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たたら製鉄を訪ねて奥出雲へ

南部鉄器を色々と触っているうちに、和銑(わずく)洋銑(ようずく)という2つの鉄の種類に出会うのだった。日本古来の鉄である和銑は砂鉄をもとに作っていくのに対して、洋銑は鉄鉱石を原料に作る近代的な作り方だ。南部鉄器でお世話になっている釜定の当主の宮伸穂さん、こう教えてくれた。

「顕微鏡でみると組織構造がまるっきり違う。ほら、音を聞いてみて2つの鉄の違いを聞いてみてください。」

そう言って、南部鉄器の蓋の部分をつるして、鉄の棒で叩いてみた。まずは洋銑から、チンという音がスタッカートで小さな部屋に跳ねた。そして和銑、チーンというまるで風鈴のようなキレイでサステインが部屋を充満した。宮さんはこう続けた。洋銑はもって100年ほどで錆びて朽ちてしまう、対して和銑は1000年ぐらいは大丈夫と。

そこから僕の和銑探しが始まった。調べていくとそこは奥出雲の吉田という場所だった。岩肌を削って砂鉄を川に流して重量のバランスで砂鉄のみを取っていく、良質な砂鉄と粘土。そしてこのあたりでは赤松が群生している、燃焼温度の高いその赤松が大切だった。全てが揃っている土地が、出雲大社から南に小一時間ほど車を走らせた場所、吉田にあるという。この古来からの和銑の作り方をたたら製鉄という。たたら(蹈鞴)とは「足で踏んで空気を吹き込む、大型のふいご。」のことを指す、正式にはサンスクリット語でふいごの踏み板のことを指すらしい。そういえば、「地団駄を踏む」という言い回しは、「地たたらをを踏む」という表現が転訛したものだ。そしてこの重労働をするふいごを踏み続ける人たちを「番子」(ばんこ)と呼んだ。そうこの力仕事を「代わり番子」したことから、今でも「かわりばんこ」という。

丹後のあたりから山と川を越えて、この技術がこの辺りの奥出雲に伝承されたのがちょうど7世紀のこと。最初は風が流れる傾斜地に作った野だたらからスタートし、屋根の高い建物の中に年中たたら創業ができる永代たたらが生まれた。たたら製鉄には2つの方法があり、砂鉄から直接製鉄をかけるケラ押し法。ケラとは「鉧」という文字の通り、金の母である。このたたら創業でかかる時間は70時間ほど。500キロの砂鉄と松の炭1トンを使って出来上がるのが150キロ程度のケラ。歩留まりは30%程度。そのケラの30%程度が「玉鋼」(たまはがね)に選別される。この玉鋼が日本刀の原料になったのだ。

当時北前船の下りルートで、鉄と綿を詰めた船が日本海を北上した。今でも京都や北陸地方で刀鍛冶、そして鉄にまつわる産業が多いのはこのルートで物流が行われたことに他ならない。残念なことにこのたたら製鉄は1923年を最後の操業をもってこの地から消え去ってしまった。現在は国と日立製作所が支援する日刀保たたらと、地元での名士である田辺家が復活させた「たたら製鉄プロジェクト」の2つのたたら製鉄プロジェクトがある。

吉田の地は現在1600名の過疎地となっている。この吉田をたたら製鉄でもう一度復活させたいという想いが、このプロジェクトへの投資となっているのだという。ちょうど岩波映画が昭和45年に製作したたたら製鉄のドキュメンタリー「和鋼風土記」を拝見させていただいた。たたら操業を仕切る村下(むらげ)と呼ばれる人々を中心に、当時のたたら操業の歴史と一連のたたら操業を追いかけた素晴らしいドキュメンタリーだ。村下たちは長い時間、炉内を観続けるので片目でみて、また片目でみることを繰り返すらしい。それでも最後にはすべての視力を失う、日本の鉄づくりは壮絶なる世界だった。

雪が積もる吉田の地で、灯油ストーブがなければ数分いるだけでも寒い家屋の中、炉を前にして土の上でじっと佇む。盛岡で聴いたあの音がどことなく聞こえてくる気がした。そろそろ盛岡に戻ってもいい頃だと思った。

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