1977年 北海道へ

1977年の日記を掘り出します


1977年 北海道へ

1977年北海道へ





■ 夏のひとり旅─その1





書庫を整理していたら、思わぬメモが出てきました。



ユースホステル(以下、YHと略)のハンドブックに挟んであったのがポトリと落ちた。



その旅は1977(昭和52)年の夏のことです。私はこのメモを発掘して公開することで皆さんの旅心を刺激したかった。書きながら、私自身もグラグラしました。
ただ書きながら思ったことのひとつにとても重要なことがありました。
それは、ここにある「センチ」を棄てなくてはならないということです。



「棄てる」という言葉は、遠藤周作さんが(私に?)教えてくれた……紙屑を丸めてごみ箱に放り込むようなことを意味するのだと思っています。棄ててしまうと、そこにはエンプティ(空集合)がある。身近な言葉では「0」です。つまり哲学でいう「始まり」です。



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北海道
ひとり旅メモ




昭和52年.8月



・親の心子知らず
・何故北海道へいくのかひとりで
・きたぐに余裕で着席(9:30、8/7)
・あんまりさあ出発の感じないけど夢のようです




8/8、16:00



10:10に大阪を出て以来今まで何をしていたか?!
眠ったり、
話したり
東京で中学の先生の人や
会津若松の女の先生
秋田で体操の試合だそうです




19:40
15分遅れて出航
何故ひとりできたのか?!
そんなことばっかし自問自答してます




この汽車は走り続けていく



札幌から
その日の夜のYHへTEL
あしたの宿(稚内のYH)へTEL
北大寮へもTEL
夜、船は遅れて出たけど
結局きちんと時間通りにつく




赤平の女の子に会ったのも
この時デッキへ行ったら
その前に彼女たちの席の中へ
酒に酔ったおじさんが入ってきて
散々になったので、




デッキへ逃げた彼女たちと
たまたま??デッキへ出たオレが
会って話すきっかけになった




デッキへ逃げたのは
彼女たちだけじゃなく、
とにかくおじさんが入ってきたフロアーに座っていた男の人たち
(その人たちは山に行くような格好だった九州だって)
も同じく逃げてきたそうでした
割と船は揺れて参りかけた頃、
函館オレは彼女たちと同じ各停に乗ったわけ




******



このころは、急行「北国」がまだ走っていた。
北陸トンネルで大事故がまだ鮮烈に記憶にある。
自省的な想いが次から次へと浮かぶ……。



8月7日の午後に家を出ています。



夕方、大阪駅に着いて、
急行「北国」の発車が10:10だったんでしょう。



まだ二十歳にもなっていなかった私。
旅なんて、はじめてです。



どんな会話をしたのか。
記憶にないが、
狭いボックス席に
一日じゅう座って、
話をしました。



青函連絡船に乗りました。



不安と希望が交錯していたみたい。



メモは、
思い付いた時に、
書きなぐってありました。
そうだ。



赤平という土地の名前を知ったのは
この女の子たちに会った時が初めてだった。



もちろん、函館から札幌まで
一緒に乗っていたことだけ記憶にあるだけで、
どんな様子かすっかり忘れた。



******



雨は、
大阪を出てその夜以来ずっと降っている




札幌の駅前なんかは有珠山の噴火で
すごく火山灰が降っている




バイクの彼と話をしてもしかたないので
その山でも見てみるかと思い




函館行きの急行(すずらん2号)
8:54に乗る




支忽湖へ行こうと思い
千歳、苫小牧で下りようととも思ったけど




まず火山へ行こうと思った
雨は少し緩くなって




少し青空もあった



火山はかなりひどいそうなので
「東室蘭」で下りて
室蘭の方に行こうと思ったけど




ちょうどそこへ札幌行きが来て
それに乗ってまた戻ってきてしまった




それが(午後)1:00少し前



またまた駅で暇になって
中之島YHへ電話をしても満員だし




「小樽へ行こう」と
改札をくぐったのが
(午後)2時少し前で




「やっぱしやめ!」と思って
また出る




駅の前でぐるぐるしていて
それからラーメン(350円みそ)を
食べたのは駅の地下食堂街でのこと




思いきって大通り公園にへ出てみた



タワーの見える所で
ベンチに座りボーとしていたら
寝袋とリュックを持った人が
隣に座ったので
話しかけた




いろいろ話をして
地下街へ行ったりして
アイスコーヒーを飲んで(250円)
時計台へも行った




その前に銀行で3万円をおろした



駅でかなり長く話をしてた
階段に座り込んで……




PM5:30ころ
裕の家でも訪ねようと思い立ち
案内所へ行って








北27東2を聞いて
途中(地下鉄北24まで)行って
帰ってきた




18条で下りて
今大学寮にいます




PM6:30
北大寮へついた




今日1日を振り返ってみて



昨夜
船の中で知り合った女の子2人は
金沢、能登へ行ってきたそうです




函館から彼女たちと一緒に各停に乗った



予定を変更して
札幌についたのは7:30過ぎ、
(ほんとは6時の予定)




駅の前や中を行ったり来たりして
バイクできた大阪の人に会う




仕事を辞めてきたんだって言ってた
(その前に新聞を買った)




******



面白くて懐かしいのは私だけかも知れません。
所々、記憶と違っていたり、すっかり忘れていたりしてます。
読むと、あの時の必死にもがいている様子が甦ります。



札幌の初めての夜は、北大の寮です。
その辺で寝てください、
と言われて適当な部屋に入って、
真っ黒な布団に潜り込んで泥のように眠った。



夜中に人の出入りがあったようだが
ほとんど、気づかずに眠ったのを思い出す。



この時、大通公園でバイクの人に会っています。



バイクなんてまったく関心なかったみたいで、会話の様子はまったく残っていない.





■ 少年は北へ─その2





当時はまだ、子供です。
大学1年生です。



親のスネかじって働くことの大変さ、
重さ、辛さ、喜び……
何も知らない
雛(ひな)より哀れ。



しかし
その時にしか感じることができない様々なものを、
一生懸命に手探りしていますね。



******



8/9日
北大寮にて




ずっと長く書いてきたけど
まとめますと




初日から雨が降るし、
1日何もしないつまらない日になった




もったいないと思う少々不安になってきて
どうしようこの旅、
成功させたい




さっきからしきりに反省している
親の言うことを聞かずに飛び出したりして
お金もスネをかじって
7万も8万も使うオレは
ほんとうにいけない子だ、
と思う




出てくる時、
母ちゃんがくれた10円玉、30個に
涙流したらだめだよ




このあたたかさ、母ちゃんありがと



******



私の家は貧乏だったので
大学に進学するような余裕はなかった。



でも、私が言い出したことだからといって
親父はせっせと仕送りをしてくれました。



荷物の中に、
鉛筆で書いた走り書きの手紙が
いつも入っていました。



逝ってしまってから、
その意味がわかるんですなー。



******



8/10



積丹半島へ行って
神威岬を見学




売店の女の子に手紙を出したのが思い出



返事がくるかどうかは別問題



帰りはヒッチハイクで
ずーと美国まで




頭の中にたたき込んでおくべし



1) 2台連れのアベックの方
2) 3人親子
3) 老人夫婦
4) 親と娘さん
5) 土方の人夜行で稚内へ直行




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ヒッチハイクをした人をメモしてある。



土方の人は記憶にあります。



だって、大きなリュックをトラックの荷物台に放り投げるように言うんだもん。



飛んでいったら大変だから心配でした。



宿に泊まる金がないので、
夜行列車で移動しました。



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8/11



稚内から
すぐ礼文桃岩YHへ




絶対来年も来るべし
この旅、長くつづくだろう、
つづきそう




それでも汽車は走り続ける



空と海がまざりあう時
長い夜が終わり
空が明るくなってくる




旅をするオレたちは
そんなことに感激してる暇はないんだ




じっと遠くを見て、
じっと遠くの島をみて




動く景色を忘れちゃいけないんだ
時にはひとりが寂しいけれど
オレたち旅人同志だから
寂しくなんかないんだ




自由になれる、
自由になろう
この旅続く限り、
続けたい




8/13



十勝岳
白金温泉から望岳台へ登り
すこし登りはじめたら
長袖を忘れたのに気づく




割と早く引き返して
かなり残念旭川駅でゴロゴロ




結局、2泊する



(旭川YH)



夕食、バツグンだった
meeting、まあ楽しい方で




******



少し旅にノリが出てきたかな。
旭川駅のロータリーの真ん中の芝生で
寝ころんでいたらOLの二人に声かけられて、



あくる朝にもそこで横になってたら大声で
「そこで寝たんですか?」って聞かれたなあ。
注目だったの。




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8/14



本日は黒岳まで
ヒッチハイクと




留辺蕊へ泊まる予定です



どうぞ、
うまく自動車、
止まってくれますように




天気、バツグン
朝すこぶるさわやか




黒岳に登って
ヒッチで留辺蕊へ




リフトの下までひとり



上川までひとり
その人が駅を間違えてダメ




また乗っけてもらった人が
留辺蕊まで




8/15
留辺蕊から北見までヒッチ
そこから美幌峠までヒッチ
そこから屈斜呂湖まで
砂湯まで
摩周湖まで
弟子屈まで
阿寒湖まで、
2台
オンネトーの前YHまで
計9台




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ヒッチハイクは順調でしたが、
大雪山から東に向かう
あんなメジャーな国道でも
車は止まってくれない時間が続いた。



歩いたなあ。



今考えてみると
観光の人が多かった分だけ
汚い浮浪者みたいな奴は
乗せたくなかったんだろう。



やはり車というのは閉ざされた空間……なんだ。





■ 少年は北へ─その3





山に登ることに出会う人は北海道では多いと思います。



森林限界が標高の低いところから始まるので、
景色を見ながら登る楽しみに出会えます。



登りきれば、そこには確実に自分だけの景色が待っていますから。



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(8/15)



美幌峠はよかった、
抜群屈斜呂湖は
泳げば良いだろうけど




人が多すぎて
摩周湖は車の列がすごくって




湖は綺麗、抜群



雲が映っていて、
山も映っていて
少し行くと牛なんかいたりして




今日は全然金の要らない日



8/16



7時間コースに行く



8/17



雨降りとなり1日ゴロゴロ



8/18



朝、雌阿寒岳へ登ってご来光!



とはいかずに
少ししか見えなかった




とっても残念
でもあの雲海を忘れるようなことはないはず




山はいつもどんなことがあって
裏切ることはしない




朝、見送りを盛大にして
野中温泉YHを飛び出す




知床へとヒッチハイク、
すごく順調




明日はどんな風が吹くのやら
とっても楽しみだけど不安!




尾岱沼へも行きたくなってきた



******



野中温泉YHでのイベントや出来事は、
二十歳前の私に取っていい人生経験だった。



今ではあんな遊びも会話もバカも出来ない。
今なら温泉に浸かって湯上がりに旅の薀畜をたれる……
そのくらいしか出来ないだろう。



いかにも「じじい」らしい。



若者は若者らしい旅をして欲しい。
最近の若者の旅は、
いろんな意味で充分すぎる気がする。



******



8/19



トドワラへ行った



北大、ケイテキの人に会った



根室標津の駅のそばから駅まで
トドワラは神戸の人、2人組
ウトロのヘルパーの自転車の人にも会う
車3台




根室標茶
16:00に乗って




今は釧路



全車指定に乗った為に
1000円も必要




がっくりきたところ



途中で高3生に会ったりして、
結構楽しくする




広さに少しびっくりしたけど
多少慣れたこともあり




何となく終わりに近い
この旅を
悔やむ




最後は
満足のいくように
終わりたい




******



旅の原点は、
貧しさの中に雑草のように芽生える好奇心。



それを実現しようとする行動。
しかもそれは衝動的なもので最初は、失敗に終わる。



やり残しを私は宿題と呼んでいるが、
宿題を解決して新しい宿題を戴いてくる執念。
絶えることの無い好奇心。
そして感動することでしょう。



文法には「命令形」という表現がありますけれど、
「失敗しなさい」「感動しなさい」という命令形は、
文法上のもので実在できない。



喜怒哀楽に対する命令形は存在できないのだ。



「悲しめ!」と命令されても、
そんなことコントロールできない。



******



かけていっていって
思わずあげた感激の声に
君はあいづちうった
波の音にまぎれて
消えたけれど
心にいつまでも
こだましてた
くちづさむ歌に
終わりがきて
その日にも
終わりがやってくる
旅を続ける僕の前の




******



メモは途切れている。



私の心にどんな変化が起こったのか。
私だってわからない。



人生なんて無駄の繰り返し。
いや何事も無駄だらけ。



それを認められない人には理解できないでしょうけど、
こういう無駄が人間には必要なんだ。
最初から無駄無く、効率よく、手際よく、格好よく、
スマートに夢を実現したら、それは、「夢を叶えた」とは言えない。



******



8/20
SAT
朝5:00




北へ走る汽車は
もうここで止まってしまう




朝のあけた街なみへ
ひとりで踏み出せば
何だか旅を続けて
今励まされて




・青い空と広い海と小さな船の向こうへ
 このままずっと歩いていけたらもしかしたら
 ひとりになれるのかも知れない




・沈む夕日見つめてた岬の砂浜で
 出会った恋なんか棄てたほうがいいんだ
 忘れてた方が ムー




・ぼんやり思う揺れる汽車の
 揺れる子守歌閉じるまぶたの
 そのうらに君の姿??に手を振っている




・旅は続く汽車は走る
 長い道と一緒にどこまでも
 街のあかりどっかへ去って
 星が窓に映る人に会って




 その人が僕と話してくれた
 ただそれだけで嬉しい純なボクには
 それがすぐ恋に変わってしまう
 男の人でも懐かしくなってくる
 住所を書いた人書いてもらった人
 出会いとはここに真の姿をひそめていたのでは……
 と思ったりする




 昨日会った高校生
 自分が高校の時は何をしていたかなーって
 考えさせるような子たちせ




 めて名前だけでも聞くべきだった?!
 それとも中途半端なことをやめて
 このままか住所まで聞いとくべきか




 まあいいけれど根室標茶の駅で
 一緒に話した北大ケイテキの人




 さわやかで根性のありそうな人
 男はああでなくちゃ
 来年は自転車




8/20
PM6:00




とうとう帰路につきます



ほんとうはもっといたかったけど
軟弱な精神を暴露して
登別に行っても
登別には行かず




あそこに行けばよかった、
って思うところもあるけど
来年にします




人より変わった旅をしてきた



観光ブームに乗って
押し寄せる人の波に
紛れることなく楽しんだつもりだ




だから他の人は
すごくつまらない旅をしているのではないか?!
と思う




何故こんな苦しい思いをしてまで登るのだと
心の中で叫びながら
はいあがった感じの黒岳




瓦礫の原の十勝岳
山は俗化されていない




自然の美を求めるのなら
山だと思う




神威岬も素晴らしかった



あの海の色
真の自然だった




来年は絶対に登りたい山、山だけ



反省として



いちばんにあげることは
無計画が時間をむだにしたこと反面、
人との触れ合いを大切にしたことは
良かったのではないだろうか?!




8/21
PM8:10




今、八甲田を下りた
長い旅も終わろうとしている
たるかどさんと急行の中では
ともにして
帰りも
比較的楽だ
樽角京子




******



ここで書いていることなんて、
狭い世界の自己満足なんだろうけど、独特の感性を持っていますね。



今でも、あんまり変わっていない点もある。
逆に、恥ずかしくて、赤面の部分もあります。



帰りの急行「八甲田」の中で
ずっと一緒に私の相手をしてくれた人は、
樽角京子さんという人で、
品川のキャノンの本社に勤めていた人でした。



当時、25─6才くらいかな。
素敵な人だったんでしょうね。



私には姉がありませんし。
もしかしたら私から電話をしたかも知れないけど、
子供なんて相手に出来ない……と、
それきりだったのかも知れない。



その頃の私を想像すると、
OLなんて興味なかったし、
年上なんてそれほど好きにもなれない年頃だった。



恋人も切々と欲しいと思うわけでもなかった。
エッチ度も今より低かっただろうし、
清かったんではないだろうか。



では、何故、名前がメモしてあるのか。
エッチは期待しないような
好意を彼女に持ち始めていたのでしょう。



彼女は『チャタレイ夫人の恋人』の文庫を持って、
話の合間に読んでいた。



まだ彼女の素敵さが
本当に理解できるほどに
私は成熟していなかった。





■ 少年は北へ─北海道77 あとがき(2001年記)





あれから24年が過ぎようとしている。



歳月人を待たず
(Timeandtidewaitfornoman.)



積み上げられた年輪に、
tideという言葉の響きが何ともいえない余韻を残す。



東京での就学を終えて
京都という街で
新たな生活を始めたのが
24歳という年齢だった。



私にはこの24というキーナンバーがあって、
ちょうど77年の北海道から24年後に北海道日記を回想したことになる。



決して偶然ではなく、
私の人生においては24というある意味を持った周期が、
もしかしたら重要な意味を持っているのかも知れないのだ。



私の知らない運命の数字なのかな…って思ってみたりしている。
旅は偶然から始まった。



ふと手にした
北海道のガイド本の刺激で
夜行列車に跳び乗って、



ヒッチハイクをしながら、
行く当てもなく、
金もない、
さすらい旅に出た。



自らを「旅人」と呼び
「旅行者」と区別して、
明日、明後日の筋書きを決めて行く旅を嫌った。



疲れたら休めばいい…
と思って歩き続けた。



夏といえども熱い日差しが照りつける日があった。



ヒッチハイクの手を挙げても車は
一向に止まってくれなかったことだってあった。



このまま歩きつづけたらどうなるのだろうか、
今日はどこまで行けるのだろうか、と不安にもなった。



ひとりが寂しいなあと弱音も吐いた夜もあった。
でも、もう少し行こう。



地平線の向こうまで行って何があるのかを見てみたい…
と心は燃えつづけていた。



支出メモには



ラーメンが一杯350円と書き残してある。
ユースホステル(YH)は素泊まりで1150円。
新聞が50円。



鶴橋から大阪までの環状線が80円だった。



友人に餞別を貰いながら何も手土産なしで帰ってきた。



他人から受けるご恩に感謝して応えようとする心などない。
自分ひとりで生きているんだと思っていたわけでもないのだろうけど、
世の中をまだまだ理解していなかったことがひしひしと分かる。



1977年(昭和52年)頃、登山や気まま旅をする人たちが
布製の大きなキスリングを背負って歩く姿は決して珍しくなかった。



(あれをカニ族と呼んだ)



だから、早朝、札幌駅の正面玄関の脇には
夜行列車から降りた旅人や宿賃を節約する
ネーチャーな若者が寝袋に包まって寝ている光景は
ある意味で夏の風物詩だった。



私の旅はふた昔も前のものになってしまったが、
貪りながら見知らぬ街を彷徨い、
好奇心に反応し続けた点で大きな価値があった。
歩き続けながらヒッチハイクをする。



便乗させてくれる人は
みんなおしゃべり好きな人ばかりだった。



方言がきつくて、まったくわからないこともあったし、
夜間登山のあくる日で眠くて、
せっかく乗せて下さっているのに居眠りをするような無礼もした。



新婚旅行のカップルにもお世話になったことがあった。



みんなが優しかったし、現代のような不信感もなかった。



徒歩+ヒッチハイクという旅の形を経験した人の多くが、
チャリダー(自転車の旅人)になり、バイクツーリストになってゆく。



社会人には贅沢に過ごせる時間が無いから、
やむなく自転車や徒歩を諦めるのである。



旅の形態は時代と共に変化し、
あの頃には存在しなかった「卒業旅行」という言葉も定着した。



若者は貧乏から抜け出した。



「苦学生」という言葉は死語になっている。



だがしかし、
井戸の水をつるべで汲み上げバケツで運び
風呂釜を満たしたほんの40年ほど昔には、
その作業自体に大きな意味があったように、



つまり、
一日の労働で何が一番辛かったのかと振り返れば、
野良作業で疲れきった身体で「風呂の水汲み」という
その日の最後の労働をすることだった、
と母がいつか話してくれたことからも分かるように、



きっとこんな時代には、
誰もが水を大事に扱い、
髪を流す水さえ疎かにしなかったはずで、
貨幣の価値よりも水の重さが勝る時だからこそ水不足もないし、
お隣同士がお互いを気遣うことさえ何ら重荷にならなかったことが想像できる。



だから、苦労をしなさい!と言うわけではない。
原点を知ろうじゃないか、と言いたい。



初めての旅として
北海道を歩き回ってから3度、
私は北海道を再訪した。



廃村になって朽ち果てた小学校、
廃線になって
草が茫茫と生い茂り立ち入れない踏切跡も見てきた。



24年が経った今、私は原動機のついた二輪で旅を続けている。



その昔、旅人が馬をひいて越えた旧街道の峠道を越えることがある。



芭蕉が越えた山刀伐峠や竜馬が脱藩の時に越えた韮ヶ峠にも立った。



人々の心は、
歳月と共に変化し



過去の文化風習は
単なる史実となってゆくのだろう。



社会が進化して
経済が豊かになって
心が満たされても
それは貨幣の価値が上がるばかりで、
文化の値打ちはなおざりにされてしまっている。



何不自由なく何でもこなせることが、
本当に人類にとって幸せなことなんだろうか…。



ふと湧き出た冒険心が、
やがて未知なる大地を夢見て駆け巡る憧憬に変化し、
私はいつしか旅人になっていた。



20時間も座り続けた青森までの列車の中で、
入れ替わり立ち代わり私の話し相手をしてくれた人たち。



帰りの急行の中で東京までご一緒した樽角さん。



そういう人たちのおかげで
私は今もなおひとり旅を続けています。



きっとこれからも…。



長い連載でしたが、
読んでくださった皆さん、
ありがとうございました。

2009年5月11日 (月曜日) Anthology 旅の軌跡
出典 walk don't run ブログ

銀マド |