえば、妙に生きていて申し訳ない感じが消えるのではないかとも思う。

でも当の私の人生はほとんど苦しみの上に成り立っていたので、今更治療されるのが怖かった。変な話だが、苦しんだ記憶が薄れて「あんなこともあったなぁ」になるのが怖いのだ。なんだか自分の生き方そのもの、人生そのものを自分で否定するようで。

自分が父親に何をされて苦しんできたのか、忘れることも辛い。それはまだ私が彼を許し切っていないせいかもしれず、もう縁も切ったんだから許すべきなのかもしれないけれど、許した後の生き方をまだ想像できないのだった。

あとは単純に、医者にかかった挙句、特に病名もつかなかったときのことを考えると生きていける気がしない。「やっぱり私の甘えじゃねぇか!」となるのが何よりも怖い。そう言われるくらいなら死んだ方がマシ!とも思う。


というわけで、私は自分なりに自分の生きづらさと折り合いをつけて、「これは私がサバイバーであることと多少は関係しているかもしれない」と思い込むことにしている。特に治療することもなく、決着をつけず、そうやって精神の安定をなんとか保っている。
ただ、自分で自分の癖を受けいれることと、辞職したい理由の1つに「サバイバーゆえの思考の癖」を持ってくることは、全く別の話だった。
うちの職場であれば、正直に話せば、例えば「みみみさんに対しては、何かやらかしたときも叱るのではなく提案する形で話す」とか、色々気を回してくれるのかもしれない。
でもそこに至るまでの労力と、受け入れてもらった後の居心地の悪さに、私は耐えられる気がしない。

それに最近、私は「DVサバイバー」をレペゼンすることの両義性に気づいてしまった。

私はよく「そんな生い立ちのわりに明るくていいね」と言われるのだが、よくよく考えてみるとこれは引っかかる発言だ。
どうもDVサバイバーに対して「暗い」とか「人生に悲観的」とか、そういった印象が世間では蔓延しているらしい。

その印象が原因で、「可哀そうなことにDVサバイバーの人たちは人間関係が上手くいかず、仕事も続かない」とかいった、スティグマにも似たものが付きまとう。
そう思う人たちは、私たちの育ってきた環境のことを考慮してくれているつもりなのかもしれないけれど、結果として私たちは「人間関係が上手くいかない・仕事が続かない」という烙印を押されることになる。

今まで、DVについて積極的に話すことで、同じような経験をしてきた人たちから「実は私もね…」と打ち明けてもらったことが何度もある。だからDVサバイバーをレペゼンすることが、とりわけDVに苦しむことの多い女性たちとの連帯のきっかけになるのだと信じてきた。もちろん、今でもある程度はそう信じている。

しかしサバイバーをレペゼンすることは、同時にその経験をしてこなかった人たちに対しては「すべてのサバイバーはみみみさんみたいな感じなのかもしれない」と無意識に思わせることにも繋がる。
つまり、「あの子がこの仕事に耐えられなかったんだから、他のDVサバイバーの子たちにとってもやっぱりこの仕事はきついのかもしれない」と思わせてしまうということ。
これがレペゼンDVサバイバーの両義性である。

そして何が起きるか?そんな「特別な配慮のいる人」は雇いづらい、という話になる。
みんながみんな、配慮がいるわけではないけれど、私にかけられる数多の声を聞く限り、「配慮が必要な繊細な人」というスティグマはどんどん強化されていくだろう。私というDVサバイバーが仕事を辞めるせいで!

……でも冷静に考えれば、リスペクトを持って「こうしてみたら?」と指導してくれる上司や、「最近休み少なくてごめんね、大丈夫?」と聞いてくれる管理者、会議での発言にフェアな反応をくれる同僚がいる職場環境は、繊細な人だけでなく他の人達にとっても居心地がいいはずだ。
一部の職員に14連勤させないで、土日に出勤させるならみんなが代休をとれるようにすればいい。だらだら残業もなくせばいいし、指示は具体化して紙に書いて渡せばいい。文章化できることはマニュアルを作ればいい。
「やれるときにやって」ではなく、「今だ!それ片付けちゃって!」と言ってくれたらいい。そのうちタイミングを覚えるだろう。仕事はなんでも、最終の締め切りを作ってくれればいい。そしたら仕事もしやすくなる。
全ての人にとって居心地よく、要はユニバーサルデザイン的な考え方だ。

私はそうなってほしい。
私を特別扱いしないで、私を「配慮の必要な人間」にしないでほしい。特別扱いはすべての人にやってほしい。

そしてわがままな話だが、すべての人への特別扱いは、できれば私じゃない誰かの意見によって導入されてほしいのだ。

レペゼンDVサバイバーとして、ぶっちゃけ闘う気力はもうございません。「当事者が声を上げて変えていけ」?こっちはそもそもメンタルの初期値が低いんだよ、言わせんなバカヤロー。

ということで、低賃金極まりないけど、少なくとも嫌みったらしく「もしかして○○してないってこと?○○せなアカンやん!」とか「賢い人は言うことが違うなと思いました」とか、そんなことは言われない和やかな職場へ転職します。
ZINEにはそんな私の、穏やかでないエッセイを載せるつもりだ。


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