これ以上、生きる上で何を望むんだ。

昨日の朝、電車の中でニュースをチェックしていると内田也哉子さんの謝辞が目に留まった。

混み合う車内は身動きが取れず、流れ出す涙を拭うことも出来なかったが、最後まで読まずにはいられなかった。


昨日は太陽と月が牡羊座に並ぶ『始まりのはじまり』の新月。しかしちょうど重なり合う時刻は夕暮れ時であった。

今は、人生の節目を迎えている人もそうでない人も、春の出会いから新たな関係が始まっていったり、これまで付き合いのあった人達との『関係』が刷新されていったり、なにかと変化のあるタイミング。職場の面々やプライベートの仲間が入れ替わることや、ただの知り合いが親友と呼べるようになることもある。

人との『関係』の最たるものである、家族との関わり方が変わっていく人もいるだろう。

也哉子さんの謝辞がこのタイミングで読まれたことは、とても意味深い。

親子には切っても切れない結びつきがあるとは言うが、でも、もしかしたらそれは人間が作り出した幻想で、始めからそんな結びつきなんてものはないのかもしれない。

だからこそ大切にしなければならない。

しかし断ち切ってしまった方がどんなに良いだろうかと思わずにはいられない『腐れ縁』もある。

昨日の夕暮れ時の新月は、
「今までのことを終わらせて次へと向かいたい。でも、もう日も沈む。今はまだこのまま胸に抱いて眠ろう。」そんな感じの新月のコンティニューをした人もいたかもしれない。。

也哉子さんの謝辞にはこんなくだりがある。

今更ですが、このある種のカオスを私は受け入れることにしました。
まるで蜃気楼(しんきろう)のように、でも確かに存在した2人。私という2人の証がここに立ち、また2人の遺伝子は次の時代へと流転していく。この自然の摂理に包まれたカオスもなかなかおもしろいものです。


人には、自分の力だけではどうすることも出来ないことがある。

どんなに生活が変わろうとも忘れる事が出来ない過去、どんなに願おうともチェンジすることが出来ない血の繋がり。

そうした断ち切ることも、対峙することも出来ない『ある種のカオス』から抜け出る為の方法があるとすれば、それは『カオス』を受け入れること。

それは自分だけで容易に出来ることではない。

だからこそ、この言葉が沁みる。

地位も名誉もないけれど、
どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる。
これ以上、生きる上で何を望むんだ。



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