(クリスチャン向け)言葉選びで思ってる事

前略、私は元気です。
教会では追い風も向かい風も吹いてますが、とりあえず航海を続けてます。やってることは相変わらず歌詞のローカライズです。
今日はローカライズ(≒翻訳)をやってて感じている事を書きます。

私のキャリアの中には”新聞記者”があります。
自然、文章の構成や単語選びのボキャブラリーを増やす訓練をしています。

しかし、もしそういった訓練を受けていなかったらどうなっていただろうかと考えました。
きっと自分の経験則の中でしか言葉を紡げなかったんじゃなかろうかと。

私は日本語の賛美やワーシップソングの歌詞のほとんどがイケてないと思ってます。むしろそんな現状に首を捻ってるばかりじゃなく、変革を起こしたくてこの世界に飛び込んだクチです。

でもやってわかったのは、皆んなそれぞれの最善を目指して頭を捻って考えたって事。
わかったからこそ、「何が違うんだろう」って考えます。
本気で本気で考えて、「通ってきた道が違う」って言う基本的な事を思い出させられました。

私は国家公務員の両親の家庭で育ちました。だから法律用語や軍事警察の隠語などはほぼ自然に理解して、刑事ドラマや探偵ドラマを楽しんでいました。でも全ての人が同じではありません。

『一般的な言葉』と呼ぶのは=「義務教育レベルで充分に理解できる言葉」で=「中学生でも理解できる物」を基本的に呼ぶ表現です。
新聞記者は記者ハンドブックで判定しながら単語や、時には一文字すらもこだわります。それに仕事の効率として、一般的かどうかを瞬時に判断する事を求められます。

でも宗教2世3世にとっては、その宗教の用語も「一般的」と思ってしまうでしょう。
帰国子女は対応する単語が一般的でない事もあるため、辞書の表現を鵜呑みにするしか無いでしょう。

例えるなら10個の引き出しを持っていれば、5個封じられる”縛りプレー”でも表現に不自由は感じません。
でも3個の引き出ししかない状態で5個封じられたら、自由に書いているつもりでも実際は不自由を感じながら表現する事になるでしょう。

これはセンスや才能ではありません。訓練や経験です。
一朝一夕ではなく、地道で終わりの無い、でも楽しむべきこと。
私と面識のある方の大半は知っていますが、私はよくダジャレを言います。それすら私にとっては遊びを兼ねた訓練!!

頭で考えたネタではなく、リアルタイムで飛び交う会話に登場する単語を拾ってジョークにして返す。
それから私の好みですが、ジョークと気付かずにミスリードしたままでも会話を続けられてしまうように入れます。

楽しんでます。それはラップのフリースタイルや、大昔に流行った連歌と同じ。
自分たちの文化や言葉をキッチリ理解して、遊び倒して、それをそのまま神様の元に賛美として持っていく。だから等身大で賛美ができるし、意訳も大胆にできると思ってます。

すごく厳しい言い方をすると、多くの日本人クリスチャンのボキャブラリーが練度不足だからイケてないんだと思うんです。

もっと「クリスチャンらしく」とか「会衆の為の」ではなく、自分を極めたらどうでしょう?

クリスチャンのゴールは「イエスのようになる」ですが、イエスの真似をしてるだけで、それができるのでしょうか?

私は神様が息子として「僕」をデザインしたからこそ、等身大の自分を極める事が結果的に「イエス(神の息子)のようになる」を実現するんじゃないかなぁなんて思い、今日は筆を置きます。

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