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現象報告のパラドックスと心身二元論からの卒業

人間は「心」と「身体」からできている。

このような心身二元論的な思想は根深いものです。
しかし、物理主義的な立場から一元論的にこの世界を眺める、というシンプルな描像の方が私はロマンを感じます。
この記事では、一元論的な立場から人間の意識とそれが物質世界に及ぼす影響について、一つの視座を提供します。そういうことにロマンを感じる人は、ぜひこの続きを読んでみて下さい。

現象報告のパラドックス

「現象報告のパラドックス」というものがあります。要約すると以下です。

「現象報告のパラドックス」要約:
クオリアや意識体験が物質世界から独立したものであるとする心身二元論の立場では、物理的なものは物理世界において因果的に閉じており、クオリアや意識体験は物質世界になんの影響も与えないはずである。
しかし、現実に我々は「私には『赤い』というクオリアが生じている」と口を動かし声に出して報告することができる。これは意識体験が物質世界に影響を与えている顕著な例である(故に心身二元論は偽である)。

筆者による要約

そもそも物質一元論的な立場から二元論的立場を批判するために用いられたものですが、とりあえず背景はおいておいて、ここで重要なのは意識体験が「現象報告」のように物質世界に影響を与えることができている、という明
らかな事実です。

これと類似する概念に、「自由意志」があります。
自由意志は我々の意識内容が言動や思考に反映される、という考えを前提としていますが、このプロセスはまさに現象報告と同様、意識体験が物質世界に影響を与える顕著な例であると考えられます。

では、「現象報告」や「自由意志」のように、意識体験が物質世界に影響を与えている、という現象は、一元論的立場をとる場合、はたして物理的にどのように説明されるのでしょうか?

ここで、「現象報告」というものがそもそも特別な現象ではない、ということを確認したいと思います。
実際、我々が日常的に発する「今日は暑いね」とか「この曲は良い曲だ」とか「この絵画はすばらしい」とかいうのは、すべて意識体験の内容について語っているものです。こうして記事をタイプしている私も、自分の頭の中に内言として浮かんでくる思考を元にタイプしているのであって、やはり意識体験の内容を語っています。むしろ、我々が発している言葉のほとんどは現象報告に類するものである、とも言えるのではないかと思います。

そう考えると、現象報告や自由意志というものは、難しく考えずに、単に意識に上ってきた情報のフィードバックに過ぎないのではないか、という考えが浮かんで来ます。

クオリアの民主主義

さて、現象報告や自由意志といった、主観的意識が物質世界に影響を与えるようなプロセスは、なんら特別なものではなく、単に意識に上ってきた情報をフィードバックしているに過ぎないのではないか、という仮説が浮かび上がりました。

この考えが何を意味するかというと、そもそも脳内に現れる諸情報にはすべてクオリアが付随するのが普通である、ということです。情報とクオリアは常にセットなのだから、現象報告や自由意志が単に情報のフィードバックに過ぎないとしても、意識の生成を問題なく説明できます。

この考えに従うなら、脳内はそれぞれ独立に生成消滅する無数のクオリアで溢れており、無意識過程では個々のクオリアはその場で生成消滅し、捨て去られる一方で、意識に上るクオリアは捨て去られずにひとつの場に統合されることで「意識」されている、という描像が浮かび上がります。
まさに民主主義のように、無意識下における選出プロセスを勝ち上がり、代表として「選出」されたクオリアが、意識という舞台に上がることができるというわけです。

そのようなクオリアは情報と等価であるため、意識から身体への物質的フィードバックは単に情報のフィードバックと同じ事になります。

心身二元論からの卒業

上記の考えの核心は、クオリアが脳内の様々な情報処理過程において副次的かつ自然に生じる、という点です。
では、情報処理過程においてクオリアは「なぜ」生じなければならないのでしょうか。
これについては、すでに以下の記事で考察しています。

上記記事によると、クオリアとは「観測に伴う私秘的な情報」なのでした。
一方、脳内の情報処理の過程については、以下の記事において「構造的デコヒーレンス」というアイデアを用いて観測という行為と関連づけています。

以上の考えに従うなら、心身二元論的な非物質的原理に頼ることく、一元論的な立場で意識現象やその物理世界の関与について説明することができると考えます。

心身二元論から卒業できそうでしょうか?

まとめ

  • 現象報告と自由意志は類似した問題である。

  • 実は我々が普段発している言葉のほとんどは現象報告に類するものであると考えられる。

  • だとすれば現象報告や自由意志は単に意識に上ってきた情報のフィードバックでしかないのではないか。

  • この考えに従うなら、そもそも脳内に生じる情報処理過程にはすべてクオリアが付随するはずである。

  • 無意識の過程ではクオリアは統合されずにその場限りで生成消滅する。一方で無意識による選定によってひとつの場に統合されたクオリアが、我々が感じる意識体験である。

  • この見方は「クオリアとは観測に伴う私秘的な情報である」という先の記事の立場と完全に整合する。

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