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エッセイ クロージング・タイム

 思春期の薄暗い部屋で、緊張してふるえながらジャケットから取り出してプレーヤーにのせたLPレコードを、35年の歳月を経て、しかも尼崎から500キロ離れた山口で聴く。

 昼食がわりの葡萄パンをちぎって口に運びながら、しみじみ思った。
 
「昼下がりにトム・ウェイツを聞くとは、なんと贅沢なことだろう」
 
 実はこれは、度重なる転勤転居、流れ流され転がって這いつくばって生き延びてきた途中で、離ればなれになるタイミングが無数にあったにもかかわらず、いまだ奇跡的に手元に残っている思春期に買った数少ないレコードの一枚なのだ。
 
 いつのまにか、傍らに客人が座っている。その若い男が私にたずねた。

「どうしてそれが贅沢なんです?」

「ニューヨークかどこかのバーの片隅で、煙草の煙が充満する中、のんだくれてピアノ弾きながら歌うような歌やからね」

「なんというタイトルですか?」

「クロージング・タイム……トム・ウェイツのデビュー作なんよ」

「ブルージーですね」

「売れてから、あとは、すっかりジャズに重心を移動してもうたけど、やっぱり処女作が一番ええ。今聴いても、全然色褪せていないもん」

 若者は黒っぽいレコードジャケットを目線にかざして、

「かなり色褪せてますけどね、こっちの方は……」

 とつぶやきながら中のライナーノーツを取り出し、

「わっ、珈琲の染みかと思ったら、完全に黄ばんでる」と大げさに驚いた。

「年季がはいっている証拠やな」

「でも、たしかにいい曲ですね」

 若者がうなずいたので、少し意地悪く問う。

「何がどういい? いいかげんな感覚で勝手に他人の趣味にあわせない方がええよ、そういうことが癖になると人間が安っぽくなる」

 ところが若者は歳に似合わず落ちついて返した。

「サマになっているんですよねぇ、何だかとても、無理がないというか……格好悪くないんですよ」

 そうこられるとこちらも素直にならざるを得ない。

「まあおそらくこの頃は、完全に《地》で歌ってたんだろうな」

「日本人が真似をしても、どうしてもサマにならないんですよね、それとやっぱり、こういう音楽は日本人には似合わないのかもしれませんね」

 たしかにそのとおりだと私も思った。

「歌なんて、これでいいのかもしれない」

「サウンドですか? それともアレンジですか?」

「両方だな。ドラムがはいっているけど、目立ち過ぎないし、ベースはきっちり出ているし、ピアノのあいまにギターが入って、とにかく安心して聴ける」

「なるほどねえ」と、若者は深くうなずく。

「さっきの、似合っているというのは、多分自分に嘘をついてないからやな、つく必要もなかったんだろう、だから後のアルバムになればなるほど、様々なしがらみができて、結局はつまらなくなってしまうんやろな」
 
 そこにまた新たな客が一人加わった。今度は女性である。今日はやたらと来客が多い。
 
「何を聴いてるんですか?」と、無邪気な顔でたずねて来たが、同じ展開になるのが面倒なので、今度は「音楽だ」とだけ答えてうっちゃる。

「そんなことは、わかっていますよ」

「なら、レコードだ、CDではなく、アナログのLPを聴いている」

 不満げな新顔に若者が助け舟を出した。

「トム・ウェイツですよ」

「へえ〜? 真っ昼間から」と、女性は笑った。

「やっぱり同じ話になるのかよ」っと、うんざりしながらも、要点だけをもう一度念を押す様に、

「それが、ゼイタクなんや」と、片仮名で強く刻んだまさにその瞬間、A面が終わってアームが自動で上がり、カククッと不器用に戻った。
 私は女性に向かい、

「ちょっと、レコードを裏返して、もう一度その左のボタンをポンと押してくれ」と頼んだ。
「いやいや、それやない、その左に三つ並んでるボタンの一番左のやつ、そうそう、それそれ」

 女性は私の指示に従いながらも批判を含めていった。

「ほんとうに、贅沢ですね」

「そうや、これがCDやったらリモコンでピュっと押せば済んでまう。そやからついつい曲の途中でも飛ばして次の曲にいってまうんやが、世の中、早期に見切ることも重要やが、そうすると気付かんうちに見落としてまうことも必ずある。
 
 その点レコードやったら、少なくとも反面分は腰を据えて聞くからな、そのレコード、つまりアーティストに対し、自分の時間を気前良く先払いで預ける。それが本当の贅沢なんや」

 女性がそこでさえぎるように口をはさむ。

「あのう、裏返したのは私ですけど、つまり、自分は寝っころがったまま指図だけして目的を果たすという部分こそが、今この状況で語られるべき贅沢ではありませんこと?」

 形勢が不利になったとたんにドアのチャイムが鳴った。本当に今日は来客が多い。
 
 こんな時間に宅配便はこない。私はとっさに、月に一度必ずこのあたりに出没するNHKの集金だと察した。
 これもまた女性に頼んでドアフォンの受話器をとってもらい、寝転んだまま耳にあてる。もしもNHKなら先制攻撃を仕掛けて撃退せねばならない。
 そもそも頼みもしないのに勝手に電波を送りつけて、見るも見ないも関係なしに金だけ徴収するという魂胆がいやらしい。
 公的必需性があってどうしても必要な金額であるならば、税金でまかなうか、保険や年金のように役所を窓口にすべきである。民間なら必ず事前に契約を交わしてから債務が発生する。
 国営放送と銘打つのなら国の予算に組み込めばいい。
 逆に公務員天下り互助会放送局とでも名を変えれば、自虐的ギャグセンスに免じて、二人分払ってやってもいい。

 そもそもよくよく考えたら、我が家のテレビは、モニターとして使っているだけで、アンテナには繋がっていないのだ。

 そういう心持ちだから「どちらさま?」などとは聞かない。最初から気合いを込めて、
「NHKさんかな?」と詰問する。

 しばしの沈黙の後、「すでに勝負あったな、小次郎破れたり」と私がつぶやく寸前に、おどおどした声がインターフォン越しに返ってきた。

「いいえ、ちがいます」

 拍子抜けしたと同時にやや後悔の念がよぎったので、今度は柔らかさを混入させた。

「どちらさま、でしょうか?」

 それでも相手はおどおどした声で、

「あのう、実は私どもの開祖様が、このたび自叙伝を書かれまして、是非それをお読みいただければと思い、ご近所の方にお配りしております」

「なんや、そっちかえ」と思ったものの、こっちには今しがたNHKと間違えた負い目がある。

 本来時間に余裕がある時の私なら、そのおばさんを部屋に入れ、トワイニングのオレンジペコなどでもてなしながら、じっくりと話を聞いてあげる。

 そして言いたいことを十分しゃべらせたあとに、こんこんと宗教と哲学の差を説き、民話と寓話と神話と占星術の関連を語り、神の名の下に無数の罪なき人を虐殺した教会制度の歴史と、ガリレオを否定し続けたカトリックの大罪を述べ、宣教師が本国に送った報告書が明白に布教活動が植民地化の道具であった証拠を示していることを教え、偶像礼拝の禁止や教会活動をイエスが否定している聖書の文言を読み、最後になぜゆえ全能の神がお金を欲しがるのかという矛盾を突きつける。

 そしてそこから一転トーンを変え、自分は心の底から歴史的偉人としてのイエス・キリストを尊敬してやまないが、その信仰は、教会や教団ではなく、私一人の心の中にあると告白し、ついでに、釈迦や達磨や一休・利休・良寛、寒山・拾得までも、私の魂の井戸の底で同居していて、彼らと一緒に暮らす今の自分は誰よりも幸福を満喫しているといい、最後に"ここだけの秘密"だと念を押してから、さんざんもったいぶって、世界中の神は実は異星人なのだと明かす。

 ちなみにコーランだけはいまだ勉強不足で、なんともいえないと、必ず付け足すようにしている。私とてまだまだ命は惜しい。

 けれども本日に限って先述のとおり先客もいて、ゆっくりした講義をするわけにはいかない。ということで、快く本の受け取りを承諾した。簡単なお礼の言葉とともに、ドアの内側に、コツンと物体が落ちる音が鳴った。

 あとで確かめると税抜き760円の新品の文庫本だった。
 帯には、発売と同時に早くも20万部突破のベストセラー、と誇らしげに書いてある。
 どうせ信者に押し付けたのだろうが、20万部とはものすごいパワーだ。いったいそのパワーの源はどこから来るのであろうか、そういう邪念というか正論が好奇心とともに左右の脳を占領した。

 今さら怪し気な思想本を読んで脳みそが風邪をひくほど若くはない。たとえ目の前で麻原彰晃が宙に浮いたとしても、そんなこともあると笑えるほどに、その方面における私のひねくれ方は尋常ではない。

 一人の時間が戻ってから、せっかくだからと、一切の先入観を排して頭がまっさらな状態をねつ造して、素直にこの自叙伝を熟読してみようと考えた。

 万が一その文章で自らの魂が震えれば、親族は迷惑だろうが、一度くらいは入信してあげてもよいとまで腹をくくった。

 そして、買ったばかりのレコードに針を落とすように、私は丁寧に頁をめくり続けたのだった。
 
 その中に書いてあることすべてが、実に素晴らしかった。
 人間として生きてゆくうえで大切なこと、争いがなく、愛をわかちあう世界、神を喜ばせる行いとは苦しんでいる人類を救うこと……。

 開祖たる著者は、これまでに様々な迫害を受け、ありとあらゆる苦労を重ね、権力によって不当な扱いを受け続け、世界中の人に誤解されるように仕組まれ、時にはキリストよりも過酷ではないかと思えるような苦難を課せられ、それでも世を恨まず、ただひたすら祈りの日々を送っている。

 非の打ち所がないほどに、実に感動的な話しであった。

 さて皆さん……文章には必ず、たとえどういう形であれ書き手の個性が表出する。

 いくら隠そうとしてもバレるし、嘘をついても、その"ほつれ"が必ず遺棄した死体のように、どこかで浮き上がって発覚してしまう。

 松ヤニのように染み出てくるものもあれば、色や匂いを醸し出すものもある。また空気や湿度で判明する場合もある。

 少なくとも私は、一般人が普通通らないような裏道やドブの下を多少は多めに歩んで来たので、鼻炎持ちにもかかわらず、そっちの臭覚だけは自信がある。
 嗅ぎ取った成分の内容までは分析できなくても、センサーの針の振れは決して見逃さない。

 とにかく、読み終えて感動したのは事実だった。

 そして深呼吸してから、静かにつぶやいた。

「宗教とは、ここまで徹底的に騙すものなのか」と。
 

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