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夏の終わりの京都、圭子おばちゃんを偲んで

僕の米国行きをあと押ししてくれたおばあちゃんのような親戚がいて、京都に行くたびに電話したり顔を出していたりしてたのだけど、最近はすっかりご無沙汰してしまっていて、つい先日急に電話が鳴った。圭子おばちゃんからだった。「寿人くん元気にしている?早く京都に来て会いに来てちょうだい、おばちゃんももう歳だから。」おばちゃんから弱気な発言を聞いたことは一切ない。おそらくこの時が初めてだったのではないだろうか。93歳である、一人でタクシーに乗り買い物にも行く。見た目と声だけはとてもその年には見えない女性、僕の中で女性は強いという原風景になっているのが彼女の存在だ。今年は親父が旅立っていった年でもあり、僕の中で生に対していつもよりとても敏感になっている。今思えば、久しぶりの彼女からの直電はいずれ訪れる終の時間が近いことを知らせる電話だったのかも知れない。

月日が経ちおふくろから圭子おばちゃんが入院していて、緩和医療に移ったという。親父も緩和医療に入ってから一週間ほどで旅立ったこともあり、彼女の中ではすぐにでも会いに行くという連絡だった。僕もアメリカ出張前のスケジュールをやりくりして弾丸でお見舞いに行くことにした。妻も娘も連れて数時間の京都である。病院ですっかりやせ細ってしまった圭子おばちゃん、肌艶はとてもよく目を開けるとあのときの元気な姿が思い起こされる。初めて妻と娘を紹介する、「あらかわいいわね、いくつなの?」そんなやり取りをしながら優しいそうに笑う。午前中はずっと休んでいたらしい、だからこうして明瞭にやり取りができるのは奇跡だったのかも知れない。あまり長いするとつかれてしまうだろうから、そろそろ失礼しようとしたところ、娘に大きな声でバイバイと手を振る。プリンも3口食べたおばちゃん、娘に会って奇跡が起きるかも知れない。そうして東京に戻ったのだった。

訃報が届いたのはその翌朝だった。色々な虫の知らせがあった、家族も連れて行けて最後に会いにいけたことが何より良かったと思う。最後に少し賑やかな時間を一緒に送れたことがおばちゃんとの僕の最後の思い出であり、そして娘にとって最初の思い出となった。人の一生というのはとても短い、すべてにおいて長いストーリーがあって、触れ合うのはその一瞬なのだが、ご縁あって交差する糸のような交わりを振り返っては懐かしむのだった。

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