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コンプレックス人間

昔から何かにおいてコンプレックスを抱いてきた。
家には昔からテレビがない。学校で昨日見たテレビの話題が始まるといつも黙ってしまう。かといってテレビがないから見られないとも恥ずかしくて言えなくて、テレビ番組の名前や出ている人などを必死にネットで調べたり、今では違法だが、無料サイトにアップロードされていたテレビ番組を観て何とか話題に追いつこうとしていた。
お金がないので高校生から奨学金を借りていた。クラスの男子が、奨学金借りてる人が何人いるらしい、とゆう噂をしていた。その男子はお金に困っていることがダサいことのような言い方をしていたので、その場にいた私は、自分が奨学生であることが知られないように息を殺していた。
昔から家で鶏を数羽飼っている。鶏のお世話は主に兄の担当だ。私が小学生の頃に、ある日、兄は給食で残ったパンの耳を給食員さんに頼んで譲ってもらい、自転車の荷台に乗せて持ち帰ってきた。大容量のビニール袋に入ったパンの耳を乗せて自転車を走らせる、そんな兄が恥ずかしくてたまならかった。

人間は集団に属さなければならない。多数派が当たり前で少数派は変わり者だと言われる。
集団の中にいると、多数派、少数派ができて、集団の中で当たり前のこと(各家庭にテレビはあるものだなど)がないとなると、話題に乗れなくて不便だし、時には軽く扱われてしまう。それを感じてしまうと、集団の中で少数派の自分が恥ずかしく感じてしまう。もし同じようにテレビがない家庭で育った人がいたとしたら、恥ずかしいとは思わない、、と言いたいけれど、底の自分はテレビを持たないなんてどうかしてる、と思うかもしれない。恥ずかしい話しだが、どうしても多数派にいたいみたいだ。どちらが恥ずかしいのか分からなくなる。

今では兄は兄だからと受け入れている。社会に出て、色んな人がいると知ったことで気持ちが軽くなった。

学生時代まで田舎ののどかな地域で暮らしてきたこともあり、大体みんな同じような暮らしをしていた。ヤンキーはいなければ、超お金持ちもいない、超貧乏もいない。しかし、社会に出て夫の転勤で都会で働いた時、ヤンキーはいたし、タワーマンションに暮らす人もいたし、橋の下に暮らす人もいた。当たり前のように色んな人がひとつの社会で暮らしていた。その人たちにとっては当たり前じゃないかもしれないが、私のコンプレックスが小さなことのように感じた。実際、小さなことだったのかもしれないと思えた。

ただ、優しくない性格についてだとか、仕事ができないと思う気持ちなど、コンプレックスに感じることはまだまだあるのが今の自分だ。

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